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キスの合間に

 今日は久し振りに定時に帰れそうだった。
 監視課に異動になってからというもの、この社会は思った以上にハンターたちによる犯罪が多かった。
 強盗、殺人、暴漢、詐欺、あらゆる犯罪にハンターたちが関わっていることが少なくなく、そう言った際、一般の警察官ではほぼ間違いなく手に負えるものはなく、そうなると必然的に協会の監視課が出ていくことになる。
 なので監視課にはランクの高い者が配置されるようになるが、そもそも高ランク者が協会に所属する事は多くない。それは圧倒的にギルドに所属した方が実入りがいいからに他ならない。そうなると必然的に使える人員が限られてくる。結果、協会職員は慢性的な人手不足に陥っている。
 最初こそ一担当に過ぎず、現場に昼夜問わず向かっていたが、職責が就いた今でも、ほぼ毎日のように現場に向かうのはそういう事情があるからであった。
 その為、今日のように出動がない日は本当に稀なことで、日頃できていなかった書類を全て片付け、部下たちへの指示も終わり、休憩時に定時には終われる旨のLINEを送って、さあ残りあと一時間というところで、デスクの電話が一鳴り。
 残業が確定した瞬間だった。


 時刻はもう直ぐ日付が変わる頃。
 あの後、呼び出された現場に向かうと、そこには一般人を人質に取ったハンターが立て篭りという頭の痛くなる手段を強行しており、どうにか説得を試みようと頑張っている警察官の声が辺りに響いていた。
 近くにいる職員を呼び止め事情を説明させると、よくある痴情の縺れというものだった。
 玄人女性にのめり込んでしまったハンターが、金に糸目を付けずあれこれ貢いだはいいが、女の方は客の一人としか見ておらず、いざ男が水揚げを女に迫ったところにべもなく拒絶され、逆上した男が女を引き摺り店に篭城しているという陳腐な話だった。
 直ぐにでも踏み込んで男を捕縛することも可能だが、人質がいる以上強行な手段は取れない。しかも何処から嗅ぎつけたのか報道陣も至る所でカメラを回している。人命を無視した手段は後々非難の対象になるのが目に見えて分かるからこそ、表向きは慎重に事を運ぶしかなかった。
 結果、犯人確保の後、本格的な処理は明日にしても、簡単な報告と書類作成、部下たちを先に上がらせ課の電気を消したのが二十三時を過ぎたところだった。
 協会を出て直ぐ家で待ってくれてるだろう人物にLINEを送ったが、既読になる気配がない。
 ドキリと胸が嫌な音を立て焦る気持ちが増す。
 もう一度、謝罪の文章を送り、もしこれも既読にならなければ直接電話をしようかと考えていたところ、相手からの返事が入り、あからさまにホッとする。
 まだ家で待っていてくれたことに安堵したが、次の内容に先程以上に焦りが増し、もう直ぐ帰宅できるからそのまま待ってて欲しいと、自分でも滑稽になる程の内容を送ってしまう。
 また返信が返って来ず、嫌な汗が背中を伝っていく中、漸く帰ってきた返事に思わず長息が出ると駆ける足を更に速める。
 携帯電話の画面はそのまま。
 気が変わって『帰る』の一言を見落としてしまわないように。


 鍵を開ける動作ももどかしく乱雑に扉を開け、深夜に響く扉の開閉音にも気を遣う余裕もなく、靴を脱ぎ捨てリビングに向かうと、キッチンから此方に向かって来ている相手を目に留め、自身の手に持っていたもののことなど気にもせず思わず腕の中にそのしなやかな身体を閉じ込めてしまっていた。
 足下で何かが落ちる音がしたが構う余裕はない。
「早く帰れるとLINEを送ったにもかかわらず、このような時間になってしまい申し訳ございません」
 潔く非を認め、目を合わせ彼からの赦しをもらう為神妙な面持ちで待つ。
 応えの言葉はなく、暫くの間ジッときつく此方を睥睨していた彼の相貌。
 断罪を待つかのように見続けていた瞳が不意に仕方がないと言うように緩く溶けたのに気付き、此方も緊張が解けてしまい思わず眉尻を下げてしまう。
「なんて顔をしてるんですか。男前が台無しですよ」
 どんな情けない顔をしているか自分では分からなかったが、彼が苦笑するくらいだからそれなりの情けない顔をしているのだろう。
 彼の指が顔に触れ、宥めるように親指の腹で頬を撫でられる。
 もう一度謝罪を言葉に、彼の身体に腕を回し今度は優しく抱きしめると赦しのキスが顎下に一つ落とされた。
「テレビで観てましたよ。ハンターの人質事件があったんでしょう。お仕事なんですから、気に病まないでください」
「それでも約束をしたんですから、やはり今日は僕が悪いんですよ」
「もう…、それじゃあ貸し一つにしておきます。ほら、食事は済まされましたか?簡単なものなら直ぐできますけど」
 自分のせいでなくとも一度交わした約束を反故にすることは彼にはしたくなかった。
 今までそんなことは一度も思ったことがなかった。
 世間一般的には恋人と呼ばれる者が過去何人かいたが、そのどの女性にも情が湧くこともなく、仕事が入れば仕事を優先し、それに耐えられないと非難されれば直ぐに縁が切れた。
 そんな自分が仕事で遅くなったと、彼が帰ってしまうかもと焦るようになるとは思いもしなかった。
 だがそんな自分が嫌なわけではなく、彼によって変えられたかと思うと、出会うことができたことに誰に言う共なくこの奇跡に感謝してしまう。
「食事は現場で軽く済ませてますが、水篠さんは?」
 気を遣った部下が犯人捕縛の合間に軽食を買ってきてくれており、流石にそれを無碍にすることは出来ないので有り難く戴くことにしたのだが、彼が食事をせずに自分を待っていてくれたとしたら更に申し訳ない気持ちになってしまう。
「俺はもう食べちゃってますから気にしないで下さい。それじゃあコーヒー入れますね。あと───、」
 スルリと腕の中から抜けていく彼の温かさが名残惜しい。
「スマホ、落としちゃって大丈夫ですか?結構酷い音がしましたけど」
 全く気付いていなかったが、先程彼を抱きしめた時に落としてしまっていたらしい。
 自分に代わり落ちた携帯電話を拾い渡してくれるのを受け取り、そのままホームボタンを押すと、大きな傷もなく帰宅するまで立ち上げていた画面がそのまま映される。
「大丈夫みたいですね」
 隣で同じく覗いていた彼もホッと一息吐いてにこりと此方に笑顔を見せてくれる。
 しかしそれにつられて笑顔で返そうと目尻を下げかけたところで携帯電話を持った左手首を無遠慮に彼に掴まれ、一瞬何が起きたのか分からず、中途半端な笑顔で表情が止まる。
 彼を見ると変わらずニコニコしているのだが、何故か背筋がピンと伸びる感覚を覚える。
「水篠さ───、」
「どうして旬で入ってないんですか」
 最初言われた意味が分からなかった。
 顔を疑問符でいっぱいにし、彼を繁々と見つめていると、ニコニコしていた顔が自分の言ったことが恥ずかしくなってきたのか、徐々に耳を赤く染めていくのに漸く何を言われたのか理解し、掴まれた手首はそのまま、自身の携帯電話の画面を眺め見た。
 そこには帰宅まで彼と遣り取りをしていたLINEの画面が映し出され、画面左上には遣り取りをしていた彼の名前が表示されていた。
 但し、その名前が『水篠ハンター』となっているのは自分の無精からきているのであって、彼の機嫌が急降下していった原因がこれであることが分かってしまった。そして、その無精さを今更ながら後悔した。
 まさか登録した当時、彼と今のような関係になるとは思ってもおらず、仕事上互いに連絡を取り易いツールとしてあくまで公の立場で彼の名前を登録していた。
 関係を持つようになっても一度登録した名前を変更するのは些か気恥ずかしく、もう少し彼との仲が進展するまでとズルズル延ばしていたら、今度は今更変更する気恥ずかしさに結局そのままの登録で来てしまっていた。
 それがこんな形で彼に暴露されるとは。
「その…変更しようと思っていたのですが…」
「じゃあ、今変えて下さい」
 赤い顔をした彼に正面から詰め寄られ、顔が近くなった分思わず仰け反ってしまう。
「今ですか」
 登録を変更するのは構わなかったが、さてその変更後の名前をどうするか思案してしまう。
 多分絶対『水篠さん』と入れたら最後、そのまま帰ってしまうだろう。そして恐ろしいことに当分の間会ってくれなくなることが容易に想像できる。
 かと言って、いきなり呼び捨てで『旬』と入れるのも本人目の前にしては恥ずかしい。
 なので、変更画面を呼び出して入力したのは無難に『旬さん』だったのだが、確定ボタンを押す前に横から伸びてきた手によって奪われると、今し方入力した名前から二文字消されてさっさと登録されてしまう。
 返された携帯電話を受け取る際に『見てるこっちが恥ずかしい』と言われ、どういう意味なのかと自分の行動を振り返ってみる。
 名前を変えてと言われ逡巡した結果、気恥ずかしさから『旬さん』と入力する一連の動作がどう見ても年頃の初な少女の行動と変わらず、三十路も越えた大の大人の男がする態度ではないと気付き、今度は別の意味で恥ずかしさのあまり近くの壁に頭を打ち付けたくなった。
「犬飼さんでもそんなところ気にするんですね」
「もう若くないんですから、あまり揶揄わないで下さい」
 赤くなった頬を隠すように右手で顔を覆うとクスクスと笑い声が聞こえてくる。
「付き合い出してそこそこなんですから、今更遠慮なんてしないで下さい」
 それこそ寂しいです。
 一度離れた温もりが再度自分の肩口に触れ、吐息とともに吐き出された言葉に煽られる。
 熱が上がりそうになる衝動をグッと堪え、彼の頬に触れてから上を向かせてキスをする。頬に目尻に耳朶に。
「では、僕の名前も晃に直して下さい」
 耳朶の裏を唇で食みながら、彼の携帯電話も未ださん付け登録なのを知っていることを案に伝える。
「それと、この際ですし呼び名も良い機会ですから変えませんか。未だに水篠さん、犬飼さんでは他所よそし過ぎますよね」
 直接耳に口吻を伝え入れ、綺麗に切り揃えられた頸の髪を指で擽ると、彼の口から小さな促音が聞こえる。
 正直、下の名前で呼ぶことに躊躇いがあったわけではなかったのだが、彼が何時まで経っても自分のことを『犬飼さん』としか呼んでくれないので、此方も意固地になっていたのかもしれない。
「別に、嫌だった訳じゃなく…その…、」
「言うタイミングが掴めなかったのはお互い様です」
 言い辛そうに紡ぐ彼の言葉を取って後に続いて言うと、ホッとした様に頷いてくれる。
 お互いが意地を張っていたのかもしれない。
「これからは遠慮しませんから、旬さんも晃と呼んで下さい」
 さらりと出した言葉に気負いはない。それよりも名を呼ぶだけで愛おしさが募る。
 旬さん、ともう一度呼び、彼からの応えが欲しくて目の前にある唇をなぞると、恥ずかし気にわなわなと唇が震える。
「あ、晃さ…ん」
 視線を絡ませながら互いの名を呼ぶことがこんなにも甘美なこととは思わなかった。
 彼の赤く染まった頬と羞恥に潤んだ瞳、わななく唇を見てしまえば、耐えていた衝動を抑えることはもう出来そうになかった。
 自分の名を紡ぐ彼の唇を言葉ごと奪い、角度を変え上下の口唇を啄むように交互に食んでいく。
 先に触れていた頸をそのまま、耳朶に指を添わせそこから頤まで下ろし軽くそこを掴むと、少し深く彼の唇を塞ぐ。
 歯列を舌でなぞり、先程と同じように口端を今度は深く塞いだまま擽ると、呼吸と共に婀娜やかな吐息が漏れ、離れる自分の唇を追って彼から強請るように寄せてくる。
「晃さん」
 途中で止めたことを詰るように名前を呼ばれ、無意識に口角が上がる。
「スマホ、名前の変更がまだですよ。先に変えてもらってもいいですか」
 触れるか触れないかの距離でそんなことを言う自分は随分意地が悪いと思う。
 案の定、彼からも戸惑いの声が発せられ、困惑したように此方を見つめてくる。
 勿論、意図して言ったわけなのだが。
「ここでは何ですから、ソファに行きませんか」
 彼も自分が言ったその意図が分かったらしく、上げていた顔を更に赤くするので、そのまま腰に腕を回し少し先にあるゆったりと二人掛けのできるソファまで彼を誘導する。

 柔らかいソファが二人分の重みで沈み、彼の艶やかな黒髪がソファの布地に広がったのはその後で、そこから後はネクタイを引き抜く衣擦れとソファの軋む音が同時に聞こえた。

 ソファの横に置かれたローテーブルには、よく似た携帯電話が二台。
 画面の光が消える前に見えたのは、互いの名前だけが登録された文字のみ────。


初出:2020.05.05

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