── 沖の屋
夏的恋愛二十題より「9.汗の匂いにまで興奮します」
日本にいた時も夏は非常に暑かった。
それも年々猛暑日と言われる日が増え、連日滝のような汗を流しながら仕事をしていたと記憶している。
そんな酷暑を経験して程なく俺は異世界へ飛ばされ、日本へと帰る方法もないまま、短くはない日々をここで過ごすことになった。
地域によって暑い寒いといった気候に出会いはしたが、この世界は平均して温暖な気候だと思っていた。
それが久し振りにカレーリナの街へ戻ってきて、その考えを改めることになろうとは……。
『うっ……!』
街に着き、いつものように冒険者ギルドへと足を向け、その扉を開けた瞬間だった。
思わず中へと踏み出そうとした足が止まる。
今は夕方にはまだ早い時間帯。ギルド内は冒険者たちでごった返している。それはまあいつものことで、強面の冒険者の顔もだいぶん慣れてはきたのでいいのだが、問題はそこではない。
扉を開けたことで中の空気が外へと流れてきたのだ。それが本当にあり得ないくらい強烈な匂いを伴って。いわゆる男の汗臭い体臭を濃縮させて、更にその汗を吸った装備品のすえた匂いが混じったもので。獣臭いとかそんな生易しいものじゃなかった。思わず鼻を押さえてしまった俺を許してほしい。
(そうだよな。この世界では毎日湯船に湯をはって風呂に入って清潔にするって概念はあんまりないもんな)
そんな贅沢は貴族か一部の儲かっている商人くらいしかできない。風呂自体が誰でもが手にできる代物ではないのだ。それに毎日薪を使って水を温めるなんて、贅沢以外の何物でもない。
(せめて大衆風呂みたいなのがあって、皆がそこを利用する習慣があれば)
しかし、大型施設で風呂を薪で沸かすとなるとそれなりのコストがかかる。魔石を使う方法もあるかもしれないが、それもここでは見受けられない。自然の恩恵である温泉もカレーリナ周辺には源泉が湧き出ているような場所はないので、近隣を見てもそういった施設は見つからなかった。
その結果、女性であれば匂い消しの薬草を使ったり、香水などで匂いを紛らわせるようになる。実際、ランベルトさんのところに卸している香りの良いシャンプーや石鹸類は貴族の方たちはもとより、街の女性たちにも凄く人気があると聞いている。
しかし、男たちはその辺無頓着、というより体臭は一種のフェロモンのように思われていて、特に冒険者たちの間では匂いが強いほど男としての強さや魅力の表れみたいな風潮がある。その結果がこの冒険者ギルドの淀んだ空気というわけだ。
(一人二人なら我慢できないこともないけど、こんな大勢が集まった匂いは無理だ)
現世の日本は無臭がマナーみたいなところがあったから─香水もキツい香りは敬遠されてたし─それに慣れている身としては、この中に入っていく勇気が湧かない。
俺が扉の前で躊躇していると、受付の女の子が気が付いたのか、名前を呼ばれる。そうすれば否が応にも皆の視線がこちらに向けられ、踵を返すタイミングを失う。
「う……」
眉間の皺は解かれることなく、俺は覚悟を決めて地面に貼り付いたままの足をどうにか持ち上げ、ギルド内へと踏み入れた。そして……最速で用事を済ませ、逃げるようにギルドを後にしたのだった。
ただ、俺の行動は挙動不審だったらしく、ギルドにいた冒険者たちにおかしなものを見るような奇異の目で見られていたが、それはこの際無視した。
「はー、今度からこの時期のギルドには朝イチで行くことにしよう」
淀んだ空気を肺から追い出したくて、澄んだ空気を求めてフェルに森まで走ってもらい、木々が生い茂る森中に来たところで大きく息を吸い込んだ。別に外に出ればあのむさ苦しい匂いはなくなりはしたけど、なんとなく街中では落ち着かなくて、周りの目がない森の中に来るまで上手く呼吸ができずにいた。だから濃い緑の匂いが辺りを覆うこの場所で思いきり深呼吸する。そうすれば鼻の奥の残香がようやく薄れてくれた。
『お主が自ら森に行きたいと言うとは珍しいな』
木漏れ日の落ちる草の上で清々しい空気を満喫していると、背後から声をかけられる。
「フェル」
『しかも街に着いたばかりだというのに。もしや肉が足らんのか⁈』
『あるじそうなの? それならスイがビュッビュッってしてくる』
『オレも狩ってくるぜ!』
いつもなら街に着いた後は、よっぽどのことがない限り街から出たがらない俺が自ら森に行くように言ったのだから、三人が訝しむのも当然だ。しかし、肉ならまだ大量にある。なんならさっきもカレーリナに着くまでの道中でフェルたちが狩ってきた魔物を渡してきたばかりだ。これ以上肉ばかり増えても困るから、すぐにでも駆けていこうとする三人を慌てて引き留める。
「わー! 待て待てっ! 肉はまだ大量にあるから狩ってこなくていい! ここに来たかったのはちょっと新鮮な空気が吸いたかっただけだから」
跳ねるスイを抱き留めて、ことの顛末を三人に聞かせる。そういえば三人はあの匂いが嫌じゃなかったんだろうか。フェルなら鼻が利きそうだから、ギルドに入った途端文句を言ってそうだが、そんな素振りは全く見せなかったな。
「ちょっとギルドの中の匂いに耐えられなくて。フェルもスイちゃんもドラちゃんもなんとも思わなかったのか?」
『あのような匂い、魔物だらけの場所に比べれば可愛いものだ』
『オレはちょっと苦手だな。でも我慢できねーほどじゃないか。フェルが言う通り、魔物の匂いに比べたら全然マシだぜ』
『スイはわかんない』
三者三様の応えにやっぱり感じ方はそれぞれなんだと思った。あと魔物の匂いと比べるのはどうなんだろうとも。
と、そこまで考えて俺は肝心かつ重大なことを見落としていたことに気付く。ギルドにいた男たちが汗臭いのなら、
「俺だって汗臭いだろ!」
いくら毎日風呂に入って石鹸で体を洗っていたとしても、この時期は汗をかく。それに今日は一日中外にいたんだ。俺だって大分汗をかいている。
それに気付いた途端、慌てて自分の服の襟ぐりを持ち上げて匂いを嗅ぐ。そのあと、腕を上げて汗をかく場所を嗅いでいく。一応、ネットスーパーで制汗剤を買って、毎日付けてはいるけど、案の定正直今は大分汗臭い……と思う。
「人のこと言えた義理じゃなかった」
愕然としつつ、今日ここまでに出会った人たちの顔を思い浮かべる。
街の守衛の人たちはまあいい。街に入ってから会った人といえば、エリク君とミリーナちゃんとエリク君のお母さん。
「エリク君のお母さんは竹を割ったような性格だから、俺が汗臭かったら風呂に入ってるかくらい聞いてくるよね」
それがなかったってことは気にならないくらいなのかな。エリク君もミリーナちゃんもいつも通りだったし。
あとはそのまま冒険者ギルドに行って、受付嬢とギルドマスター、それにヨハンさんと話をしたくらい。マスターとヨハンさんはいつもどおりだったけど。
「受付の女の子にはなんかじっと見られていたような気がする」
やっぱり汗臭かったのか⁈
そして、今更に思ったのだが、ギルド内で冒険者たちがこっちを見ていたのは俺が不審な動きをしていたからではなくて、臭かったからとか⁈
「マジかーっ! 俺もあの人たちと同じだったのか!」
別に汗臭いおっさん共が悪いわけじゃないけど、日本人の感覚からして体臭がきついのはエチケット違反だ。だからといって香水を振りまくるのもよくない。日本にいた時は女性たちの目があるから、体臭には殊の外気を付けるようにしていたし。昨今、〝スメハラ〟といった言葉もあるくらいだ。無臭が一番トラブルを起こさない。
「よしっ! 風呂に入ろう! ちょうど森に来てるし、いつものように魔法で壁を作って……」
『先程から何を一人で騒いでおる』
考えたところで起こってしまったことは仕方がない。今度から気を付ければいいのだから。
そう思考を切り替えて、風呂の準備に取りかかろうとしたところで、フェルの声が真横から聞こえてきた。あまりにも至近距離だったのと今まで汗臭い自分のことを考えていたため、咄嗟に「近い!」と思ったが、フェルはギルドの中の匂いも気にしてないと言っていたから、自分の汗臭い体のことも気にしないかと、退きかけた体を元に戻す。
「えっと、今日は一日外でいたから汗をたくさんかいたなって思って。なんか体が汗臭いから早く風呂に入ろうと思って」
ひとりで騒いでいたと言われて恥ずかしくなり、言い訳のように言葉を募れば、言葉の意味が分からないと言ったふうにフェルは首を傾げる。
『臭い? お主がか?』
「う、うん。いつもより匂う気がして……っ、フェル⁈」
俺の言葉が本当かどうか確認したかったのだろう、少しだけ開いていたフェルとのスペースを詰めるようにのそりと近付かれ、首筋の一番汗をかいている場所に鼻を寄せられた。さすがにここまで近寄られてしまうと、否が応にも己の匂いに気付かれてしまう。慌てて首筋にあるマズルを押し退けるも、その行動が気に入らないと更に押し付けてくる。
「フェ、フェルーッ!」
『なんだ、なんだ? 主とフェルは何やってんだ?』
『あるじー?』
叫ぶようにフェルの名前を呼んでしまったからか、それまで少し離れた場所にいたスイとドラちゃんまでこっちに来てしまった。
『此奴が体が匂うなどと言いよるから、我が確認してやろうとしたらいきなり叫び出したのだ』
「別に確認してくれなんて言ってないだろ!? それより人の匂いとか勝手に嗅いじゃ駄目だから!」
汗臭いかもしれないとは言ったけど、フェルに匂うかなんて聞いてない。それに獣同士なら互いに匂いを嗅いで相手のことを知ったり、どちらが上位かなんて認めたりするのかもしれないけど、人間にはそんな習慣ないから。逆にマナー違反だし、体臭を嗅がれるなんて羞恥以外のなにものでもない。
そう言ったのに、フェルの言葉に興味を持ってしまったスイとドラちゃんも近付いてくる。
『あるじのにおいー?』
『なんだー? そんな変な匂いがするのか?』
「ただ汗臭いだけだから! スイもドラちゃんも寄って来なくていい!」
咄嗟に後退るも、フェルの躰が邪魔をして後ろに下がることができず、結果左側からスイが、右側からドラちゃんがそれぞれ顔を寄せてきて俺の首筋をくんくんと嗅いでいく。
「~~~~っっ!!」
二人が俺の肩に乗っかり両側から嗅いできたかと思えば、何故かフェルも後ろから俺の項の辺りを嗅いでいく。三人がかりで顔を寄せられて声なき叫びが口から出てしまったことは仕方がないと思ってほしい。むしろ叫ばなかっただけ褒めてほしい。
『別に変な匂いなんかしねーぞ。むしろなんか花みたいな甘い匂いがする』
『スイはあるじのにおい好きー。優しくて落ち着くにおい』
ひとしきり首周りを嗅いだ二人が言った言葉に少しだけ安堵する。しかし、ドラちゃんの言う花の香りってなんだ?
「あ、もしかして石鹸の匂いが残ってるのか?」
服もネットスーパーで買った衣料用洗剤を使ってるし、まだ少しだけ香りが残っているのかもしれない。
「取り敢えず、もういいだろ! スイもドラちゃんも離れて! あとフェルも!」
いつまでも三人が離れていかないから、俺は両手を振ってどうにか引き剥がす。
『ほらっ、今から風呂を沸かすから。スイちゃん手伝って」
『はーい』
『んじゃ、俺は沸くまでその辺飛んでくるわ』
『……我はその間、狩りに行……』
「今日はフェルもお風呂入るんだよ!」
風呂の話が出たところでフェルがそそくさと場を離れようとしたから、背中の毛を掴んで引き留める。なんだかんだと理由をつけて風呂に入りたがらないフェルだけど、今日はいつもより暑かったし外で一日中走り回っていた。よく見なくてもフェルの毛も薄っすらと汚れている。それに移動中はフェルの背中にしがみついていたから、俺の汗がフェルにも付いちゃってるかもしれなくて。
そう思ったら罪悪感というか申し訳なさというか、早く綺麗にしないとって思っちゃって。でも「フェルにしがみついてた時に俺の汗が付いたかもしれないから洗い流したい」なんて言えるはずもなく。
だからフェルの躰を定期的に洗っている日数よりも少しだけ前倒しで洗うことになってしまったことも「今日は凄く暑かったから」で押し通す。
『我は汗などかいておらぬ!』
「はいはい、でも一日中外でいたから大分汚れてるから。俺、前に言ったよね。汚れたままで飯は食いたくないって」
本音を隠して飯を引き合いに出せば、唸り声を上げつつ不承不承と言った顔をしながらも駆けていくことをせずにその場に留まってくれる。それにほっとして俺はすぐに風呂の準備をしたのだった。
「さっぱりした!」
あれから急いで土の壁を作って、そこにランベルトさんに紹介してもらった商店で買った風呂をセットして、まずはフェルを洗う。スイにはいつものようにシャワー係をしてもらい、土埃と俺の汗が付いてるかもしれない毛を念入りに洗って、あとはフェルご自慢の風魔法でサッと乾燥。ふわふわのサラサラツヤツヤになったフェルの毛に満足して次は俺とスイとドラちゃんが風呂に入る。勿論、俺たちが風呂に入っている間に魔物を狩りに行かないようにフェルに言うのを忘れずに。
頭のてっぺんから足の爪先まで全身泡まみれにして、汗と汚れを一気に落として湯船にダイブ。ひとしきりお湯を堪能して風呂から上がり清潔な服に着替えれば、待ってましたと言わんばかりに三人から風呂上がりのフルーツ牛乳を催促されて、ネットスーパーでお買い上げ。俺は今日は汗をたくさんかいたから水分補給にスポーツドリンクを買った。
西の空に陽が沈みかけ、辺りが夕闇の色を濃くしていく。日中の暑さが和らぎ、森の中を涼やかな風が通り抜けていく。風呂上がりの火照った体にそれはとても気持ちが良くて、フェルに頼んで森を抜けたところにある草原の広がる場所まで移動する。遮蔽物のない草原を足下に生えている草を靡かせて、さあさあと風が流れていく。
「風が気持ちいい」
ここで少しだけ夕涼みをして宿に帰ることを決める。あまり長居をすると食いしん坊トリオから飯の催促が来るから本当に少しの間だけ。
俺が風に体を向けて涼んでいるとフェルも隣に来て同じように風に当たる。フェルの背中を見れば、風呂ではしゃぎまわっていたスイとドラちゃんが気持ち良さそうに眠っているのが見えた。
「二人ともはしゃぎ疲れちゃったのかな」
フェルが二人を起こさないように気を遣ってか、動きづらそうにしているから、アイテムボックスからレジャーシートとブランケットを出して、起こさないように二人を抱え上げてその上に下ろす。
背中から可愛い重みがなくなったことで、フェルは筋肉をほぐすように、一度だけ躰全体を振るわせる。綺麗な毛並みがふわりと動き、仄かに石鹸の香りが漂ってきた。
「やっぱり洗いたての毛並みに優るものはないよなー」
風呂嫌いのフェルは汚れが付かないようにと時々風魔法で自身の体に付く埃や泥などを払っているみたいだけど、シャワーで全身を洗うことには敵わない。
自然と毛並みに触れて、さらさらとした感触を堪能していると、身じろぎしたフェルが鼻先を俺の首筋に寄せて同じく匂いを嗅ぐように鼻を鳴らしてくる。
『今度は嫌がらぬのだな』
「今は風呂に入って汗も汚れも全部洗い流したから」
風呂に入る前の態度を引き合いに出してくるフェルに俺は苦笑を返す。人間同士ならちょっと無理だけど、フェルたちなら家族みたいなものだし、汗臭くなければ近付かれても嫌なことはない。匂いを嗅がれても、まあ獣だし、で納得はできる。
フェルが俺の匂いを嗅いでいる間に、俺もフェルの躰に顔を埋める。さらさらの毛並みからは石鹸の香りと少しだけフェルの匂いが混じる。安心するというか思った以上に好みの匂いだった為、思わず犬吸いのように毛並みに顔を埋めたまま大きく息を吸ってしまった。
『なんだ⁈』
「あ、ごめん。なんか洗いたてのいい匂いがして思わず吸っちゃった」
途端にフェルの驚いた声が聞こえてきたから、慌てて顔を上げて謝る。俺だって何も言わずにいきなり体の匂いを吸われたら嫌だしびっくりするもんな。
謝罪ついでに顔を埋めていた場所の毛並みを整え、名残惜しくさら艶な毛を撫でていたら、首筋にいたフェル鼻先が肌にくっ付いた。
「ひゃっ!」
鼻先の濡れた部分が肌に付いて思わず声を上げてしまい、咄嗟に手でその部分を庇いフェルから離れる。
それがいけなかった。
俺の態度に双眸を眇めたフェルが開いた距離を詰めて再び鼻先を近付けてくる。獲物を見るような視線に心臓がどくりと鼓動を打つ。獲って食われるわけないって分かっていても、やっぱりこういう視線を向けられると、伝説の魔獣なんだって思わずにはいられない。
『何故逃げる』
「フェルの鼻先が当たってびっくりしただけで逃げてないって」
高鳴る心音の意味に見ないふりをして、それでも一度だけ息を大きく吐き出して俺の方からもフェルに近付く。逃げたわけではないと分かってもらう為にフェルの正面に立って、首元に腕を回して抱きついてみれば、納得したのか眇められた双眸を元に戻して、少しだけ呆れた色合いを滲ませてこちらを見つめてきた。
『お主を真似て我もお主の匂いを嗅いでみたが、言うほどいい匂いだとは思わぬがな。それよりも風呂に入る前の匂いの方が我は良い』
いつも通りのフェルに戻ったことで高鳴っていた心臓も落ち着いたと思ったのも束の間、そんな爆弾発言をして今度こそ遠慮もなく俺の首元に鼻先をくっ付けてきた。
「フェ、フェルっ」
長い舌で風呂上がりのしっとりとしたままの肌を舐められ、羞恥で体が熱くなる。
『うむ、今少しお主の匂いが戻ったな』
それが何を意味してるなんて考えなくても明白で。首元だけじゃなく全身が羞恥心で染まりそうになる。
『更に濃くなっておるぞ』
にやにやと意味ありげに口元を引き上げるフェルを、せめてもの抵抗のように睨みつけるが、そんなものに臆するような相手じゃないことは十分知っている。
「な、なんでだろうなっ。それよりもそろそろスイとドラちゃんを起こして街に帰ろう」
フェルの言葉に空惚け、話題を変えるようにスイとドラちゃんを起こしにいく。これ以上フェルの近くにいたら絶対に駄目な気がするから。
フェルから離れ、レジャーシートを敷いた場所へと足を向ける。実際、もうそろそろ街に戻らないと晩飯が遅くなるし、下手したら街の外門が閉じてしまう。そうなれば翌日再び門が開くまで野宿する羽目になる。
だからフェルから視線を外し、二人を起こそうとした。
そんな俺の無防備に晒された後ろ首をフェルの大きな口が挟み込んでくる。
「フェル、冗談は……」
『今はまだ何もせぬ。ただ早くお主本来の匂いに戻れと思うてな』
「ん……っ」
そのまま緩く首元に歯を立てられ、そこを長い舌で舐められる。もう何度も経験したことのある刺激に体がひくりと震えるが、結局フェルがその続きをすることはなかった。
『ほれ、スイとドラを起こして帰るぞ。そして飯だ』
そして、俺にしたことなんて何もなかったかのように平然とした態度で、いまだ固まったままの俺の横を悠然と通り過ぎ、スイとドラちゃんを起こしにいく。
「……ったい……」
そんなフェルの態度に、残された俺はというと。
「絶対! 無香料の制汗剤を選んでやるっ!」
(匂いなんて絶対させない! 無臭にして誰にも文句なんて言わせないようにしてやる!)
そう意気込み、宿に帰ったら速攻でネットスーパーを開いて大量に無香料の制汗剤を買ってやると心に決めたのだった。
因みにギルド内でおかしな顔をしていた冒険者たちや受付嬢が、俺のいた場所からやたらいい匂いがすると騒いでいたらしいのだが、ギルドを早々に後にした俺がそのことに気付くこともなくて。そして、次にギルドに足を運んだ時にやたらと彼らが近付いて来たことや─ギルド長から俺たちに構うなと言われているから、向こうから声をかけてくることはなかったけど─、そんな俺の周りを見たフェルの機嫌が何故か最高に悪くなったことについては、ギルド長の運営日誌に記録される案件になっていたらしい。
勿論、そんなことを俺が知る由もなかった。
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Xで2024年8月1日の「やおいの日」企画で先着5名様にリクエストを伺ったもののひとつ。
お題は、お題配布サイト「TOY」様よりお借りしました。
2025.02.25