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外伝1話 ─ 中段 ─

 今は誰も使っていない、廃墟となった建物の中。
 犬飼は犯罪者たちの妄言を確証する為、有り得ないものが現れるのを他の刑事たちと共に待っていた。
 いい大人が、しかも警察官が科学の発達したこの現代で、非科学的な現象が起こることを待っているなんて滑稽としか言いようがない。しかし、ここ最近警察署に自首してきた犯罪者たちが口を揃えたように言う“影の化け物“の正体が何なのかを調べることも、市民を守る警察の仕事と言えなくもなく、目の前にいる犯罪者の言うリミット24時間を待っている状態だった。
 調査に同行している同僚たちは無論、犯罪者たちの言い分を端から信じてはいない。幽霊だの化け物だの馬鹿馬鹿しいと、時間が来るまで緊張感もなく談笑をしている。目の前にいる手錠で繋がれた男だけが、これから起こるかもしれない事態に恐怖しているといった奇妙な光景が犬飼の目の前で展開されていた。
「時間です」
 同僚の一人が腕の時計を見ながら伝えてくる。
 しかし、時間になっても彼らの言う“影の化け物“は現れなかった。
 無駄足を踏ませやがってと、悪態を吐く同僚たちと、呆然として拍子抜けする男。
 そんな中、犬飼だけが緊張で身体を強張らせながら周囲を警戒する。
 ここへ来た時からずっと感じている違和感が強く纏わりついて離れない。まるで誰かに監視されているようで、呼吸が上手くできないのだ。
 そしてそれは唐突にやってきた。
 音もなく、廃墟となったビルの混凝土の床からゆらりと黒い煙のようなものが立ち上がったかと思えば、あっという間に犬飼以外の刑事たちはその黒い何かによって壁面へと吹き飛ばされる。
 驚きに身体が硬直した犬飼の目の前で、それは姿を現していく。虫のような顔つきに人のような両手両足を持つ化け物。犯罪者たちが口を揃えて訴えてきた“影の化け物”がそこにいた。
 化け物はそのまま『約束通り』犯罪者を亡き者する。四肢を跡形もなく食べ尽くしたそれらが次に視線を寄越したのは、この廃墟にただ一人だけ意識のある犬飼だった。
 全身の毛が逆立つ。
 正面から化け物の姿を捉えた犬飼は目を逸らすことができずにいる。
『あれはアリなのか』
 人のような形をしているが虫にも見える。だが犬飼は一目見てあれがアリだと認識した。それ以外考えられなかった。
「あ……」
 一匹のアリと目が合う。
 此方をじっと見つめてくるアリに緊張感が高まるが、不思議と襲われる恐怖は湧いてこなかった。それよりも何故か彼らにもっと近付きたいと思う気持ちが強くなり、無意識に足が一歩前に出てしまう。
 そんな犬飼の姿にアリが笑ったように見えた。
 その時、何かが脳裏を掠めた。
 あの笑い方、以前にもどこかで見た記憶がある。少しだけ目元を細めて、片側の口角を上げた笑み。
 また一歩足が前に出る。
 しかし、今度こそアリはそのまま現れた時同様に音もなくビルの床へと姿を消していった。
 咄嗟に引き留めようとした腕が虚しく宙を掻く。
 脳裏を掠めた何かは、そのまま霧散して何も残ることなく、犬飼の目の前には凄惨な現場だけが残された。


 その後、忽然と消えた犯罪者に現場にいた刑事たちは上司にみっちりと叱責を受けたが、元々正当なやり方で犯罪者たちの証言を調査していたわけではなかった為、今回のことは公にせず内々で処理されることとなった。
 上司の説教から漸く解放された犬飼は、一人になりたくて人気のない署の屋上へと来ていた。
 今日は雲ひとつない快晴。風もなく冬でも久し振りに暖かな陽射しの温もりを感じる。
 上司には自分も他の刑事たちと同様に気を失っていたと嘘をついた。事実を言ったところで犬飼しか見ていないものを現実主義な上司が信じるとは思えなかったからだ。それにどうしてかあの化け物たちのことは、誰にも言いたくはなかったのだ。言ってしまえば何か大事なものが自分の手の中から永遠に消えてなくなりそうで、自分の心の中だけに留めておきたかった。
「そう言えばアイツが顔色がどうとか言っていたな」
 後輩の新人刑事が上司から解放された犬飼の顔を見て不思議そうに言ってきたのを思い出す。叱られて憂鬱な表情をしているのならまだしも、明らかにすっきりとした顔をしている犬飼に、とうとう疲れでおかしくなったのではないかと心配してきたのだが、それを呆れ顔で受け流した。
 けれども犬飼自身、昨夜の事件前よりも気持ちがすっきりとしている自覚はあった。なによりもいつも何かを失った喪失感で心の中を虚しさが吹き荒んでいた状態が、今は全く感じることがなくなっていた。それがあの化け物たちと遭遇したからだということはもう明白だった。
「笑うアリの化け物か……」
 何故かあのアリの笑った顔が脳裏から離れない。
 あんな化け物に遭ったことなど今までありはしないのに、どこか懐かしくて……そして切なくなる。
 心の中を吹き荒ぶ喪失感はなくなったが、それとは別に、何かを渇望する焦燥感が身の内の熱を焦がしていく。
「また会えるだろうか」
 自主してくる犯罪者たちが一様に見たと言う“影の化け物”。彼らがそれらと遭遇した場所を調べれば何か分かるかもしれない。
 上司は化け物探しは打ち切りだと言っていたが、犬飼は素直に従うつもりはなかった。別に正体を明かして、白日の下に晒そうなんて思っていない。ただ、求めて止まないこの感情の先にあの得体の知れない化け物たちがいて、その更に向こう側に唯一の答えがあるように思えてならないのだ。
「足で探すのは刑事の基本だからな」
 どれだけの時間がかかろうが、どんなに遠くにあろうが探してみせる。
 屋上のフェンスに背中を預け、空を仰ぎ見る。
 雲ひとつない空へ向かって片腕を伸ばせば、求めるものが少しだけ近付いた気がした。
「必ず掴まえてみせるから」
 呟く声に揺るぎはなく、言葉は一陣の風に乗り空へと溶けていった────。


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2023年1月20日(金)22時に韓国で漫画版外伝がスタートしましたっっっ!!!
DUBU先生の遺志を継がれたスタッフ方で描かれた外伝。
始まる前は作画に不安がありましたが、先生の作風に合わせようとする意思が見られて安心しました。

今回は久し振りの補完SSなのでリハビリも兼ねて書いていたら、短いしほぼ原作通りな話になってしまいました。
というよりも公式が既に犬旬な話なので、改めて私が書く必要もないくらい最高の話だと思ってます。
犬飼さんには早く旬を見付けてほしいと願って、旬はいないけど犬旬です。

初出:2023.01.21

©2024 OKINOYA

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