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11月5日 いい男の日・いい林檎の日・いい孫の日

 暖かな陽射しが窓辺から入る、昼下がりをとうに過ぎた時刻。ハンター協会の会長である後藤に呼び出された旬は、何故かその会長と対面で座り、目の前のテーブルの上で小さなアフタヌーン・ティーが広げられているのをぼんやりと眺めていた。
 後藤に呼び出されることはこの日が初めてというわけではない。再覚醒判定後、何度か呼び出しを受けて旬のことや旬の能力について質問された。と思えば特にこれといった理由もなく、唯世間話だけをする時もあった。
 最初は何か思惑があって自分を呼び出しているのかと思った旬だったが、己を見る眼差しや誠実な態度に、張っていた警戒は徐々に解かれていき、今では信頼できる数少ない人となった。
 今日も特に話題があって呼び出されたわけではなかったが「君とはもっと話がしたい」と言われて、快く協会へと足を運んだのは紛れもなく旬自身の意思だった。
 そして会長室へと案内されるや否や、いつも同じ場所でお茶を飲むのも味気ないと言われ、あっという間にここ、協会のカフェテラスへと連れて来られてしまったのだ。
 初めて足を入れたその場所は、テラスと言われるだけあって、緑豊かな木々が茂り、葉と葉の間から秋の柔らかな陽の光が溢れ落ち、並べられた白いテーブルセットの上に優しい陰を幾重にも作っていた。
 そして、そのテーブルの上にはカフェで作られたという自家製のアップルパイとそれに合わせた林檎の紅茶が二人の前に綺麗に並べられていた。
「水篠ハンターは甘いものがお好きだと聞いてね」
 アップルパイにフォークを入れ、口に運びながら後藤がそんなことを言う。情報の出所は直ぐに分かったが、素知らぬふりをして頷き返す。
「今日は“いい林檎の日”とのことで、アップルパイが本日のオススメセットだそうだ。林檎の甘酸っぱい香りがパイ生地に合ってとても美味しい。水篠ハンターも食べて下さい」
 穏やかな笑みを向けられ、促されるままに旬もフォークに手を伸ばす。サクリとパイ生地にフォークが入り、そのまま口に入れれば後藤が言ったように、林檎の爽やかな甘さと酸味が口の中に広がる。甘過ぎることもない絶妙な甘味と焼きたてのサックリとした軽い食感が驚く程に美味しかった。
「凄く美味しいです…」
 きっと今の自分は子供のように目を輝かせていたのだろう。後藤の目尻の皺が更に増えて、慈しむような視線を送られてしまい、少し恥ずかしくなった。
 朱くなった目元を隠すように視線を彷徨わせていれば、後藤の後ろでそっと控えている犬飼と目が合ってしまう。
 パチリと合ってしまった視線と視線。
 じっと見つめていると、後藤から見えないことをいいことに目元を細めて優しい笑みを向けられてしまう。それが二人でいる時にだけ見せてくる笑みだったから思わず顔が朱くなり、咀嚼していたパイを勢い良く飲み込んでしまう。慌てて紅茶のカップに手を伸ばして、喉に詰まり掛けたパイを流し込む。
「大丈夫ですか?」
 いつの間にか椅子に座る旬の側にやって来た犬飼が、心配そうに少し屈んで顔を寄せてくる。犬飼の端正な顔が己に近付いたことで、体温と彼の身体に纏う匂いを感じてしまう。思わず昨夜から今朝にかけての彼に抱き締められた腕の強さや身体の熱さを思い出してしまい、旬に動揺が走る。
 恥ずかしさを払拭させようとパイを切り、フォークに刺すと犬飼の方へと差し出す。
「と、とても美味しいですよ。あき…犬飼さんもどうですか?」
 名前で呼びそうになって慌てて言い直す。流石に人が行き来する場所で、協会側の職員と親しげにするのは要らぬ憶測が生じそうなので、名前を呼ぶのは二人だけの時だけにしている。
 しかし、自分が食べていたパイを切り分け、それをフォークで差し出す行為も親い仲でなければ、ましてや男同士ではしないことに、差し出した後で気が付いてしまう。
 フォークを引っ込めるわけにもいかず、どうしようかと焦り悩んでいたところに犬飼が動く。
「え……」
 まさかフォークを受け取ることなくそのまま口を付けてパイを食べてくるとは思わず、衝撃で身体が固まってしまう。
 犬飼の方は気にすることなくパイを味わうと、見上げていた旬の瞳に目を合わせて笑みを見せてくる。
「本当ですね。甘過ぎず軽い食感が甘味の苦手な男性でも食べやすいと思いますね」
 さらりと感想を述べると、謝意を口にして犬飼はまた後藤の後ろへと何事もなかったかのように静かに控えていった。
 その後のことはあまり記憶がない。
 どうやって残りのパイを食べたのか、後藤との会話がどんなだったのか。
 そして、後藤が自分と犬飼の遣り取りを微笑ましく眺めていただとか、周りから少なくない響めきが走っただとか、そんな周りの反応には全く気付くことなく、二人とはそのままカフェテラスで別れ、旬はふわふわとした頭のまま協会を後にしたのだった。
 ピロン、とスマートフォンの着信音が鳴る。
 画面を開けば、さっきまで一緒にいた犬飼からのメッセージ。
 それに短く返信を送れば、漸く意識が少し回復して、向けていた足をくるりと返し目的地を変更する。
 少しだけ協会のビルを眺める。
 今度来た時は犬飼を誘ってお茶をするのもいいなと思いながら、視線を前へ戻し、雑踏の中へと歩き出したのだった─────。


おまけ
「君にしては珍しいね」
「いえ…そろそろ周りが煩わしくなってきましたので」
「牽制ということかな」
「期待を持たせるのも悪いでしょう。彼は自分のことには無頓着ですから。僕が動いてさっさと諦めて貰うことにしたんです」
「それは君自身にも当て嵌まることなんじゃないかな」
「? 僕に好意を寄せる者などおりませんよ」
「……無自覚同士か……」


初出: 2021.11.05

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