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秋暁

 最近、朝になると自然と目が覚めるようになった。
 以前は、しょっちゅう怪我をしていて体力もなかった為、目覚まし時計を掛けていてもなかなか起きることができなかった。それが再覚醒してからレベルが上がる度にステータス値が上昇するようになり、体力もそれに伴って付いてきたからなのか、疲れが蓄積されることもなくなって、いつの日からか外が薄っすらと明けてくれば自ずと目が覚めるようになった。
 今日もカーテンの隙間から一筋の薄白い陽が淡く入り、瞼の上が僅かに明るくなったことでゆっくりと目が開いた。部屋の中はまだ暗く、周りも静まりかえっている。身体に掛かっている肌触りの良いブランケットから出ると、シャツと黒いデニムのボトムの簡素な服に着替え、家族を起こさないようにそっと家を出る。
 母はもう既に起きていたが、旬の目的を知っている為、視線を寄越して笑みを浮かべるだけで、また朝餉の用意に戻っていった。
 外に出ると秋の朝のひんやりとした空気が頬を撫でていく。
 階段をいつもとは逆に階上へと上がっていき、一番上の踊り場まで来ると手摺壁に足を掛け、そこから一気に屋上へと飛び乗る。
 普段は立ち入り禁止のそこにこっそり侵入する後ろめたさは若干あったが、朝のこの澄んだ空気を満喫することには代えられなかった。
 この辺りでは旬の住んでいるマンションより高い建物はない。
 何物にも遮られることなく朝の澄んだ空気を今一度吸い込めば、肺の中まで清められる気がしてくる。
 東の空を見ると、もうそろそろ陽が昇ってくる辺りの空を中心に白から橙へ、そして紅、紫、藍と見惚れる程の色彩の濃淡が広がり、自然のキャンバスを描いていた。
 日の出まで後少しといったところだろう。
 周りの風景も段々と見え始めれば、いつものように階下から人の気配がしだした。屋上の柵から下を覗き見れば、敷地内にある公園に人が集まっている。
 それを一通り確認して柵から離れると、少し広くなった場所へと移動する。
 その内、爽やかな朝に似つかわしい軽快な音楽が流れてくれば、リズムに合わせて身体を動かし始めた。
 そんな旬の姿を地面に薄っすらと落ちた影の中から見ている者がいる。
 旬はそれを敢えて何も言わず、自分は音に合わせて身体を動かし続ける。そうすれば一つ二つと地面からゆらりと黒い煙のようなものが現れ、それは直ぐに形を成していく。
 旬は何も言わない。
 影は主を伺うように視線を寄越すが、旬が何も言わないと分かれば、各々銘々に空いている場所へと広がっていき、そのまま音楽に合わせて同じように身体を動かし始めた。
 人型から獣型まで。保有している影全てではないにしろ、いつの頃からか旬が朝の日課としてラジオ体操をこの場でやっていると、こっそりと出てきて見様見真似で同じように躰を動かし始めたのだ。
 最初はどうして出てきたのか分からなかった。旬が聞いたところで、声を出すことができない彼らから理由を聞くこともできず、不思議に思っていたのだが、邪魔なわけでもないからそのまま好きなようにさせていた。それにここは周りから見られることのない場所だ。影が出ていたとしても怯えられたり咎められることはない。
 そして何度もこんな朝を迎えて漸く彼らの意図が分かった。そしてその理由に苦笑した。
 何のことはない、彼らは別に何か目的があって真似ているわけではなかった。否、目的がないわけじゃない。主である旬が毎日やっている彼らの知らないことを主に倣って一緒にやってみたいという思いなのだろう。だから気付いた時はあまりに微笑ましくて苦笑を漏らしてしまったのだった。
 チラリと横目で彼らの姿を盗み見る。
 リズムに乗って身体を動かせてる者もいれば、半拍遅れてしまってる者。あまりに豪快で周囲の影たちが吹っ飛ばされてるのに、それに気付かず続けている者。まあ、アイアンだが。
 手足が短くて、躰を動かす度にちょこちょこちまちま動いてる感じがする者。
「ふっ……」
 思わず笑いそうになって慌てて唇を噛んで堪える。
 今は前屈運動中。タンクたち熊型の影たちが声に合わせて前屈をする度に、短い足ではバランスが取り難いのか、一体二体とコロコロ前に転がっていく。以前、家族と一緒に行った動物園で見た白黒の動物を彷彿とさせらる、妙にあざとい仕草だ。まあ…本人たちにそんな気はないのだろうが。転がった先にいたアイアンを巻き込んで何か大変なことになってる……まあイグリットかキバが何とかするだろう。
「あ、斜め前に前屈もう一回あったな」
 ボソリと呟いた時にはまたも転がっていくタンクたち。
 そして、腕を大きくぶん回すアイアンと風圧で吹っ飛んでいく兵士たち。次の跳躍は踏み抜いたり少しでもヒビを入れたら説教部屋だと言い渡しているから、全員大人しめだ。
 跳躍が終われば体操ももう終わり。あとはまた腕をゆっくり振って、最後にラジオの声に合わせて深呼吸をすれば、今日の体操は終了だ。
 この後、ラジオは第二体操を始めるが、下から流れてくるのは第一体操のみ。きっと集まっている住人に高齢者が多いからだろう。
 大きく深呼吸を済ませ、一呼吸置いてから後ろを振り返る。
 どうやら今日は転がったままの状態で終わった者は誰もいないようで、最後まで体操ができて嬉しそうな者もいれば自慢げに胸を張っている者もいる。
 途中転がったり吹っ飛んだりしたことは彼らにとっては瑣末なことのようだ。最後にきちんと深呼吸をして終われば結果オーライ、問題ないらしい。
 やれやれと肩を竦めて彼らの元へと歩んでいけば、それに気付いた彼らが慌てて膝を突こうとする。それを右手で制し、ぐるりと今いる影たちの姿を一瞥する。
「タンクたちはどうしても転がるなあ」
 伏せをした状態でいたタンクの前まで来て、その頭をもふもふと撫でる。
「まあ、可愛いから俺は良いんだけど、毎回アイアンを巻き込むのはなー…」
 仲が良いのかどうなのか、アイアンとタンクはよく一緒にいることが多い。多分同時期に影になったことで親近感が他の影たちよりもあるのかもしれない。
「仲が良くても体操をする時は十分離れるようにしろよ。あと、アイアンはもうちょっと学習しろ」
 毎回周囲の兵士たちを吹っ飛ばしてはキバに嗜められているのに、一向に直る兆しがない。イグリットも始めは色々とアイアンに注意していたようだが、改善の見込みがないと判断したのか、周りの兵士に気を付けるようにだけ言って、あとは被害を最小限に抑える方に切り替えたみたいだった。
「そう言えばイグリットは……いつもの?」
 周りの影たちに聞いてはみたが、彼の場所は大体分かっている。体操が終わった後、他の影たちはそのまま影の中へ還って行く者もいれば、旬が戻すまでこの場で各々好きにしている者もいる。キバやタンクはその大きさからか、じっとしていれば飛んできた野鳥たちの羽休めにされていて、試しにキバにパン屑を渡してやれば、嬉しそうに鳥たちにあげていた。
 そんな中、イグリットは一人離れた場所で剣の鍛錬をしている。いつものような力で剣を振るってしまうと建物を傷付けてしまうから、どちらかというとゆっくりと呼吸を整え、剣の型を確かめる練武をしている。
 果たしてイグリットは皆より少し離れた屋上の端の辺りにひとり佇んでいた。
 少し俯き加減で、剣を握る腕は下げたまま。一呼吸置いた後、そこから右脚を後ろへとずらし、それと同じく下げていた腕を頭上まで上げると切っ先を真っ直ぐに相手へと向けるように構える。そこから頭上で手首を返し、剣を水平に保ち、右脚を前に出しながら切っ先を正面へと流す。右上から左下へと斬り下げた後、再び手首を返し今来た軌跡を戻るように斬り上げる。そしてまた右脚を後ろへとずらしながら、元の位置へと構えを戻す。
 流れるように美しい軌跡を描く剣先と、優雅なイグリットの動きに魅入ってしまう。
 折りしも遠くの山間から朝陽が姿を現し、イグリットの持つ剣身に陽の光が当り、眩しく反射させる。
 陽が当たっても尚、闇は闇のままイグリットはその濃い影を残したまま、剣だけが光に反射して優雅に舞う。そしてそれを追うように深紅のプルームが風に舞いながら長く棚引く。
「……っ」
 何度見ても慣れることのないイグリットの剣舞。優雅ではあるが、力強くそして容赦のない剣捌き。
 ドクドクと心臓が苦しいように高鳴り、旬は無意識に胸を押さえてしまう。
 どのくらいの時が経ったのだろう。ジッと見詰め過ぎていたからか、一連の動作を終えたイグリットが自分に向けられた視線を探すように旬に視線を向けた。カチリと迷うことなく視線を合わせてられ心臓が一気に跳ねて、思わず隣にいたタンクの頭に顔を突っ込んでしまう。
『?』
 突然、主に抱き付かれて困惑するタンクの気配を感じたが、申し訳ないが今はそれを気に掛けてやる余裕がない。
 あんな……、自分の心を何もかも見透かされるような強い瞳に意抜かれて、感情を平静に保てられるわけがない。あのまま見詰められてしまえば真っ赤になった顔を隠すこともできず、皆の前できっと醜態を晒してしまいそうで、思わずその顔を隠すようにタンクに埋もれさせてしまったのだ。
 ドキドキする心臓を落ち着かせようともふもふとしたタンクの毛並みの中で深呼吸する。
 どうにかして平静を保とうとしていたのに何故かタンクが身じろぎして離れようとしたので、もふもふからそっと顔を上げると、いつの間にか隣にイグリットが跪いて首を垂れていた。
 さっきまで練武をしていたイグリットが何故自分の元にいるのかと不思議に思ったが、ああ、と得心がいく。きっと自分がイグリットを見ていたからなんだろう。彼にとって主が視線を寄越すのは何か命があるからとしか思わないのだろう。
 自分がその剣舞に見惚れていたなんて思いも寄らないのかもしれない。良く言えば謙虚、悪く言えば鈍感。旬としてはもう少し自覚を持って欲しいと思っている。自分が旬の想い人だということを。恋人が熱心に視線を寄越す意味なんて少し考えれば分かりきった答えなのに、堅物のイグリットにはそれが思い付かない。否、もしかすると敢えてそっちへの答えを避けているのかもしれない。
「呼んだわけじゃない」
 だから少しずつ地道に教えていく。
「ただ、イグリットが綺麗だと思って見惚れていたんだ」
 女の人のような線の細い美しさとかじゃない。凛として清廉な何者も寄せ付けない、高潔な意志の強さを纏うその姿が何よりも自分を惹き付けて止まない。何処にいても彼だけは見失うことはない。
 己を導く紅──。
 前触れもなくイグリットを褒めたからか、困惑したように固まる彼が可笑しくて口角が上がる。そんな姿にドキドキとした心臓が漸く少し落ち着く。
「少し手合わせしてもらっても?」
 初めてイグリットを従者にした頃と違い、もう随分と旬の方が強くなってしまった。けれども剣の捌き方や無駄のない身体の動かし方は本職の彼に敵う筈もなく、こうやって朝の日課が終わり、彼の練武を見た後は手合わせを願い出る。そうすれば了承の後、恐縮したように低頭して旬の後に付き従ってくる。
 マンションの屋上の少し拓けた場所。
 朝陽は随分と昇り、旬の影だけが長く伸びてイグリットに重なる。
 手を差し伸べれば、長く伸びたその影の手を取るように傅き、恭しく口付けを落とす。
 この時の高揚感はきっと誰にも理解されることはないだろう。胸の内に広がる独占欲にも似た彼への想い。誰にも邪魔をされることのないイグリットと二人だけの一時。
 そんな特別な時を噛み締めながら、上げたままの手のひらに短剣を喚び出す。手に馴染むいつもの剣を握り締めると、今度こそイグリットに向き直る。彼もまた跪いていた体勢を解き、腰に佩いた鞘から長剣を抜き切先を此方へと向ける。
 陽光が互いの剣先に当たり反射したと同時に互いの脚が前へと出た。
 その後、剣の交わる音は少しの間鳴り止むことなく、野鳥が再び屋上から飛び立って行くまで続けられた。

 今日も空は快晴。
 陽は既に昇りきり、秋晴れの澄んだ空気が上空に広がっていた────。


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Twitterのフォロワー様のネタから許可を頂き書かせて頂きました。イグリットの練武を見てキュンキュンしちゃう旬の話でした。
でも本当は日課となった手合わせの後のアレコレを思い出して真っ赤になる旬がいた筈なんですが、いつの間にやら何処かへ行ってしまいました……。申し訳ございませーーーーんっっ。
でもラジオ体操中のタンクとアイアン、イグリットの剣舞の様子が書けたので、そこは満足してます。
なかなか情景描写が上手く書けず、イメージし辛いかと思いますが、少しでも和やかなラジオ体操と、イグリットのカッコ良さが皆様に伝われば嬉しいです

初出:2021.10.17

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