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ぬいと恋人

 日曜日のゆっくりとした時間が流れる昼下がり、旬は久し振りに一人で自室に篭っていた。
 リビングには母と葵が楽しそうに談笑している声が聞こえる。いつもであれば、旬もその輪の中に入って二人の会話を横から聞いているのだが今日は違う。今から以降は一人の時間。いきなり二人が部屋に入ってくることはないと思うが、念の為に自室の扉に鍵を掛けておく。
 何故そこまでする必要があるのか。
 それは今、旬の手の中にあるものが関係しているからに他ならない。
 暫くの間、じっとその物体を見つめる。
 その後、チラリと視線を上げてちゃんと扉の鍵が閉まっていることを再度確認して、意を決してその物体を恐る恐る撫でてみる。

 むに───。

 両手のひらに収まるそれが柔らかな弾力を旬に伝えてくる。あまりの柔らかさに二度三度とそれをムニムニと揉んでしまう。そしてその後にハッと我に返り咄嗟にそれを手のひらに隠して当たりを確認する。
 今の自分の行動は誰にも見られていない。
 それを確認して詰めていた息をゆっくり吐く。
 そしてふと心配になる。咄嗟にぎゅっと掴み閉じ込めてしまった為、形が潰れていないか気になってしまったからだ。慌てて手のひらを広げれば、形を変えることもなく先と変わらず柔らかな感触を手の中に伝えてきてホッとする。本物ではないとはいえ、彼を模したものを自分の手で潰してしまっては悔やみきれないから。それに初めて作ったそれは旬の特別なものだから。
 そう心の中で呟くと、先日葵とやり取りをした話を思い出す。


「お兄ちゃん、これあげる」
 その日も一日ダンジョンに潜っていた旬は、陽の落ちた頃に漸く家路に着き、リビングで一息ついていた。そこに自室から出てきた葵がソファ越しに旬の手元に何かを渡してくる。
「なに?」
 渡されたものを見てみれば、何やらモコモコとした黒い物体が手のひらサイズでちょこんと手の中に置かれている。
「今、私の周りで流行ってるんだ。ぬいぐるみ作るの」
「ぬいぐるみ?」
 葵に言われてそれを摘み、視線の高さに上げて見てみると、モコモコした中につぶらな瞳が一対、その下に鼻がちょんとくっ付いている。頭には丸い耳が生えて、頭部から背中にかけて青い鬣のようなものがあった。
「これって……タンク?」
「当たり!!分かる!?お兄ちゃんの召喚獣を作ってみたんだけど、どう?可愛く作れてない?」
 旬が一発で何のぬいぐるみかを当てたので葵は嬉しそうに自分で自作を褒める。いつもならそんな葵を茶化したりするのだが、本当に良くできていたので素直に感心する言葉が出る。
「可愛くできてるじゃないか。家事全般からっきしなのに、思わぬところで葵の意外な特技が開花したなー」
「そ、れはっ…、だってお兄ちゃんが何でも卒なくこなすから、ついお任せしちゃう感じになるっていうかー…」
 旬の指摘を誤魔化すように愛想笑いを浮かべ、明後日の方向に視線を流す葵に呆れた表情と溜息を一つ吐く。
 葵がまだ小学生だった時に父と母を頼ることができなくなり、自分が何とかしなければと、旬はがむしゃらに前だけを見て進んでいた。葵のことも周りから可哀相な子だと思わせたくなかったから、父親として母親としての役割を一人で担い、しかしそれが結果として少し過保護になってしまっていたのかもしれなかった。家事全般を旬が主体としてやっていた弊害として葵は家事が悉く苦手だった。料理は学校の調理実習の時はできているとのことなのだが─ まあこれも他の子たちと協力しながらする為、どこまでが葵の実力かは分からないが ─、家では目玉焼き一つまともに作れたことはない。部屋の掃除も大雑把に掃除機をかけるくらいで、整理整頓となれば何をどうすればあんなものやそんなものを棚の中へ突っ込むことができるのか不思議で仕方がなかった。器用とは程遠いものだと思っていたのだが、どうやら何事にも例外はあるようだった。
「そんなことより、私のはこっち」
 雲行きが怪しくなってきたと察知したのか、葵は早々に話題をぬいぐるみの方へと修正すると、手元からさっきのタンクと同じくらいの大きさのぬいぐるみを三体取り出して旬に見せてくる。今度の三体はどれも人型をしていて、珍しく肌は赤。一体はクルクルとした髪型、もう一体は弁髪、最後の一体は頭に熊の被り物をしていた。どれもデフォルメ化されているが旬にとっては馴染みのある姿形をしているこれは──、
「ハイオーク?」
「うん…お兄ちゃんが私に付けてくれてた召喚獣。今も付けてくれてるでしょ?前に助けてくれたお礼がしたくてこっそり呼んだら出てきてくれて、それから時々お話しするんだ。って言っても向こうは喋れないから私が話しかけるだけなんだけどね」
 少し恥ずかしそうに話す葵の表情には、一時の不安と恐怖に慄いた色はもう殆ど見る影はない。そのことに心からの安堵と、未だ自責の念に駆られる心を葵の頭を撫でることでどうにか面には出さないようにする。旬が気にしてしまえば、葵にも影響が及んでしまうから。
「それ、どうするんだ?」
 手に取った三体のぬいぐるみをしげしげと見つめる。彼らの特徴をよく捉えていて、それだけで葵とあの三体のハイオークが友好な関係を築いているのが分かり、なんだか微笑ましかった。よく見ると床にうっすらと映る葵の影が跳ねるように小刻みに揺れている。
「家の鍵に付けようと思ってる。学校の鞄に付けようかとも思ったんだけど、それはこの子たちを付けるから」
 そう言って嬉しそうに出してきたのは、以前から葵が熱狂的に追いかけているアイドルグループのメンバーだというぬいぐるみだった。此方も勿論可愛らしくデフォルメされていて、葵くらいの年頃の女の子が好きそうな形を象っていた。
「これも葵が作ったのか?」
「勿論!推しへの愛は惜しみなく注がないと!」
 当たり前だと胸を張る葵に感心するやら呆れるやら。
 しかし、見せてもらったぬいぐるみは自分の影たちに劣らぬ程、完成度が高く仕上がっているので、あながちその言葉に間違いはないのだろう。
 そうやってぬいぐるみを葵に返しながら、旬はふと頭の中にあることが浮かんだ。葵が嬉しそうに「日常で使うものと推しが一緒になったら、毎日が幸せでしょ」という言葉。その言葉を聞いて頭に浮かんだのはただ一人。
「それって、俺でも作れそうか?」
 “推し"という概念はいまいちよく分からないが、いつも一緒にいたいと思う人はいる。否、一緒にはいる。何処にいても必ず自分の側で自分の背中を守ってくれている。だけど何処ででも姿を現せることはできない。そんなことをすれば周囲にいらぬ不安を持たせてしまうから、
「お兄ちゃん器用だから私が作ってるくらいのだったら全然作れると思うよ。何?何か作ってみたいぬいがあるの?」
 旬が思った以上にぬいぐるみに興味を持ったことが意外で、葵は目をパチクリと瞬かせたが、旬が少し言いづらそうにしているのを見てピンとくる。
「もしかして、お兄ちゃんが作りたいのって───」
 旬に近付いて誰にも、旬の影たちにさえ聞こえないくらいの声で耳打ちする。
「っ」
 案の定、物凄い勢いで身体を仰け反らせて顔を朱くする旬に、葵はにこやかな笑顔を見せてくる。
「布は私の部屋にあるから、今から作ろっか」
「……よろしく…」
 兄の狼狽える珍しい姿を見て見ぬ振りをしながら内心、友人である朝比奈りんに今日のことを報告しなくちゃと息巻きながら旬を自室へと迎えたのだった。


 あれから一日経ち、今に至る。
 葵が言う通り、持ち前の手先の器用さで旬は特に苦戦することなく、お目当てのぬいぐるみを完成させることができた。勿論、作っている最中は影たちに見られたくないから、感覚の交信をシャットダウンしていた。でなければ、誰を何の目的で作っているのかを彼らに事細かく見られるなんて羞恥以外の何ものでもない。ベル辺りは自分のも作ってどうかお側にいぃぃ!!っと懇願してきそうだが、キバや他の兵士たちからの柔らかな温かい目で見守られるような視線は正直居た堪れない。
 だからと言うわけではないが、完成したぬいぐるみをじっと見つめている姿を見られるのが恥ずかしくて、今も彼らとの感覚交信を意図的にシャットダウンしている。
 さっきはそのことを忘れていて、つい彼らに見られているかもと思い、手の中のぬいぐるみを潰しそうになってしまったが今度は大丈夫。
 少し跳ねた心音を深呼吸一つで整えてベッドに寝転がり、シーツの上に手の中にあるぬいぐるみを座らせる。
 全身は真っ黒で、同じく真っ黒だけど本体とは違う生地を使って羽織らせたマント。顔は刺繍で表情を付け、その左目には同じく刺繍で表した縦に入った一本の傷痕。そして頭上には彼の特徴である深紅のプルームを柔らかな布で作っている。
「うん、上出来」
 葵も誉めてくれていたが、初めて作ったにしては良くできていると自分でも自賛する。
 ちょんとベッドの上で座っている姿が実物とのギャップがあって、それも愛玩に拍車がかかる。手で触れば柔らかな感触が伝わり、思わずぬいぐるみの横にごろんと寝転がって目の前でしげしげと見つめてしまう。本物をこんな風に間近でじっと見つめるのは恥ずかしくて中々できないけれど、これならいつまでも見つめていられる。
「ホントはさ、お前じゃなくて本物をぎゅってしたいけど、そんなことできるわけないしさ」
 互いに気持ちを交わした仲ではあったが、だからと言って自分の我儘の為に彼を何度も喚び出すことに抵抗がある。
 いつでもお喚び下さい、と声はなくとも身振りで伝えてくれた。だけど自分の性格上、それができないでいる。きっと今まで長男として両親のいないこの家を、葵を必死に守ってきた癖が身に付いてしまっているのだろう。何かを欲する為に自分を優先するという選択肢が己の中から抹消されていたから、こんな些細なことでも言葉にするのに躊躇いがある。
 だけど本人じゃない、このぬいぐるみ相手になら我儘を言うことができる。だってこれは所詮彼ではない、自分の願いを叶えられる存在じゃないから、何を言っても困らせることはない。
「まあ、二十歳過ぎた男がぬいぐるみに向かって喋ってるのなんて、誰にも見られたくはないのが正直なところだけど」
 客観的にも主観的にも今の自分の姿はちょっとどうかと思う。
 それを自覚してしまったらまた羞恥が湧いてきて、シーツに顔を埋めて身悶えする。ゴシゴシと朱くなった顔をシーツに擦り付けて手足をバタつかせていたら、その振動で座っていたぬいぐるみが旬の方へとバランスを崩して倒れてくる。ふに、とした柔らかな感触が頬に当たる。
 眼前に広がる黒の布地に手を添えてそのままぎゅっと抱き締める。そこからシーツに投げ出していた身体を仰向けにさせて、胸の上辺りで抱き締め直す。そうするとシャツの隙間から見える肌に布が当たって、その優しい肌触りに心が癒されていく。
「イグリット…」
 目を瞑り、ぬいぐるみではない本体の名前をそっと呟く。
 小さなぬいぐるみでは彼を抱き締めたようにはならないが、イグリットだと思って抱き締めれば愛しさが増してくる。
 肌触りを堪能しながら、首を伝い顎を辿って唇の上にぬいぐるみを置く。
 少し乾燥した唇に布地が当たる。そっと瞼を上げれば、ぬいぐるみの顔が旬を見下ろしてくるので、また目を閉じて、その顔にキスをした。
「キスしたいな……」
 そっと呟いた言葉は唇の上に当たった布地の中へと吸い込まれていく。
 前にしたのはいつだったか。
 思い出そうと思考を巡らせていると、不意に持っていたぬいぐるみを手の中からそっと奪われ、それとは別に大きなものにその手を包み込まれた。
 気配を感じることのできなかった相手にびくりと身体が震え、閉じていた瞼を上げると、そこには先までの黒とは違う馴染みのある闇色が目の前に広がっている。そして目端には深紅のラインが一筋。
「なんで…」
 交信は遮断していた。それなのにイグリットがここにいることが信じられなくて、どうしたらいいのか咄嗟に反応を返せない。
 予想だにしていなかった事態に思考が止まった旬を余所に、イグリットは旬の持っていたぬいぐるみをしげしげと見つめている。自分に似たムニムニとした物体が気になるのだろうか。それとも旬が愛おしそうに抱き締めていたことに何か思うことがあるのか。
 そう頭の片隅で考えていた旬は、今さっきの自分の行動を省みて、勢いよく跳ね起きる。イグリットは一体いつから影の中から出てきていたのか。
「イグリット、いつからそこに…いや……その……そうじゃなく……その……見た…?」
 ぬいぐるみ相手に話しかけたり、あれこれをしていた自分の行動を思い出ししどろもどろになる。案の定、イグリットは少し困った風な気配を見せてくるから、本当に穴があったら入りたいくらいに顔から火が出る。
「ぅぅ…」
 恥ずかし過ぎてベッドで丸くなる。手元にあったシーツを手繰り寄せて、意味もないけれどイグリットから隠れるように頭からシーツを被る。
「なんで出てきた…」
 恥ずかしさを誤魔化すように、喚んでもいないのに出てきたイグリットを詰るが、そう言えばさっきイグリットの名前を呼んでしまったことを思い出し、また居た堪れなくなる。会いたいと思ってしまったから、遮断していた交信が緩んでしまっていたのかもしれない。そんな時にイグリットの名前を呼べば、旬が喚んでいると思って出てきてしまうのは当然だ。しかし、ということは旬が呟いた言葉も聞かれている可能性も高くて。
「…聞いた…?」
 シーツの隙間から目元だけを出して、ベッドの脇で跪くイグリットの様子を伺うように見上げる。
 イグリットは首を傾げて、旬に目線を合わせてきたから、あの言葉は聞かれていないのだとホッとした。けれども一瞬後、包まるシーツごと背中を引き寄せられ、シーツの合間を縫って、隠していた顔の上にふわりとキスをされた。
「っ」
 やはり聞かれていたのだ。
 “キスがしたい"そう呟いた。だからイグリットは自分にキスをしたのだろうか。
「俺が願ったから?」
 何も言わない内に唐突にイグリットからキスを仕掛けてくることなんて今まで一度もなかったからきっとそうなんだと思う。案の定、イグリットは少し躊躇いながらも首を縦に振る。だけど、その後に横にも振ってくる。
「え…どっち?」
 意味か分からず、もそもそと頭の上に被していたシーツを下ろし、イグリットをもっとよく見る。すると、それを待っていたようにまたキスをされる。今度は唇を喰んでくる、イグリットがよくしてくるキスだ。それで何となく理解した。
「最初のは俺のキスで今のはイグリットのキス?」
 旬が願ったキスでもあるし、イグリットが願ったキスでもある。二人共に相手を求めていたと分かりホッとしたのと嬉しさが込み上げる。
「イグリットもキスしたかった?」
 問えば肯定のキスが降とされる。
 軽く合わせるだけで離れていく唇に、今度は旬の方から寄せる為に腕を上げる。イグリットの首に腕を回して引き寄せれば、抵抗されることもなく再び唇が合わされる。触れるだけじゃない、唇を開いて舌を覗かせれば、するりと口内にイグリットの舌が入り込んでくる。久し振りにした恋人とのキスは、驚く程に甘美な心地にさせられた。
 ちゅい、と水音と共に離れていく唇を目で追ってしまう。もっとしてほしいと言えば、イグリットを困らせてしまうだろうか。
 キスで溶けた視線でじっと見つめていれば、イグリットが手に持っていたぬいぐるみをベッドの端、旬の手の届かないところに置こうとする。
「あ、ぬい…」
 特に意図せず手を伸ばしてそれを手に取ろうとして、イグリットが更に遠くへと置くので不思議に思う。いつものイグリットなら主である旬が求めたものならば、直ぐに差し出してくる筈が今は逆の行動を取る。手を出しても躊躇うように旬にぬいぐるみを渡そうとしないその行動の意味することを考え、はたと気付く。
「もしかしてぬいぐるみに妬いた?」
 案の定、イグリットの肩がピクリと震えたことにそれが正解だと教えてくる。
「ぬいぐるみだぞ?しかも…イグリットのぬいぐるみ」
 自分でイグリットのぬいぐるみと言うのは些か恥ずかしさがあったが、いつも一緒にいられないからぬいぐるみを代わりにしただけだと言う。けれどもイグリットはまだ納得できなくて首を横に振ってくる。
「でもずっと外にお前を出しておくわけにはいかないだろ?」
 周りが驚くのもあるけど、きっと不思議がられる。何故影を出したままにいるのかと。その問いに「一緒にいたいから」なんて答えたところで呆れられるに違いないから、それなら一人きりになれない場所ではイグリットのぬいぐるみで我慢しようと思っていたのに、それはイグリット的にはダメなのだろうか。
 旬がどう納得させようと困った顔をしていると、イグリットも困った顔をする。そして結局遠ざけていたぬいぐるみを旬に戻すことにしたらしく、旬の手の中へと返された。
 ふわりとした触り心地が手元に戻ってきたことで、思わず口元へとぬいぐるみを持ち上げれば、自分とぬいぐるみの間にイグリットの手が阻んでくる。
「イグリット?」
 旬とぬいぐるみの間に距離を置いたり、旬の口元に近付くぬいぐるみを阻んだり。さっきの行動と今の行動が同じ意味を成すのであれば、答えは一つ。
「ふわふわだから生地の触り心地を確認してただけなのに?」
 イグリットには旬が他のものにキスをしているように見えたのだろうか。
 旬にとっては特に意味のない行動だったとしても、イグリットからすれば自分以外のものが想い人に触れる、しかも自分を模したものが自分よりも先に触れてもらえていたことが気に入らないのだろうか。
 視線の先の表情は変わらないのに、何故か落ち込んでいるように見える。そこには旬がイグリット自身でなくとも、ぬいぐるみで満足できるのだと思い違いをしている彼の考えが容易に見えた。
「ばかだな。こんなのお前がいれば必要ないに決まってる」
 ベッドの際に座り直して、イグリットのマントの端をキュッと掴む。
「葵がさ、推しとは一緒にいたいって言ってて。推しの意味はよく分からないけど、一緒にいられない間も好きな人を近くで感じたいってことだと思って。それを聞いたら無性にイグリットのぬいぐるみが作りたくなって…ぬいぐるみで満足しようとか、そういう気持ちは全然なかった」
 イグリットが此方側でずっといることができるのなら、ぬいぐるみなんて作らなかった。でもそれをしてしまうと周りを驚かせてしまう。旬自身があれこれ言われるのは気にしないが、周りのイグリットを見る奇異の目や口さがない言葉にきっと我慢できなくなる。
「でも、イグリットを嫌な気持ちにさせるつもりはないから、これは部屋に置いておくことにするよ。会いたくなったら、お前を喚べばいいことだし」
 結局自分の性格の問題なのだ。要は自分がイグリットに甘えられるようになればいい。会いたい時は会いたいと素直に言えるようにする。少しの我儘ならイグリットだって許してくれるだろう。
 そう伝えると、どこかもどかしそうな表情を見せるイグリットに手を取られ、そのまま腕を引かかれる。
「あ…」
 そのまま広い胸へと飛び込むように抱き留められ腕の中に閉じ込められる。
「イグリット?」
 突然の行動に目を瞬かせていると、掴まれたままの手の甲にキスを落とされる。それから抱き締められて今度は唇へとキスをされた。顎の下に指をかけられ優しく包み込むようなキス。上唇を啄まれ舌で戯れるように歯列を擽られる。恋人としての時間を過ごす時のようなイグリットの様子に、彼の言わんとしていることが分かる。
「急に喚び出すかもしれないぞ」
 ちゅいとキスでそれを受け入れてくれる。
「お前のこと困らせるかもしれない」
 それも構わないとキスで応えてくれる。
 その後に旬に見せる視線の熱さとか指の柔らかさとか、今までの寂しさを埋め合わせるように甘い甘い時間を旬に与えてくれる。
「イグリットも会いたくなったらいつでも出てきてほしい」
 旬以上に感情を抑える恋人を牽制すれば、困ったような顔をするから、拗ねる仕草でその鼻先に齧り付く。旬の手を覆うイグリットの手から小指を取り、旬のそれと絡めてギュッと握る。
「約束」
 その言葉でイグリットも漸く首を縦に振る。
 主従で恋人だと色々とままならないこともあるけれど、今回のように少しづつ互いの気持ちを伝え合っていければいいと思う。
 今はもう全身でイグリットを感じることができて、寂しさや不安なんて全然感じられない。好きな時に喚んでもいいと言ってくれたし、我儘も言ってほしいと言ってくれた。甘えることを教えてくれるイグリットに、自分も同じく教えたい。
 そう心の中で誓った旬は、自分からもイグリットに抱き付いていくと、その唇へとキスを落とした。

 これは日曜日のゆるりと流れる午後のひと時。恋人たちの様子─────。


おまけ
「お兄ちゃん、結局イグリットさんのぬいぐるみは部屋に置いたままなの?」
「うん、会いたい時は喚べばいいし、一緒にいられる方法も分かったから」
 あの後、等身で出てこなくても、魔力調整でミニマムサイズで出ることも可能だと分かったから、戦闘時以外は旬の護衛も兼ねて肩口にちょこんと座っているイグリット。人通りの多いところでは流石に影の中に戻しているが、そうじゃない場所では最近の定位置になりつつある。
 照れ臭そうに話す旬に、葵がそれじゃあと手に持っていたものを旬に渡す。
「一人だと今度はぬいのイグリットさんが寂しくなっちゃうから、寂しくないように」
 渡されたものを見れば、そこには自分によく似たぬいぐるみが一つ。
「一緒に並べて置いたら寂しくないでしょ?」
 にこりと訳知り顔で笑顔を向けられる。葵は一体どこまで分かっててやっているのか。それを問い質すこともできないまま、旬はぎこちなくありがとうと言葉にすることしかできなかった。
 だから旬の部屋の棚の上には二つ。
 恋人たちのぬいぐるみが幸せそうに仲良く並んで座り、部屋の持ち主の帰りを毎日待っていたのだった─────。

***

おまけ2
質問「タンクのぬいぐるみは?」
 答え「キーケースに付けて、いつもポケットの中にいる。偶にポケットからはみ出てる時があって、我進ギルドのスタッフから可愛いと言ってくれるのが、身内を褒められてるみたいで密かに嬉しかったりする。あとミニイグリットも実は好評だったりして、他の影たちもこぞってミニマムになろうとするのが今少し困ったところ」

初出:2022.03.11

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