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冷感効果

 ジリジリと肌を刺す太陽の熱。
 何十年とその姿を見ることがなかった旬にとって、この国の四季の中で一番暑い季節の日差しは久し振りの経験であり、慣れない体がその暑さに大分まいっていた。
 体力は人並み以上に有り余る。状態異常もスキルとして受けた祝福によりすぐに回復するが、大自然が与える恩恵とも脅威とも呼べるものには、その祝福も効果がなかった。母なる太陽の恵み自体が大自然からの祝福だと言わんばかりに。
「あ、つい……」
 自部屋でパソコンの画面を眺めながら、来週提出期限のレポートを作成していた旬だったが、あまりの暑さで入力の途中ではあったがそのままデータを保存して電源を落とす。今はパソコンの出す稼働熱でさえ暑さに拍車をかけているようにしか思えず、作成していたレポートは日が陰ってからにでも再度作ることにする。
 ちりん。
 開け放していた窓から風が入り、ベランダの物干し竿にかけられている風鈴が涼やかな音を奏でる。気分だけでも涼しくなるようにと、先日妹が買ってきたものだったが、確かに風が吹くに合わせて鳴る音は、暑さでまいった気分を幾分回復する効果があるようだった。
 しかしそれも長くは続かない。
 再び風が止み、太陽に熱せられた外気が部屋の中まで入ってくる。ここまで気温が高くなってしまってはエアコンを稼働させてもいいのだろうが、今家にいるのは旬だけで。父は仕事に出ており、母と妹は買い物に出かけていた。一人でエアコンをかけるのもなんだか勿体ない気がしてしまう。きっとハンターだった頃、入院中の母と受験生の妹の生活費を工面する時に培われてしまった節約癖がまだ染み付いているせいなんだろうと思っている。
 少しでも熱気から遠ざかる為に窓辺の机の前からベッドへと移動する。マットレスの上に敷かれた冷感シーツに寝そべれば、ひんやりとした感触が肌に伝わる。
「は……」
 ころりと仰向けになり目を瞑る。そうすれば感覚が繊細になり、少しの空気の流れでも風を感じられるようになる。旬はこの感覚が嫌いではなかった。暑くて堪らないのに、風鈴の音と共に窓から入ってくる少しの風を体に受ける。今の季節にだけ経験できるこの時間が好きだった。
「こんなのんびりした時間は久し振りかも」
 また風が止む。
 汗がシーツに落ちる。しかし、それを拭う気は起きなかった。
 目を瞑ったまま、次に吹く風を待っていると、ふと風とは違う大気の揺らぎを感じた。と、それと同時に首筋にひんやりとしたものが触れ、その気持ちよさに思わず溜息が出る。
「喚んだ覚えはないぞ」
 そんなことを言いつつも首筋に触れたものに自分からも手を添える。体に篭る熱が触れた場所から発散されていくのが分かる。
『僭越を犯したことへのお叱りは甘んじて受けます。しかしながら、どうかそろそろ“えあこん”とやらをつけてください。自覚されてらっしゃらないようですが、体温がいつもより高く、顔も赤うございます』
 首筋に触れていた手とは反対側の手が今度は頬に額にと触れていく。
「イグリットの手が冷たいんだよ」
 熱を持たない影の体は、いつでも熱くもなく冷たくもない。けれども気温の高いこんな時期では、その躰は旬のベッドに敷いてある冷感シーツのようにひんやりと気持ちがいいのだ。
「それにお前が出てきてしまったら俺がますますエアコンをつけなくなるの分かってるくせに。それなのにわざわざ出てきてそういうこと言うんだ?」
 エアコンで冷やされた空気で体を冷やすよりもイグリットの躰に触れて冷やされる方がいいに決まっている。
 しかし、それを指摘したところでお堅い従者は旬の言葉を認めない。あくまでも自分が勝手に出てきたのは、熱中症になりかけているのに自覚のない旬にエアコンをつけさせる為だと言う。
「心配しすぎだ。水分は摂っている。お前に触れていたら篭っていた熱も引いてきている」
『確かに表面上の熱は下がっているかもしれませんが、内部の熱は私に触れただけで下がる筈がありません。ですから……』
 長々と続く言葉は今日初めて言われたわけではない。今までもずっと聞かされていた言葉にそろそろ旬の忍耐も限界に近付いていた。エアコンをつけない理由が本当に節約癖の為だけだと思っているのだろうか。
 こんなにもあからさまに言っているのにまだ分かっていない従者に呆れを通して感心してしまう。それとも気付かない振りをしているのだろうか。
(それなら……)
「お前の躰が熱くなれば、俺を冷やすことができなくなるからエアコンをつけるしかないよな」
 そう言うと、旬に触れている手を引き寄せ一瞬で立ち位置を反転させる。イグリットをシーツに縫い付け、己はその腹の上に跨がる。悪戯が成功した悪童のような顔で見下ろせば、漸く旬の意図を理解したイグリットの動揺した顔が兜越しにも関わらず見えた気がした。
「いいよ、エアコンつけよう」
 言いつつもイグリットの上から退く様子も見せず、今はまだひんやりとする胸の上に頬を寄せてぺたりと上半身をくっ付ける。冷たさに体が弛緩し、自然と吐息が洩れる。
「でもやっぱりこっちの方が絶対気持ちいいのに……」
『主君……』
 珍しくむずがる子どものような態度を取る旬を見ていると、イグリットも段々と自分の我を押し付けているように思えてなんとなく心苦しくなる。旬の体を思えば、こんな体温程の気温の中でいるのは良くないと言わねばならない。しかし、自分にくっ付いてこのままがいいと甘えてくる主君……否、愛しい人の言葉を無下にすることも自分にはできない。
 そんな八方塞がりなこの状態にあわあわと狼狽えているイグリットを他所に、旬はこの状況を楽しんでいた。
 大学の長い休み期間中の何をするでもないとある日の午後。窓から見えるは夏空と呼ぶに相応しい紺碧の空と太陽の光でどこまでも白く大きく上昇する積乱雲。
 また風が吹き、ベランダの風鈴がちりちりと涼やかに鳴り響く。そんな時間の流れの中で大好きな人に抱き付いて過ごすこと。旬が何十年もかけて勝ち得た平和な時の流れ。
「夏だなー」
 すり、と目の前の逞しく厚い胸板に今一度頬を擦り寄せれば、今度は躊躇いながらも後頭部の髪の間に添えられた手。それに満足してまた目を瞑る。

 旬の体温がイグリットへと移りゆく時、部屋へと入る夏の音が遠ざかり、それに代わる空調機の駆動する音が静かに聞こえ始めた────。


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Twitterフォロワーさんの誕生日に送り付けたSSです。
夏を感じる話が書きたかったのですが、相変わらず誕プレにするようなネタではありませんね。
これは回帰後、大学生旬の話です。

初出:2023年7月23日

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