── 沖の屋
朝比奈りんの回顧録
久し振りに登校した学校はいつも通りの風景で、私は後ろから二番目の窓際の自分の席に着いて黒板の方へと視線を向けた。
今日の当番は友人の葵のようでさっきの授業で使った黒板を綺麗に消している最中だった。
そんな葵を何とはなしに眺めながら、私は先日あった出来事を思い返していた。
頭に浮かぶのは長身の男性。
常に冷静な態度で物事を見ていたその人の冷ややかな瞳が忘れられない。
だけど、あの瞳が私を見ることは決してないことも分かっていた。
何故なら─────。
初めて出会ったのは病院。
葵の家族のお見舞いに付き添う為に。
私は病室の外で待っていたから、向こうは私の存在には気付いていなかった。
チラリと覗いた病室内には、若い男の人が一人。葵のお兄さんだと彼女の口調から分かった。
葵からの情報だと二十歳はとうに過ぎているとのことだけど、見た限りでは大学生、下手をすれば高校生にも見えるくらいの童顔だった。
一言で言えば、全然タイプじゃなかった。
だから、葵が戻ってきてその後ランチにショッピングにカラオケにと、葵と別れて家に帰った頃には病院に行ったことなんて思い出すこともなかった。
その後、自分がハンター覚醒者だと分かって多分自惚れていたんだと思う。
テレビに出てくるハンター達はみんな煌びやかで、何億、下手をしたら何兆もハンター業で稼いでる人達ばかりで、自分もその仲間入りができるんだと浮かれていた。
そう思ったら学校に行く理由なんてないと、友達や先生から連絡が来ても全部無視していた。私はアンタ達とは違うって思い上がっていた。
そんな時に現れたのが一人の男の人だった。
家から出たところを丁度声をかけられ目深に被っていた帽子を上げると、この間行ったC級レイドで、隊長と一緒にいた男性がこっちを向いていた。
何で彼がうちの家を知っているのか疑問に思っていたら、どうやら担任が教えて寄越したことが分かった。あと葵のお兄さんだということも。
びっくりした。
だって数ヶ月前に見た時とは全然姿形も雰囲気も違っていたから。
え?男の人ってこんなに変わるものなのって思った。
病院で見たときは全然タイプじゃないって思ったけど、この間のレイドの時といい今日の格好といい、これは周りが放って置かないタイプの人間だと直感で感じた。
視線が合って話しかけられると葵のお兄さんだって分かっててもドキドキしてくる。
でも、次に出てきた言葉でそれも反撥心に変わってしまった。
だって自分もE級ハンターのくせに私に説教してこようとしたから。
E級ではモンスターに勝てない、稼ぐことも難しい。そんな聞きたくないことばかり言ってくる。
ああ、この人も周りの大人達と一緒なんだって思った。そう思ったら、さっきのドキドキなんて一瞬で冷めてしまった。
でも彼は、そうではないと言う。E級でも立派なハンターにしてくれると言う。
本当にそんなことできるのかと半信半疑で訪れた場所は、白虎ギルドの訓練現場。
白虎ギルドと言えば日本有数の大型ギルドの一つ。
そんな有名なギルドのスタッフと顔馴染みな彼にも驚いたけど、その後の出来事の方が一生忘れられない出来事になった。
そして、私がハンター一筋で歩んでいくことを諦めた出来事でもあった。
レッドゲートでの出来事は、今思い出しても運が良かったと思うしかなかった。
最初に狙われた者の一人だった私。
彼は一番弱い者が最初に狙われると言っていた。その証拠に私には白鬼がいることも矢が飛んできた事すらも分からなかった。そしてその事実に恐怖した。これから先、ダンジョンに入る度に弱い自分から狙われるんじゃないかって思うと、足が竦んで一歩も前に出そうになかった。
でも、彼は責任持って君は守ると言ってくれた。勿論、このゲート内でだけの事を指してるのは分かっているけど、ゲート侵入前に説教じみた事を言われガッカリした事も忘れてドキドキした。自分だけに言われた言葉が嬉しかった。
だから勘違いしてたんだ。私の事を特別に思ってくれてるんじゃないかって。実際は妹の友人という枠でしかないのに。
彼の戦闘には圧倒された。
ハンターの戦い方ってみんなあんな風なのかと一緒に戦いを見守っていたさつきさんに思わず聞いてしまう程に。勿論、彼女もそんなわけないと言っていたので、彼の戦い方は常軌を逸しているんだと分かった。
恐ろしく冷淡で非情な戦い方なのに見惚れてしまう程美しくもあった。
そして漸くダンジョンのボスを倒した時、誰とはなしに詰めていた息を吐き出していた。
私はダンジョンから出られる、その事に張っていた緊張が解け思わずその場にへたり込んでしまった。周りを見ると他の人たちも同じように座り込んで皆抱き合い生きている事に感謝していた。
それでも自分たちを入れて十四人の内生き残れたのが五人だけと言う事実に恐怖した。レッドゲートに入って低ランクのハンターが生きて帰って来られることは皆無に等しいと、さつきさんから聞いて今回は本当に運が良かったんだって思った。
ダンジョンはクリアしたって言うのに、ジワジワと襲ってくる今更ながらの恐怖にゲートを出なければ行けないのに足に力が入らなくて、その場から動けそうになかった。
そんな私を見かねたのか、戦闘を終えてみんなのところに帰って来ていた彼が不意にこっちを向いたかと思ったら、座り込んでる私のところまで来て服に雪が付くのも構わず目の前でしゃがみ込んで私に手を差し出してくれた。
私は恥ずかしさもあり、まともに彼の顔を見ることができず、顔に熱が集中するのを自覚しながらも差し出してくれた手に素直に自分の手を重ねると、力強く引っ張られた。けれど勢いがつき過ぎて今度は彼の胸に顔面からぶつかってしまった。
もうホント恥ずかしい…。
勿論、彼は全然気にしていない風で、私が立ち上がればさっさと前を歩いて行ってしまい、戦闘で喚び出していた召喚獣に何か指示を出していた。
初めて男の人の胸に抱き付いてしまった恥ずかしさと、それ以上に見た目よりずっと逞しい身体だったことに、赤かった顔は更に茹だったように真っ赤になってしまっているだろうし、心臓は早鐘を打ったように煩く鼓動する。
「どうしよう…」
思わず声に出してしまった言葉は、幸いなことに誰にも聞こえずに済んだ。
そんな一人あたふた動揺していたら、いつ迄経っても私が動かないのに気付いた彼が訝しげにこっちを振り向いてくる。それさえも今の私には彼が気に掛けてくれてると浮き足立ってしまう。
どうにか心を落ち着かせようとその場で何度か深呼吸をしていると、突然フィールドに吹いていた風が地面に降り積もった新雪を舞い上がらせるように吹き荒らしていった。
一瞬の事だったけどその突風に思わず身を縮ませ、どうにか飛ばされないようにする。
ダンジョンをクリアしたから誰もが油断していた。
他の生き残ったハンター達は、また何か起こるんじゃないかってビクビクしていたけど、どうやら本当に唯の自然現象に過ぎなかったみたいで、その後は何もなかったように穏やかな風が舞うだけだった。
私は舞い上がった雪を盛大に被ってしまい全身雪まみれの状態。他の人たちも同じような格好だったので、彼も雪を被ってしまったのかと何気なく前方に視線を向けて思考が止まった。
彼も勿論さっきの突風に不意を突かれてしまっていたみたいで、視界を確保するように腕を頭に翳して雪を避けていた。
それだけだったら何も思わなかった。
そう……それだけじゃなくて。
不意を突かれた格好となった彼をさっき喚び出していた一体の召喚獣が庇うように立っていた。
彼よりも頭一つ分以上高い人型の召喚獣。
鎧兜を着ているから騎士なんだと思う。
そう言えば、戦闘中も絶えず彼の側で戦っていた召喚獣はあの騎士じゃなかっただろうか。
自身のマントを彼に翳して、舞い上がる雪から彼を護り、そのくせ周囲の気配にも警戒を怠っていなくて。
普通、召喚獣ってこんなことをするのかな。
ハンターに覚醒したばかりの私には知る術もなかったけど、その光景はとても自然でさながら王を護る騎士のようで、そこだけ切り取られた世界のように思わず魅入ってしまう程綺麗だった。
召喚獣の ─ 騎士の ─ お陰で彼に雪の被害はなくて、でも反対にその騎士は雪まみれになっていて、そんな騎士に気付いた彼が困ったように注意しているのが聞こえてくる。
── そんなことをしなくてもいい ──
── お前が雪まみれじゃないか ──
怒った風に言っているけど、騎士を見る表情は優しげで、自分でマントに付着した雪を払っていた騎士を手伝うように彼も雪を払ってあげていた。
「あ、雪…」
思わず呟いてしまった先には、彼の頭に雪一つ。同じように騎士の兜の上にも一つ。互いに気付いたみたいで、鏡のように同じ動作で相手の雪を払う。
視線を上げる彼と下げる騎士。
一瞬彼らの視線が絡まったように見えた。
その光景にああ、二人は特別なんだと否応なしに思い知らされる。
騎士も、そして彼も、互いに他の誰より特別に思っているんだと絡まる視線の熱さで分かる。でも多分未だ彼ら自身は自分の感情も相手の感情にも気付いてない。
絡み合った視線は雪が払われたことで自然と解かれ、二人は何もなかったように騎士は彼に傅くとそのまま彼の影に解けていった。
その後はゲートを脱出し、彼の車で無事家路に着くことができた。
去り際に数時間後にまた会うことへの挨拶をした時には、もう自分に中では彼への気持ちは殆ど昇華されていた。
今日一日で彼に対する気持ちの乱気流にはっきり言ってお腹いっぱいだった。もし彼への好意の気持ちが今以上になったとしても、これが毎日続くかと思うと私の精神がもたない。恋の花は蕾になることもなく、芽が出る前に消えてしまった。でもこれで良かったって思っている。
護られるしかない私が彼の隣に立つ資格なんてない。ましてや、あんな光景を目の当たりにさせられて彼らの間に入る余地なんてこれっぽっちもなかった。
これが私がハンターを生業にすることを諦めた理由─────。
「───ん、りん!」
先日の出来事に思考を沈ませていたら、近くで名前を呼ばれていることに気付き、声のする方へと視線を上げた。そこにはさっきまで黒板を消していた葵がお弁当を片手に私の席の前で訝しげに此方を覗いているところだった。
「黒板はもう消したの?」
「とっくに消し終わってるよ!お昼食べようって声掛けてるのに全然反応しないんだもん。調子悪いの?」
どうやら黒板を消して直ぐに私のところまで来てくれていたらしいけど、私が声を掛けても全然反応しないから大分心配をかけてしまっていたらしい。
「大丈夫だよ。ちょっと前にあったハンターの仕事のことを思い出してただけ」
「ふーん、まあ学校辞めるって言ってきた時はびっくりしたけど、また登校してきてくれて良かったよ。うちはお兄ちゃんがハンターやってるけど、しょっちゅう怪我して帰ってくるからヒヤヒヤするよ。りんはあんまり危ないことしないでね。あ、それでね今度───、」
物思いに更けていた理由を素直に話すと、葵は特に興味を持つこともなく相槌一つでそのまま別の話題を振ってきた。
お弁当を食べる為に場所を移動しながらたわいも無い話に花が咲く。
ハンターに未練があるわけじゃないけど、一切辞めるには彼との繋がりが絶えてしまうようで、結局勿体ない気がして協会の登録はそのままにしている。
でももうハンターとして彼と出会うことはこれからはないんだろうとも頭の端では思っている。
それでも構わなかった。鮮烈だったあの時のことは思い出として、今は残りの学生生活を目一杯楽しむ事にした。
あの時のあの綺麗な光景を心の宝箱にそっと仕舞い込んで─────。
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第三者から見た旬とイグリットの関係。
りんちゃんの独白っぽいので、最初の内はイグリット全然出てきませんし、全体的に腐要素は薄いと思います。
初出:2020.06.14