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キスと恋文

 我が主君は同性異性にかかわらず慕われていると常々イグリットは思っている。それこそ世俗に塗れたベルの言葉を借りるわけではないがモテる。回帰前も一般人はもとよりハンターに、それも国を揺るがす程のハンターたちさえもこぞって旬の特別になろうと躍起になっていた。
 そんな旬とその周りの人間たちの反応を見る度にイグリットは誇らしい気持ちと反面、寂しく思う気持ちとがない交ぜになっていた。その感情がどこからくるものなのか気付くまでに然程時間は要らなかったが、自覚したからと言ってその感情を表に出すことは許されなかった。許されないと思っていた。
 旬の周りの人間たちは旬へと向ける感情に正直だった。なんのしがらみもなくストレートに好意を向けることのできる彼らが羨ましくもあったが、旬の騎士であり従者であり召喚獣であるイグリットには、例え許されたとしても彼らのように感情を表すことはできなかっただろうと思う。ただひっそりと主君を想い慕い、この感情は忠義心だと思い込ませていた。
 それらの時間が長かったのか短かったのかは分からない。けれどもそんな臆病で狡い己に旬は手を伸ばしてくれた。嘘偽りのない感情を曝け出し、イグリットが欲しいと直裁な言葉で言ってくれたのだ。あの時の感動と多幸感はどれだけの時間が過ぎ去ったとしても絶対に忘れることはない。
 旬が全てをイグリットに預けてくれているというのに、イグリットだけが未だ自身の感情を隠すことなどどうしてできようか。それこそ忠義に反するのではないかと葛藤した。
 そしてイグリットは漸く己の心と向き合い、旬への想いを伝えることができたのだ。
 二人の心はひとつとなった。

 その後、旬は輪廻の杯を使い、全ての君主たちを葬り回帰後の世界で生きることを決めた。

 十年前の世界から時は進み、高校へと進学した旬は姿を十代の成長過程へと魔力で変貌させた。不死の体となった旬の本来の姿は本人自身ももう随分と見ていない。今の姿は偽りだと自嘲していたが、イグリットからすればこの姿も旬のもうひとつの姿には違いないのだ。
 十代半ばの若葉のような瑞々しさと、苦難を乗り越えた者にしか出すことのできない落ち着いた所作は、初めのうちは同年代の人間たちから敬遠されていた。しかし、それも徐々に薄れ、今では回帰前と同じように旬の周りには彼を慕う者たちで溢れていた。そして同じくして異性からのアプローチも増えていた。
 今日も校内にある旬の靴箱には旬へと想いを寄せる異性からの手紙が入っている。想いを綴っただけのものもあれば、放課後に指定した場所へ来てほしいと書かれたものもある。
 それにひとつひとつ律儀に対応する旬にイグリットは感嘆し、改めて尊敬の念を抱いていた。
 だがそんな中、ある時から旬の態度に変化が見られるようになった。手紙の相手にではない。旬の彼女たちに対する態度は一貫して変わらず、丁寧ではあるがきっぱりと断りの返事を毎回している。
 旬の態度がおかしいと感じるのは決まって手紙を読み終わった後、または呼び出された相手と話が終わった後にイグリットと二人きりになった時だった。何かを言いたそうな、イグリットを伺う目線を向けてくる。
『どうされましたか主君?』
 問いかければ「何でもない」と顔を背け、拗ねたような態度を取る。
 旬が何を考え、機嫌を損ねているかが分からず途方に暮れる日々が続く。その間にイグリットは堪らずベリオンに相談をしていたが、溜め息混じりに「朴念仁が」と呆れた声が返ってきて、結局自分で考えろと言われて終わった。

 また旬を慕う手紙が届く。

 今日の手紙もいつもと変わらぬ旬へ憧れと好意を綴ったものだと思われた。けれども旬はその手紙を読んだ後、いつもと違う行動をとる。今までであれば、読み終えると手紙に向かい一言謝ってから手の中で全て燃やしていた。しかし、今回の手紙は読んでいる途中で手紙を元のように折りたたみ、燃やすことなく大事そうに制服のポケットにしまったのだ。
 その瞬間、イグリットは自分でも信じられないくらいに衝撃を受けた。嫌な風に胸が苦しくなり、喉元まで込み上げてきた言葉をどうにか理性で抑える。けれども頭の中は先の旬の姿と手紙のことでいっぱいだった。

 何故その手紙は燃やされないのか。
 何故手紙を大事にしまわれるのか。
 何故……。
 何故そのように穏やかに微笑まれるのか。

 呆然と旬の背後で立ち尽くすイグリットに旬が振り返る。
 じっと見つめてくる瞳は、イグリットの感情を何もかも見透かしているようで不覚にも狼狽えてしまう。何か話さなければと口を開こうとしても何を伝えればいいのか分からず、旬とイグリットの間に沈黙が重く流れた。
 そんなにイグリットに旬から声がかかる。
「どうしたイグリット?」
 ゆっくりと紡がれたその言葉に、ああ、とイグリットの中で全てが腑に落ちた。
 あの時自分が問いかけた言葉と同じ台詞が返される。イグリットが紡いだ言葉に何か言いたそうな伺うような視線を寄越してきた旬。きっと今の自分もあの時の旬と同じような顔をしているのだろうとイグリットは思う。
 なんでもないと言った旬にそれ以上問うことができなかったイグリット。しかし、旬はそうではなかった。
「言いたいことがあるんだろう」
 確信するように言われた言葉に戸惑う。何故ならそれを伝えることは旬の心を疑うことと同じだから。
『いえ……』
 真っ直ぐにイグリットを見つめる視線を直視できず、誤魔化すように跪こうとすれば、胸の前に体を滑り込ませた旬に先手を打たれる。
「今言った方がいいと思うけど?」
 更に言葉を重ねる旬に感情が揺らぐ。
「お前が何を躊躇っているかなんて分かっている」
 だから言ってみろと言われ、抗うこともできずイグリットはとうとう口に出して言ってしまう。
『……今の手紙は何故いつものように燃やされなかったのですか』
 伝えてしまった後、猛烈な自己嫌悪に陥る。こんな責めるような己の狭量を曝け出すような言葉を主君に伝えていいものではない。すぐさま言葉を撤回する為に地面へと落としていた視線を上げれば、そこには何故か嬉しそうな旬の顔があった。
『主君……?』
「俺が手紙を燃やさなかったことがそんなに気になるか?」
 問いの意図も分からず、ただ首肯すればますます旬の目元が弓形に弧を描く。
「どんな気持ちだ?」
『そ……れは……』
「言って」
 イグリットを見つめる瞳と、命じる言葉を紡ぐ唇から目が離せなくなる。旬の言葉に抗えない。
『……今まで一度たりとも手紙を手元に残されることのなかった主君が、その手紙だけは大事そうにしまわれたので気になったのです』
「どうして気になったんだ?」
 言葉は尚も続く。
『それは……残しておきたい程の言葉がそこに綴られていたのかと思うと……胸のこの場所が軋むようにざわつくのです。私には貴方様から頂いた心があるというのに……大事にされたその手紙の主に……愚かにも悋気を起こしてしまったのです。こんな感情は貴方様の心を疑っているようで持ってはならないし、ましてや伝えるべきではありません」
 それなのに主君の言葉に甘えて言ってしまった。従者としてあるまじき行為だったと後悔が過ぎる。
 しかし、旬は首を振る。
「俺はイグリットが嫉妬してくれて嬉しいよ」
 その言葉の通り、旬の声音はいつもよりも柔らかく甘やかだった。しかし、イグリットにはその理由が分からない。
『何故です。悋気などという感情は主君の心を疑っているのと同じではありませんか。主君を信じていましたら手紙の一つや二つ大事にされたとしても感情が揺らぐことなどない筈です』
 心が揺らぐということは、旬の想いを信じきれていないからではないのか。旬からの想いを信じていればこんな醜い感情を持つ筈がないのだ。
 しかし、旬は違うと首を振る。
「俺はもしイグリットが誰かから手紙を貰ったり、俺以外に優しくしてるのを見たらやっぱり嫉妬する。別に俺のことを愛していると言ってくれたイグリットの気持ちを疑っているわけじゃない。頭ではイグリットの気持ちや言動を尊重しないといけないと分かっている。分かっているけど感情はそうじゃない。嫌なものは嫌なんだ。イグリットの全ては俺のもの。俺以外に気を取られるなんて許せないって思ってしまう。独占欲なんだ」
 それに、と今度は少し言い淀みながら話は続く。
「俺が誰かから手紙を貰っても、呼び出されて告白されても何も言われない方が不安になる。本当は俺のことを好きじゃないんじゃないか、興味なんてないんじゃないかって思ってしまう」
 柔らかく緩んでいた目元を少しだけ曇らせイグリットの胸元へと頭を預けてくる。そんな旬の言葉と仕草で漸く先日から見せる旬の視線の意味に気付く。その後、言われた言葉の意味が脳内へと浸透した時には、驚きと共にまさかの思いで慌てて弁明する。
『興味ないなどそのようなことはありえません! 私の心は既に主君……いえ、貴方様に捧げております。お慕い申し上げていると伝えた言葉に嘘偽りはございません!』
 必死に言い募るイグリットに旬は分かっていると囁く。
「ずっと影として忠義を尽くしてきたイグリットが覚悟を決めて俺に伝えた言葉を疑うわけがない。だけどやっぱり他の人からちょっかいかけられてるのに何の反応もしてくれないと不安になるんだ」
 旬に好意を寄せる人たちからの手紙だと知っている筈なのに何も言ってこない。一度だけイグリットに手紙を貰う自分を見ても何も思わないのかと聞いた時は、主君が慕われ賛辞を受けるのは、従者としても誉れ高きことだと平然と言ってのけられ、唖然とした記憶がある。勘違いもいいところだと思ったし、きっとあの時は本当に純粋に旬が慕われていると思っていたのだろう。
 ベリオンがイグリットは朴念仁だと言ってきたことがあったが、まさにこういうところがそうなのだろう。
『何も思わなかったわけではございません。ただ、主君は誰を相手にされても同じ対応をされておられましたから、誰も主君の特別ではないと思うことができたのです。しかし、初めて主君が手紙を大事に懐にしまわれたことで、私の心の底に押し込めてあった存在してはならない感情が大きく芽吹いてしまったのです』
 悋気は愛する人の気持ちを信じていないから起きるものだと思っていた。しかし、旬が違うと教えてくれた。愛しているからこそ生まれてくる感情なのだと。
「言って。イグリットが本当はどう思っていたのか」
『お耳汚しにしかなりません』
「そんなのいい。言っただろう。お前のものは全部欲しいと。嫉妬した感情だって俺は知りたい」
 イグリットの胸に預けていた頭が離れ、視線を上げて見つめられる。回帰前と比べて低くなった身長。青年期を前にした主君の面差しがやはり少し慣れないと思うイグリット。しかし、見つめる瞳は出会った頃から変わることのない強さでイグリットを射止めてくる。
 久し振りに己の胸の奥が高揚してくるのをイグリットは感じた。
『主君を賛辞する言葉も主君への好意を示す言葉も主君を上辺だけしか見ていないのだと、書かれていた手紙の内容で感じてました。主君を上辺だけしか見ていない腹立たしさはありましたが、同時に本当の主君を知るのは自分だけだという優越感もあり、どれだけの人間が主君に好意を寄せていたとしても不安を感じることはありませんでした』
 旬が一通の手紙を大事に懐へと入れるまでは。
『自分でも驚く程、感情が制御できなく恐ろしかったです。悲しみなのか憤りなのかも分からず、手紙をどうするつもりなのかと思わず主君へと詰め寄りそうになるのを必死で抑えました』
 結局それも制御できずに吐露してしまうことになってしまったが。それでもそんな醜い感情も知りたいと旬は言ってくれる。イグリットの全てが知りたいと。だからイグリットも今の気持ちを素直に旬に伝える。
『貴方様の心は誰よりも自由で束縛されることなくあってほしいと願っている反面、私以外のものに興味を持たれないでほしいとも思ってしまう。愚かで自分勝手な感情がこの身に存在するのです』
 見上げてくる旬を見つめ返し、自分の胸に手のひらを置く。
『こんな私の心でも欲しいと仰ってくださいますか』
 切なく問うた言葉への応えは早かった。
「欲しい」
 言葉と共に伸ばされた腕がイグリットの首へと回される。力強く燦然と輝く瞳が目の前でとろりと溶けていくのを逸らすことなく、二人の距離が重なるまで見つめ続ける。
「全部欲しい」
 更に重なる言葉と共に近付く唇。
 全てが欲しいと紡ぐ唇へとイグリットも同じ言の葉を乗せて唇を寄せていく。
『私の全ては貴方様のものです』
「うん」
『許されるなら貴方様の全てもいただきたい』
 返事の代わりにイグリットの首に回された腕の力が強くなる。引き寄せられる力に煽られ、旬の腰へと回した腕の力も強くなる。
「全部あげる」
 イグリットの背に合わせて背伸びした爪先が、腰を引き寄せることで地面から離れる。と同時に漸く重ねられた唇は、それから暫くの間、旬の熱がイグリットに移るまで離されることはなかった。
『私も貴方様に手紙を書いてもいいでしょうか』
 次に唇が離れた時、イグリットが伝えた言葉に溢れんばかりの笑みが返される。
「勿論」


 翌朝、目覚めた旬の枕元に一通の恋文が一輪の花と共に届けられていた────。


**********

─ その後 ─

『それでその手紙だけは何故懐に入れられたのでしょうか?』
 気にするまいと思ってはいても、気持ちが落ち着かないイグリットは、思い切って旬へと尋ねる。
 思い詰めた顔で見つめるイグリットに、しかし当の旬は特段手紙を気にした風でもなく、あっさりと理由を話し出す。
「この人、最近よく俺の夢を見るらしくて」
 そこまで聞いてイグリットの機嫌が下降気味になったのを旬は肌で感じる。それが嬉しくて可笑しくて、どうにかして口元の緩みを隠しながら話を続ける。
「でも必ず俺の後ろに全身真っ黒で中世の騎士のような姿をした人物が立ってるんだって」
『そ、れは』
 手紙の内容にイグリットの動揺する声が上がる。
「真っ黒だし最初は何か良くないものに憑かれてるのかと思ったらしいんだけど、その騎士の俺を見つめる目が優しかったから怨霊じゃなくて守護霊なんじゃないかって思って、俺に教える為に手紙をくれたんだ」
 だから俺に好意があって書かれた手紙ではないと旬は言う。
 守護霊ではないが、あながち間違ってもいない。勘がいいのか唯の偶然なのかは分からないが、手紙の差出人は事細かに夢で見た内容を手紙にしたためて旬へと渡してきたのだ。
 その数、十数枚。
「流石にその場で読み終えられる枚数じゃなかったから、家でゆっくり読もうと思ってポケットにしまったんだ」
『そうだったのですね……』
 それでも旬の関心を引いた手紙に複雑な顔をするイグリットに苦笑を滲ませる。
「また変な方へ勘違いしてるだろう。手紙にイグリットのことが書かれているようだったから気になっただけだ。そうじゃなかったら流し読んで終わり」
 まだ冒頭しか目を通してなかったが、イグリットが旬をどんな風に見つめているとか、旬が見ていない時にこんなことをしていたとか、なかなかに面白そうなことを書いているようだった。
「気になるんだったらイグリットも一緒に読めばいい」
 多分きっとここに書かれてある内容は実際にイグリットが今までに起こした行動なんだろう。
 それを一緒に読み進め、イグリットがどんな反応をするのかを見るのも楽しいかもしれないと、隣で既に手紙に興味を持ち始めたイグリットの様子を見て、悪戯心に火が付いた旬なのであった。


**********
大大大大遅刻しましたが5月23日は「恋文の日」で「キスの日」ということで、恋文を貰う旬に無自覚に嫉妬しちゃうイグリットの話です。
甘々な話を目指して書いていたのですが、どうにもあんまり甘くならなかったです。
キスもさらりと流しちゃいましたが、もっとちゅっちゅさせても良かったなーと反省です。
旬とイグリットのあれこれをン十枚も書き綴った女生徒は、きっとその後も定期的に手紙という名の報告書を旬の元に届けてくれるか、あるいはその内創作物を出しそうな予感しかしませんね。

初出:2023.05.30

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