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初夏の日差し

 そろそろ日差しが強くなる季節に差し掛かっていた。
 久し振りに何の予定も入っていない昼下がりの午後、家でのんびりと寛いでいた旬は妹の葵にせがまれ、都心から少し離れたとある緑地公園へ来ていた。
 公園内は程よく整備され、森林区域、水際区域、芝生区域と目的に合わせて各ゾーンに分かれている。
 各ゾーンはゆったりと幅を取った遊歩道で繋がっており、両脇には樹々が初夏の日差しを浴びて新緑を風に靡かせていた。
 過ごしやすく爽やかな気候に訪れている人も多く、そこら辺りから子供たちの元気な声が響き渡る。
 車から降りた二人は動きやすいラフな格好をして、ウォーキングコースと書かれた案内板の前まで来ていた。
「んーっ、いい天気!やっぱり来て良かったでしょ。お兄ちゃん、最近全然家にいないんだもん、今日は一日付き合ってもらうからね!」
 雲一つない空に向かって両腕を伸ばし、軽くストレッチを始めた葵は、隣にいる兄に向かって拗ねたように話しかける。
 自覚のある旬は、妹の言葉に苦笑を滲ませながらも、今日一日は甘んじて受けるつもりでおり、同じく身体を解しながら葵に今日の予定を聞くことにした。
「で、予定は決まったのか?」
「取り敢えず、今からランニング。もう試験試験で机に齧りっぱなしで身体が鈍る!午前中はここにいて、お昼はどうしよっかなー、来る時に可愛いカフェがあったでしょ。あそことかどうかな?」
「カフェなんかあったか?」
「公園曲がる手前にあったじゃん。ちょっとカントリーな感じの可愛いカフェ。あそこにしよっ」
 一通りストレッチが終わり、最後に靴先でトントンと地面を叩くと、どちらが言うでもなしに一番長いコースの道に入って行く。
 旬は葵の言ったカフェを思い出そうとするが、そもそも興味がなかった為かそんな店があったことさえ記憶になかった。
「まあ…、美味いならどこでもいいよ…」
 カントリーな可愛いカフェと言うから、きっと男の自分には敷居の高い所だろう。
 拒否したところでじゃあ何処がいいの!と言われても、この辺りの地理には詳しくない。それならば、妹の行きたいと言う店でいいか、と心の中で早々に諦めることにした。
「で、その後ハンズ寄って!友達の誕生日プレゼント買うの。それからそろそろ夏服が欲しいし──」
「…先に行く」
 永遠続きそうな今日の予定に何だか不穏な気配を感じた旬は、妹の言葉もそこそこに聞き、さっさと退散することにする。
 このまま聞いていたら、今夏の夏服一式買い揃えさせられそうだ。
「あっ、さっきの案内板の所で集合だよ!」
 兄が逃げを打ったと気付いていないのか、はたまた逃げた所で結果は変わらないと思っているのか、先に行く旬に慌てることもなく落ち合う場所を指定すると、葵自身は自分のペースで走り、兄の後ろ姿を見送ったのだった。


 一番長いコースと言っても公園の外周を周るだけなので、精々10km程であり、旬にしてみればものの数分で駆けてしまう距離である。
 葵が来るまでまだまだ時間がある。
 もう一周と、休むことなく周回に入った旬が更に二周目を走り終わり、軽く筋肉を解していると、やっと葵が追い付いてきた。
 額から大粒の汗が流れているのを自分のタオルで拭いてやる。
「相変わらず走るの速過ぎー。全っ然追い付かない!ハンターってみんなそんなに足速いの?!」
「さあ、どうだろう?他の人と走ったりしないからなあ」
 濡らしたタオルが気持ち良いのか、ホッと一息付いた葵にそのままタオルを持たせたまま、先に買っていたスポーツドリンクも渡してやる。それを一気に飲んだ葵は、漸く呼吸が整い今一度大きく深呼吸をした。
「もう走れないー、ちょっと休憩したらご飯食べに行こう!」
 それにしても暑過ぎー!
 散歩には良い気候であったが、ジョギングともなると流石に汗ばんでくる。
 兄に渡されたタオルを首元に当てながら、何処か日陰がないかぐるりと周りを見渡すと、池の畔の遊歩道に冷菓を売っているパラソルショップを見つける。
 昔懐かしいなど謳い文句のノボリにも興味を唆られ、葵は旬に声を掛けると兄の返事も待たず休憩がてらに二人分のアイスを購入しに行った。
「はい、お兄ちゃんの分」
 いるとも言っていないのに律儀に自分の分のアイスも買ってきた妹に呆れつつも、実際昼に差し掛かり暑さが増してきた身にはひんやりとしたアイスは一口食べただけでもホッとする。
 葵に礼を言い、日陰で休もうと近くの木陰に二人で歩き出した時、ふと気配を感じた旬は、葵を先に促しながら背後に視線を向ける。
「犬飼さん…?」
 そこにはおおよそこの場に似つかわしくない、黒のスーツ姿の男が三人、何かの調査をしているのか遊歩道を時々立ち止まりながら此方に向かって歩いて来ているが目に映った。
 向こうはまだ旬のことに気付いていないようだった。
 それならば、仕事中だろうし無理に声をかける必要もないかと、一瞬どきりとした胸の内を誤魔化しつつ、妹のいる方へと踵を返す。

 その時、もう一度彼らに視線を合わさなければ良かった。

 踵を返す時に送った視線に今度こそ向こうが気付いてしまい、一瞬見開いた目と合ってしまう。
 そうなれば無視することもできず、あちらも他の二人に声をかけると此方に向かってきているようで、旬は諦めたように先に木陰のベンチで休んでいる葵に、知り合いがいたから少し話してくると言いおき、葵から離れた場所で犬飼と対峙することにした。
「こんにちは、今日もお仕事ですか?」
 相手が自分に近付いて来ると、何食わぬ顔で挨拶をし、思考を読み取らせない笑顔を向ける。

 ハンターを唯一取り締まれる、協会の監視課の人間。

 現場で何度も顔を合わせているが、彼の怜悧な視線は自分の中を見透かされそうで、会う度に気持ちが落ち着かない気分にさせられる。
 それが、自分の後ろめたさから来ているのか、全く違うところから来ているのか、今の旬には答えが分かる術もなく、今も細められた目が自分の視線と合わされると、早々に逃げ出したい気分にさせられるが、それを悟られるのは矜恃が許さなかった。
 だから、必死で感情を抑える。
 大丈夫、ダンジョンでの戦闘中は常に己の感情は冷えていた。その時の感情と同じようにすればいいだけのこと。
 だから、目を逸すことなく薄らと刷いた笑みを向け、相手の言葉を待つ。
「少し調査をすることがありまして、まだ証拠が出たわけではないのでお話しする事はできませんが」
「いえ、監視課の方のお仕事をお聞きするつもりはありませんので、お気になさらないで下さい」
「水篠ハンターは、ここへは?」
 他意はない筈なのに、聴取を受けてる様に思えて身構えてしまう。
「家族と余暇を過ごしているんですよ。最近運動不足と言うので、気分転換も兼ねてランニングをしに来たんです」
 暗に一人ではないことを告げたからか、それ以上の詮索はなかった。
 ホッと、気付かれないように小さく息を吐き出したにもかかわらず、小さく笑われたのは気のせいか。
「それはそうと」
 その後、特に話題にすることもなく旬としては色々痛む腹を探られたくはないので、立ち去るタイミングを図っていたところ、不意に告げられた言葉に犬飼の方を向くと、彼の目は自分ではなく、自分の指先を見ていることに気付く。
 何かと思い旬自身も自分の右手に視線を送ると、忘れ去られていたアイスが今にも指を濡らそうと溢れ落ちるところだった。
「あ、」
 慌てて手に溢れないようにアイスを傾けるが、流石に年上のそれも仕事中の人の前で残りを食べるのは躊躇われ、さてどうするべきかと内心焦っていたところ、相手から気にせず食べて下さいと言われ、気恥ずかしさも相まって、慌てて残りを口に放り込む。
 冷たいアイスを食べたにもかかわらず、熱を持ったように頬が熱くなる。きっと子供っぽいと思われたに違いない。
 急いで口に入れた為、入りきらなかったアイスが口許を伝い、それも羞恥心に拍車をかけ、慌てて指先で口許を拭う。
 しかし、それよりも先に自分とは違うひんやりとした指に手を取られる。
 不意を突かれた旬は咄嗟に身を引くが、追いかけるように腕を引かれ、それと同時に自身の顎から首筋近くを柔らかい何かが触れる感触があった。
 ちゅっという音と共に離れていったそれをスローモーションのように目で追うと、犬飼の薄い唇に当たる。
「服に付きそうでしたから」
 何の感慨もなく静かな口調で、細めた瞳に見つめられながら言われただけなのに、不自然に鼓動が跳ねた。
 繋がれた指を解くことも視線を逸らすこともできず、自分の周りだけが時間が止まったように周囲の音が遠くに聞こえる。
 だから、太陽に照らされできた自分の影が不自然に揺れたことに旬は気付かない。

 ピリリ、
 どのくらいそのままの状態でいたのか、ものの数秒だったのかもしれない。
 犬飼の持つ携帯から不意に着信音が流れ、はっと意識を戻した時には既に視線も指先の感触も離れ、今まで自分の目の前にいた人物は旬から少し離れたところで、かかってきた電話に指示を出していた。
「今のって──、」
 犬飼が触れた顎先に自分の中指の背で触れる。
 そこにはもう何の名残もなく、触れたことさえ白昼夢だったのかもしれない。
「すみません、本部から召集がかかりました。貴重なお休みのところお時間を割いて頂きありがとうございました」
「こ、ちらこそ、お仕事中にお邪魔してしまい、すみませんでした。あの──、」
 困惑している自分とは違い、犬飼は終始冷静で、何故だか泣きたい気分にさせられる。
 呼び止めたは良いものの、その後の言葉が続かず、結局のところありふれた辞去の挨拶を残して先に犬飼から離れた旬は、足早に妹の待つ場所へと戻っていった。
 自分の姿が見えなくなるまでじっと佇む犬飼に気付くことなく─────。



「あれ?もういいの?」
 角を曲がり、妹と別れた場所まで戻って来ると、何も知らない葵が先程と変わらずベンチに腰を掛けており、両足をブラブラさせながら此方に手を振っていた。
 そののんびりとした仕草が、変に力の入っていた旬の身体から緊張を弛めてくれる。
「仕事中だったみたいだから、挨拶だけして戻って来たんだよ」
 チラリと頭を掠めた先程の出来事は心の奥底に仕舞い込み、何食わぬ顔で葵に言う。
 葵も兄の言葉に不審がることもなく、ベンチから立ち上がると兄の側まで寄って行き、それじゃあとグイっと腕を掴みさっさと歩き出す。
「何処行くんだよ」
「お昼ご飯食べに行くに決まってるじゃん!お兄ちゃんがいない間にさっきのカフェ調べてみたけど、結構人気があるみたいなの!早く行かないと席座れなくなっちゃうっ」
 グイグイ引っ張っていく葵だったが、それでもマイペースに歩く旬に痺れを切らしたのか、最後には背中を押され小走りで車を停めてある場所まで走らされる羽目になった。
「ご飯食べたらハンズだよ」
「いいけど、お前この格好でハンズ行くのか?」
 ジャージにスニーカー。しかも運動をした後だから汗ばんでもいる。年頃の娘がそれで良いのかと旬が呆れて言うと、そんなわけないじゃん!と、下から覗き込まれた。
「一回家に帰るの!だから、早く行って食べて、さっさと帰るよ!」
「折角行くのに少しはゆっくりすればいいだろ」
「だって一日付き合ってって言ったけど、どうせ夜は出かけるんでしょ」
 だったら時間は有効に使わなきゃ!
 どうやら葵は最近ずっと夜も家を空けていたことについて、大分根に持っているようだ。
 一日付き合うと言っても信じてくれない妹に、どう機嫌を取ろうかと頭を悩ませる。
 そこには既に犬飼との遣り取りの欠片もなく、芽を出そうとした淡い感情は休日の家族連れで賑わう公園の喧噪に紛れていった。

 次に蓋が開くのは─────。


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知り合い以上友人未満な関係の犬旬。
まだ全然犬飼さんのことを意識してない、どちらかと言うと苦手に思っている旬です。
葵ちゃんが大分出張っていますが、ウチの二人は仲の良い兄妹というだけで、それ以上でもそれ以下でもありません。
私的にはこっそりイグ旬も入れてたり…( ´艸`)

初出:2020.04.19

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