── 沖の屋
Honey scent
「くさい」
エントランスを潜り抜け、リビングへ入ろうとした俺は中からのっそりと出てきたフェルに不機嫌そうに言われると、有無を言わさず押し倒されてしまった。
今日は久し振りに一人で外出することになった。
目的地はこの街にある王立図書館。
少し調べたいことがあったから昨日の夜にみんなには言ったんだけど、やっぱりと言うか当然と言うか「すぐ帰ってくるのか」だとか「飯はどうする」だとか四方から抗議の声が上がった。
スイはともかくあとの二人(ゴン爺はいいよって言ってくれた)はもう立派な成獣なんだから、俺がいない時くらい自分たちで賄ってくれればいいのに、面倒くさいやら生肉より美味い飯が食いたいやらお主の飯を食ったら他の飯が味気ないやら言ってくる。
で、結局昨日の夜の内に仕込みをしておいて、朝に朝食と一緒に昼飯用の料理も作り置いておく。冷めても大丈夫なように味付けは少し濃い目で。
べ、別に絆されたわけじゃないし。ただ、図書館でどのくらいかかるか分からないから、遅くなっても大丈夫なように作り置いておくだけだから。
そう自分に言い聞かせて肉を焼いていく。
夜に仕込みをしていたとしても二食分以上の肉を朝から焼いて、もう既に汗だく。流石に汗と油まみれで図書館に行くのもどうかと思うから、出かける前に風呂に入っていく。ついでに服も新しいものに替えて、さっぱりしたところで漸く出かけることができた。
出掛けにスイから「あるじ〜、早く帰ってきてね…」ってプルプルしながら上目遣いで言われた時はあまりの可愛さに思わず「スイも一緒に行く?」って言いそうになって危なかった。スイを連れて行ったら確実にあとの三人もついて来る。ドラちゃんはサイズ的にまだいいとしてもフェルとゴン爺を図書館なんかに連れて行ったら大混乱になるのが目に見えている。だからここはグッと我慢して「いい子でお留守番してくれてたら、帰ったら美味しいものいっぱい作るからね」って言って出てきた。小っちゃい子がいるお母さんたちって毎回こんな後ろ髪引かれる思いをして出かけてるのか。そう思ったらお母さんって凄いって改めて思ったね。
それで図書館で調べ物をして、ある程度情報を仕入れたところで館内の柱時計に目を向ける。時刻は昼を少し過ぎたくらいだった。
思ったよりも時間が早かったから帰りに市場に寄って今日の晩飯の仕入れをしてから家に帰ることにする。
ネットスーパーもいいけど、こっちの食材もそこそこ新鮮なものも多いし、何より日本では見たこともないものも少なくないので見ていて飽きなかった。
市場に着くと色んな店から活気のある声が聞こえてきてそれだけでわくわくしてくる。
取り敢えず必要なものから買っていき、その後は夕飯用の食材とデザートの材料の仕入れ。今日はきっとたくさん用意しないと文句言われるだろうから、デザート系は後で追加でネットスーパーのを頼むことにする。
「甘い香りがすると思ったら蜂蜜かあ」
通りを歩いていたらどこからか花の蜜のような香りがしてきたから、最初は花屋が近くにあるのかと思ったんだけど、蜂蜜専門店と書かれた店が目についた。
「デザートにパンケーキでもいいな」
ふわふわのパンケーキにフルーツと生クリーム、それにたっぷりの蜂蜜をかけて食べたら美味いだろうな。
フェルなんかは見た目とか気にしないだろうけど、スイは可愛いパンケーキなんか好きそうだ。
そう思ったら自然と足が店の中に向かってしまい、店員さんのおすすめの蜂蜜を試食させてもらいながら三種類ほど購入することにした。
蜂蜜と言っても蜜を採る植物によってどれもこれも味が違っていて、どの蜂蜜も美味しくて一つに絞ることができなかったってのもある。それに好みもあるだろうから、今回は色々試してみんなの反応を見るのもいいかもしれないしね。
購入した物をアイテムボックスに入れて店を出ると、また大通りを歩いて行く。
んん?!
さっきからどうも口の周りがベタつくと思ったら、さっきの店で試食させてもらった蜂蜜が付いていたみたいだ。
人の良さそうな店の主人があれこれ出してくれたから片っ端から舐めた所為だな。
パンやクラッカーのようなものにものせて、食べ方や食べ合わせに良いものなんかも教えてくれたから、指からも蜂蜜の甘い香りがしている気がする。
このまま帰ったら確実の食いしん坊たちから質問攻めにされそうだな、とチラリと脳裏を掠めたが、まあどうにかなるだろうと特に気にせず他の店を覗きながら家路に着くことにした。
途中、蜂蜜の匂いに誘われて覗いた店で飼われていた犬──にしてはだいぶん大型犬だったが、流石にグレートウルフではないと思う──に飛び掛かられた時は驚いたが、いつもフェルにのし掛かられている身としては可愛いもんだった。しかも、最近はフェルの匂いが服とかにも付いているからか、殆どの動物に避けられることが多くて、今みたいに蜂蜜の所為だったとしても犬や猫に寄って来られることが随分と稀だった。
今日に限ってどうしてだろうかと疑問に思ったが、そう言えば出掛けに風呂に入って服も新しいものに着替えていたことを思い出し合点がいった。
飼い犬だからか随分人懐っこい犬のようで、顔中舐められて「遊べ!!」と言わんばかりに擦り寄ってくる。
これから帰って夕飯の仕込みをしなければいけないから、どうしたものかとのし掛かってきた犬を撫でながら考えていると、自分の姿に気付いた店主が慌てて犬を引き剥がして盛大に謝ってくれた。
まあ、あんだけデカい犬にのし掛かられたら普通の人だとちょっと恐怖かもしれないが、俺には慣れたものだし久し振りのフェル以外の動物の感触がちょっと新鮮だった。
店主に大丈夫だと、あまり叱らないであげてくれと言うと恐縮したように頭を下げられ、お詫びにとその店で売っているハムやソーセージを渡されてしまった。
流石に何も買っていない身で受け取るわけにもいかなかったから一度は断ったけど、どうにも店主の気が治らないらしく、それじゃあ、と店で売っている他のものをいくつか購入させて欲しいと言ってどうにか納得してもらった。
「いつもは人様に飛び掛かったりしない子なんですけど」
品を渡される時に言われた言葉に蜂蜜の所為とは言えず、曖昧な笑みを浮かべてその店を後にした。
また同じようなことが起きないとも限らないので、本当はもうちょっと色々見て回りたかったけど、しようがないと諦めて素直に帰ることにする。
まあ家からも近いからまた来ればいいことだしね。
と、言うことで夕刻前に家に戻ってきた俺は、エントランスを潜り抜け帰宅を告げる。
「ただいまー」
いつもなら直ぐにスイとドラちゃんが姿を現しておかえりと言ってくれるんだけど、今日は誰からの返事も返ってこなかった。
不思議に思い、そのままリビングとして使っている部屋に行こうとして、そこからフェルがのっそりと姿を現した。
「あ、フェルただいま」
「遅かったではないか」
「えー、そうかな。途中市場に寄ってから帰ってきたけど、そんなに遅くはなってないと思うんだけど」
少し不機嫌そうな顔をしたフェルに言われるが、年頃の娘じゃあるまいし、陽もまだ高いんだから大目にみてほしい。
「そう言えばみんなどこに行ったんだ?姿が見えないんだけど」
こうやってフェルと話していても誰も姿を見せないところをみると外出でもしているのかなと思った。
予想通り昼ご飯を食べた後、中々帰って来ない俺にスイの機嫌が段々と悪くなって駄々を捏ね出したから、ドラちゃんとゴン爺が気を紛らわす為に近くの森まで連れて行ってくれているらしい。
あああっ、ホントごめん!
ドラちゃんとゴン爺には夕飯の肉多めにしなきゃいけないな。
「スイの機嫌もちゃんと取るのだぞ。お主のいる図書館に行くと言ってきかず、どれだけ大変だったか」
「うっ…ごめんって。フェルにも迷惑かけちゃった?」
三人がいる方へと合掌していると追い討ちのようにフェルが言ってくる。
そうだね。スイが帰ってきたら今日はうんと甘えさせよう。
フェルにも迷惑かけちゃったし、謝意を伝えようと後ろにいるフェルの方へと身体を向ける。
「っ?!」
「それよりも、先程からお主から不快な匂いがして我慢ならんのだが」
思いの外近くにフェルの顔があり、咄嗟に身を引いてしまったのだが、気に食わないと言いたげに隙間を埋めるようにその分身体を詰められる。
「不快な匂いって」
さっき市場を通ったから色んな匂いが混じって服に付いたんだろうか。
クンクンと自分でも服の匂いを嗅いでみるが、特に嫌な匂いはしないように思う。
何が不快なのか分からず首を傾げていると、いつの間にか壁際まで追い詰められていた俺の身体を前脚で壁に縫い付け首筋に鼻先を付けられた。
「フ、フェル?!!」
「くさい」
「くさいって何が?!」
首筋の動脈辺りにフェルの舌と犬歯が当たると、噛まれないと分かっていてもドキリとする。
「雄の匂いがする。一体どこで何をしておったのだ」
フェルはそのまま鼻先を首筋から鎖骨まで下ろし襟ぐりの辺りまで匂いを嗅いでいく。
「しかもご丁寧にマーキングまでされおって!本当に図書館とやらに行っておったのか!?」
フェルの言葉に漸く何が匂うのか分かった。
あの時、肉屋で飛び掛かられた犬の匂いが付いてしまっていたのだ。それがフェルの神経を逆撫してしまったに違いない。
「誤解だって!」
どうにか誤解を解こうと図書館に行ってから今までの経緯を全部説明していく。フェルの思っているようなことは何もないって疚しいことは何もないって。
それなのに言えば言う程フェルの機嫌が降下していく。そして最後に蜂蜜が口の周りに付いていたらしく、それを舐められたと言ったところで噛み付くように唇を塞がれた。そのまま喰われてしまうんじゃないかってくらいに口腔内をフェルの舌で掻き混ぜられ、唇の周りも舐め尽くされる。
息もできない程喉奥までフェルの舌で侵され、息苦しさに目の前の銀色の毛並みを引っ張ると漸く口腔内を解放された。
「も…、なんで……」
あまりの展開に思考が追い付かずその場でへたり込んでしまった俺にまたもやフェルがのし掛かってきて、今度は床の上に両腕をフェルの前脚で縫い止められ、大の字のような格好を取らされる。
「お主は我がいるにもかかわらず、のし掛かられてなんの抵抗もせず他の雄にその唇を許したのか」
「み、妙な言い方をするな!ただの犬じゃないか。しかも俺じゃなくて蜂蜜の甘い匂いに誘われただけだ。フェルが思ってるようなことは普通の動物じゃあり得ないんだから!」
異種族間の恋愛云々。人間と亜人くらいならあり得るかもしれないけど、人間と獣なんてどう見たってあり得ない。
自分とフェルが特殊なんだといい募るが、フェルの機嫌が直る様子はない。
どうしたものかと考えあぐねているとフェルが拉致が明かないと言わんばかりに一度首を振ると、俺の首根っこを咥えて軽々と宙に放り投げた。そしてそのまま自分の背に俺を乗せるとのしのしと歩いて行く。
「どこ行くんだよ?!」
「言っても聞かぬのであれば、お主が誰のものか身体に聞かせるまでよ」
この先は寝室に使っている部屋しかなく、今のフェルの台詞と相まって、これから何をしようとしているのか考えなくても瞭然だった。
「フェル!待って!俺が悪かったから!これからはフェル以外の他の奴に触らせたりしないから!」
「お主の言葉は信用ならぬ。そう言って何度同じ目に合っているか。今回ばかりは容赦はせぬぞ」
そう言って器用に寝室の扉を開けたフェルは、そのまま鍵を閉めてご丁寧に結界まで張り巡らせる。
その上でベッドに俺の身体を放り投げると俺が起き上がる前にまたさっきと同じように前脚で身体をベッドに押さえ付けられた。
「もう直ぐスイたちも帰ってくるから!」
「それならさっきゴン爺に念話で当分帰ってくるなと言っておいた」
一縷の望みをかけてスイの名前も出してみたが、にべも無く打ち砕かれる。
しかもゴン爺に念話って!?いつの間にそんなことやったの?!って、この状況をゴン爺に説明したとか?!
そう問い詰めると、あっさりと肯定され顔から火が出るかと思った。だって今からフェルがしようとしてることってっ。
「お仕置きだな」
俺の心を読んだかのタイミングで言われ、更に心臓が跳ねる。
「フェル考え直そう」
「何を怯えておる。仕置きと言ってもお主を痛めつけるようなことはせぬわ。お主が一体誰のものか今一度はっきりさせるだけだ」
怯える俺を宥めるようにさっきとは打って変わって優しく唇を舐められる。その後には首筋を。それが返ってフェルの機嫌と反比例しているようで怖いんですけどっ。
意図的に肌の見えているところを順番に舐める行為に不安と疑問を募らせる。
「消毒だ」
そんな俺に気付いたのかフェルはマズルに皺を寄せ気難しそうな声で言う。
「消毒って」
「他の雄の匂いをさせたままなんぞ我慢がならん。匂いが消えるまで全部舐め尽くしてくれる」
そう言うとそのまま指先にも舌を這わされる。そう言えば指にも蜂蜜が付いていたっけ。
いまだ自分ではさっきの犬の匂いがすると言われても分からないけど、結局フェルがこうしてあからさまにヤキモチを妬いてくれるのは、お仕置き云々は置いとくとして、それを差し引いても独占欲を見せられてるようで実は嬉しかったりする。そんなことを言おうものなら更に何をされるか分かったもんじゃないから絶対に言わないけど。
「何をニヤけておる」
無意識に顔の表情が緩んでいたらしく、フェルに訝しがられてしまった。
「何でもないよ」
慌てて表情を取り繕って見せるが、きっとフェルには自分がもう既にフェルを受け入れようとしていることなんてお見通しだと思う。
だってほらフェルの表情も明らかにさっきと違っていつもアノ時に見せるドキドキさせられる顔をしているから。
「何だ、もう抵抗せんのか」
「っ、分かってて言うのはいやらしいぞ」
金緑色の瞳を細めて薄っすらと口元に笑みを見せるフェルは意地が悪いと思う。しかもその顔に俺が弱いことも知ってるくせに!
悔しいから顔を近付けてきたフェルの鼻先をペロリと舐めてやる。腕はのし掛かられて動かすことができないからこんな意趣返ししかできないけど。
でもそれはフェルの興を煽っただけで、細めた瞳に獰猛な熱情を孕ませ俺の意趣返しなんて物ともせず、お返しとばかりに俺の唇を同じように舐めてきた。
「お主は我のものぞ。それを忘れるでない」
それだけを言うと、閉じた唇を開けるように長くて熱い舌で俺の歯列をなぞって促してくる。
間近で見る金緑色の瞳に視線を囚われる。
「…っ、フェルだって俺のものだからな。余所見したら許さないぞ」
それだけを言うのがやっとで、あとは再び口内に入ってきたフェルの舌に翻弄され、知らない内に衣服を剥ぎ取られ、あられもない姿にさせられると、そのまま文字通り俺がフェルのものだと散々啼かされ身体に教え込まされたのだった。
勿論、フェルの体力に俺がついていけるわけもなく、気付いたら外出中だった三人はとうの昔に帰ってきてるし、慌ててリビングに入って行った俺にスイとドラちゃんにはフェルくさいって嫌そうに言われるしで散々な目に遭ってしまった。
しかも俺をこんな風にしたフェルは何処吹く風で、後からのっそりやってきたと思ったら悠々とソファに横たわりチラリと此方を一瞥して面白がるように口角を上げて見せてくる。
「あるじー!!フェルおじちゃんばっかり見てないでスイの方も見てぇっ!!」
「あー、もう何でもいいから飯にしようぜ。腹減った」
「ホホホ、主殿とフェルには貸し一つじゃな」
三者三様の台詞を聞かされた俺は固く誓った。
ああ…、もう絶対に一人で外出はするまい……!!
初出:2020.11.04