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外伝2話 ─ 中段 ─

 入学早々に難癖をつけてきた四人組に、最初はいちいち反応を返すのも面倒くさくて、言いたいように言わせていた。しかし、そこから左手に着けた手袋へと矛先が向いたことで状況は変わった。
 面白おかしく手袋を着ける旬を揶揄うだけならよかったが、その内手袋を外せと言ってくる。幼稚な弱者いびりだと相手にせずにいたが、四人組の一人が無反応な旬に焦れて無理矢理手袋を外そうと手を出してきた。
「っ!」
 触れそうになった指に咄嗟に殺気が出そうになったのを寸でのところで押し留める。こんな二十歳にも満たない若造相手に大人気なさすぎると思い止まったのだ。
 そんなに見たいのならと旬自ら手袋を外せば、彼らの想像以上のものが出てきたのだろう。一様に目を逸らして今度は早く手袋を着けろと怒鳴ってくる。
 バツが悪いのか、旬の手の傷を気持ちが悪いだとか薄気味悪いだとか罵りながらその場から立ち去っていくのをやれやれと嘆息することで終わらせようとしたのだが、一部始終を影の中から見ていた彼らはそういうわけにもいかなかったようだ。
 あからさまに殺気を放ち、四人組に報復をしようと飛び出していくベルは言わずもがな、他の影たちも不穏な気配を隠すことなく周囲に撒き散らかしてくるから、それを宥めるのに骨が折れる。
『あんなのは子猫の戯れと変わらない。いちいち突っかかるな』
 それでも納得がいかない彼らに少しだけ四人組に悪戯を仕掛けることで大人しくさせる。ベルはまだぶつぶつと文句を言っていたが、それでも旬が命令すれば素直に影の中へと戻っていった。
“あとはアレをどうするか……だな”
 熱り立つ影たちの中で、一人だけ彼らの輪から外れて様子を見守っている者。
 左手の傷痕のことのなると途端に旬を見ることなく、後悔と自責の念でその場に傅いたまま微動だにしなくなる、愚かでしょうがない、誰よりも大切で愛しい存在。

 ジリ……────。

 彼のことを想う時だけ、傷が熱を帯びる。
 手袋越しに無意識に左手を摩れば、彼の眉間の皺が更に深くなる。きっと未だ傷が痛むと思い違いをしているのだろう。痛みなどとうの昔に消えてなくなっている。ここにあるのは、竜帝の攻撃から彼を守った証しか残っていない。
 それを何度も言い聞かせているのに、未だこの傷を見ると苦しげな顔をする。
 既にチャイムは鳴り、次の授業が始まっているが、旬はもう講義を聞く気は起きなかった。それよりも落ち込んだままの仕方のない恋人をどうにか浮上させることの方が大事だった。
『イグリット、あとでちょっと付き合って』
 心の中で話かければ、躊躇いながらも承諾の意思を示してくる。ただ、教科書の開いた机上で自分の指の下にできた影が小さく揺れているのが、今の彼の心情を物語っているようで、旬はひと度、誰にも気付かれないように吐息を吐いたのだった。



 放課後、皆が帰宅している中、旬は立ち入り禁止とされている校舎の屋上へと来ていた。
 陽は大分長くなっていたが、それでも四月の夕暮れ。茜から紫紺のグラデーションが西の空を彩っていた。
 視線は校内を帰宅していく生徒らに向けたまま。
「イグリット」
 発した声は静かで何の感情をも乗せられていない。しかしだからこそ、それが却って旬の中に感情が渦巻いていることを知らしめてしまう。
 主人に喚ばれた影は音もなく足下へと跪く。頭を少しだけ下げ、主人の言葉を待つ影の目の前に左手を差し出す。
 流石に態度に出すことはなかったが、一瞬だけ彼の目元が揺らいだのを旬は見逃さなかった。イグリットを見下ろす視線がきつくなりそうなのを意識して緩ませる。
「外せ」
 けれども、声は先のようにはいかなかった。彼の態度に知らず平坦な口調になってしまう。二人きりの時は命令なんてしない筈なのに。
 自分自身の言動で自己嫌悪になりながらも、出した手を掬い取り手首の布地に指を掛けてくるイグリットの指に意識が集中する。
 両手指でそっと外された手袋から見える自身の手指は、数時間前に見た時と変わらず醜い傷痕を眼前に晒してくる。傷痕と言っても皮膚が爛れたままだったりケロイド状になっているわけではない。ただそこに旬が行動した結果が証として残っているだけだ。
 但し、ただの結果ではない。
 己にとって唯一無二の存在を守ったことでできた証。
 これを見る者は皆一様に気味悪がるか痛ましい顔を見せてくるが、それが旬には理解できない。否、客観的に見れば酷い傷痕なんだろうが、旬はこの痣が愛おしくて堪らなかった。
 己の身体は傷を負っても残ることはない。日常的な些細なものはもとより、戦いで負った激しい傷でも、祝福の力で最初からそこに何もなかったかのように綺麗に修復される。
 そして、それは愛する者からの所有の印も同様だった。
 短い夜を互いに求めあったとしても、次の日にはそれが夢だったかのように何の痕跡も残ることはない。まるで自分たちの想いや感情はまやかしだと言われているようで、いつしか己の身体に痕を残す行為を拒むようにもなった。
 だけどこの傷痕だけは違う。
 あの時、旬の心を占めていたのは、ただイグリットを失いたくないという強い想いだけ。竜帝のことも地球を守ることもあの一瞬だけは旬の心の片隅にもなく、あれが直撃すれば永遠にイグリットを失ってしまうだろう事実だけが旬を奮い起こさせたのだ。自分の身体がどうなるかなんて、その時は露程にも頭になかった。
 その結果がこれだ。
「お前の目にもこれは気味が悪いか?」
 手首から指先までに木の根が無数に広がったような傷痕。旬にとっては勲章のようなものであっても、周囲からすれば醜い傷痕でしかない。もしもイグリットにさえも気味悪がられているのであれば、表面上だけでも痕が見えないように変えるべきなのかもしれない。姿形を自在に変化させることができるのだから、本来の身体からは消すことはできずとも皮膚の一部を模造するくらいはできるだろう。
 本当はまやかしであっても痕を消すような真似は、イグリットへの想いを消してしまうようでやりたくはない。やりたくはないが、この痕を見る度にイグリットの目に嫌悪を見てしまうくらいなら、彼の視界から消した方がいいのかもしれない。
 旬の問い掛けに未だ返事を返さないイグリットに対して、段々と思考が悪い方へと向かってしまう。
「本当のことを言ってくれ」
主君を傷つけないようにと言葉を言いあぐねているのなら、そんなことは気にしなくていいと伝える。
「この痕を見ると嫌な気持ちになるのだったら、お前の目に触れないようにもするから」
 しかし、そこまで言ったところで取られていた指を今までよりも強く握り締められ、その手の甲へと口付けを落とされた。
「イグリッ」
『主君が思われているような嫌な気持ちになどなることなどありません。嫌悪を抱くとすれば、己の油断により、お守りするべき主君の身体に消えることのない傷を残してしまった自分自身にです』
 許しを乞うように旬の手のひらに額を付ける。後悔と自責の念が言葉の端々から伝わってくる。
 確かにあの時、イグリットは生を諦めた。それは旬の目にも明らかだった。竜帝の攻撃に何ら抵抗をすることなく、迫る閃光を甘んじて受け入れようともしていた。
 ふと初めてイグリットを抽出する時、彼に言った言葉を思い出す。
「目の前にいる俺を守ってくれ」
 旬の言葉にイグリットがハッと顔を上げる。
「確かにお前は罪を犯した。だがそれは俺の身体に傷痕が残ったことじゃない。約束を守ることなく、俺を置いて死を選んだことに対する罪だ。お前は俺を守る騎士だ。俺よりも先に死ぬことなど許さない」
 この手の傷痕を醜く思っているわけではないことに安堵したが、彼が未だあの時のことを後悔していることに溜め息が出そうになる。
「俺はお前を守ったことを後悔していない。だけど、お前が後悔しているのなら、今度こそどんなことがあっても生きることを諦めるな」
 旬があの時どれ程までに恐怖したかイグリットは分からないだろう。
 愛する人が目の前で消滅しそうになったのだ。
「今度また生きることを諦めたとしても、その時も俺は何度でもお前を庇うからな。それで俺が死んだとしても、お前も一緒に消滅するだけだ。その時、己が消滅するのはお前を庇って俺が死んだからだと、消えゆく最後に後悔すればいい」
 それが犯した罪に対する罰なのだと、足元に跪くイグリットへと言い捨てる。表面上は冷ややかに。内心では旬の言葉でどうにか自分を置いてイグリットが命を投げ捨てることがないようにと祈りを込めて。
『私は……』
 言いあぐねているイグリットに更に言葉を重ねる。
「俺のことを守れ。だけど俺より先に死ぬことは許さない」
『しかし、それでは私に主君を先に失えということでしょうか……っ』
 苦しげに言ってくるイグリットを旬は一笑する。
「何言ってんだ。誰よりも強く剣を振るい、負けることなく敵の攻撃から俺を守ればいいだけだろう。そうすれば俺もお前も永遠に死ぬことはない」
 できないのか?と、言外に告げれば、後悔しか見せていなかった瞳に漸く彼の意思が宿る。強く気高い騎士としての矜持と忠誠を宿した焔。
 それに満足した旬はイグリットの手を握り締め、自分の方へと引き寄せる。そのまま自然と正面で立ち上がったイグリットに一歩近付くと、彼の口元へと手の甲を差し出す。
「誓え」
 先と変わらぬ仕草であっても、今度の命令する声音には想いあった相手にしか分からない甘やかさがあった。勿論、それにイグリットが気付かないわけもなく、旬の期待通りに傷痕の残る指先へと口付けを返される。
『主君を永遠にお守りいたします』
「主君?」
『貴方様を』
 言葉遊びのような応酬は既に恋人同士の戯れ。
 触れる距離にある相手の身体へと腕が伸びる。ひと組は首へ。もうひと組は腰へと。

 夕陽に長く伸びた影が綺麗に一つに重なった────。


**********
旬の左手の傷痕がビジュアルで確認できたの良かった♡
どんな怪我も祝福で綺麗に治るのに、竜帝の攻撃を、しかもイグリットを庇って負った傷が痕となって残ったら、そりゃあイグリットだったら絶対気に病むって思って書いた話です(*^^*)
それと!イグリットが再生できず消滅する程の攻撃を身体を張って庇ったのって、やっぱり愛だと思うのですよ(≧∇≦)
旬の傷痕ネタはもっと掘り下げて書きたいところなのですが、今回は軽めに。
外伝でイグリットの独白回をやってくれると信じてますので、その時にまた書きたいです(*^^*)

初出:2023.02.09

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