── 沖の屋
voce
闇の中で初めて耳朶を震わせたイグリットの声は今でも鮮明に再生できる程、胸が熱くなり心が震えた。
それは至上のCavalier ────。
君主たちとの戦いから数日。束の間の平穏な日常の中、旬は自身の力について改めて振り返っていた。
影の君主から受け継いだ膨大な力。
設計者と相対した時に得た力とは比べ物にならないくらいの力が己の身体の中に渦巻いているのが分かる。ただのS級ハンター、否、国家権力級のハンターであっても、この力を制御することはできないだろう。身体に取り込んだ時点で、その強大な力に押し潰されて身体ごと消滅してしまうのが目に見えていた。
しかし旬はそれを可能にした。
最初の二重ダンジョンで再覚醒をした身体はレベルアップという手法により、徐々に力を蓄えていった。と同時に強大な力の器としても耐久力を上昇させていたことに、全ての理を知った後に理解した。
そしてその膨大な力を取り戻したのは旬だけでないことも知った。影の従者たちもまた各々の力を解放させていた。元々従者の中で群を抜いて強かったベルとイグリットは元帥級へと昇級した。彼らの力は旬も感嘆する程に増大したが、それよりも何よりも一番の変化はイグリットにあった。
そう──、
イグリットの声が旬にも聴こえるようになったのだ。
ずっと待ち望んでいたことだった。
初めて影を従者にした時は、召喚獣だからとはなから人語を喋ることは不可能だと気にも留めていなかった。しかし人語を話すことができるベルが仲間になったことで、その考えがある種の期待へと変化した。イグリットも昇級すれば言葉を話すことができるではないかと。
ただ、もしかするとベル固有のスキルなのかとも考えた。しかし、グリードを従者にしたことでそれは確信へと変わった。階級が上になれば言葉を話すことが可能になると。
だから今回の力の解放で一番の収穫はイグリットの声だった。
そう歓喜していた筈なのに──。
「主君」
不意に背後から耳朶へと自分を呼ぶ声が吹き込まれる。大きな声でもなく、寧ろ自分にだけ聞こえるように囁かれた音量だったにもかかわらず、耳元で囁かれたその言葉に、そのまま頽れるかと思った。辛うじてその場に留まることができたが、イグリットの声を吹き込まれた方の耳朶が痺れたように中が疼く。
“孕みそう…”
ネットのコミュニティで女性たちが声の良い芸能人や動画発信者にそう評していたのを偶然見たことがあったが、その時はよく分からなかった表現が今は分かり過ぎる程理解できる。
こんな声を毎日聞かされたら心臓がドキドキしっぱなしで本当におかしくなってしまいそうだ。
「主君? 如何されましたか?」
反応を示さない自分に不審に思ったのか、イグリットが再度声を掛けてくる。
耳に響く重低音が腹の底を熱くさせてくるのに必死で気付かない振りをして、何でもないように彼の方へと振り向いた。視線の先にある顔はいつものように無表情で生真面目な程直立不動で立っているのに、目元だけが少しだけ訝しげな色を纏っている。きっと旬が何かに動揺しているのを目敏く見つけたのだろう。
自分が動揺させている張本人だなんて思いもよらない顔をして旬を見つめていることに、些か八つ当たりにも似た感情が胸に湧いてくる。だけど自分がイグリットの声で感じているなんて恥ずかしくて気付かれたくない。
「何でもないよ」
瞬き一つで感情を隠してはみたけれど、イグリットは納得してなさそうな感情を声に乗せてくる。
「そう、ですか……?」
「っ……」
瞳を覗き込まれ、低く落ち着いた声が自分を気遣い心配げに揺れているのを聞いてしまえば、もう駄目だった。
足が頽れる前に、無言で目の前のイグリットに飛び込み、胸の辺りに顔を埋もれさせる。
旬の突然の奇行にも慌てることなく、そのまま抱き締め返してくれる腕に、ドキドキとした心臓の鼓動はそのままに、それだけで幸せな気持ちが溢れてくる。
「主君?」
「このままで」
身体の温かさや生命の鼓動があるわけじゃないのに、イグリットの腕の中に包まれると安心する。視界いっぱいの闇が怖れよりも安寧をもたらせてくれる。
まだ全然イグリットの声に慣れることなんてできそうにないけれど、このままゆっくりといつまでも自分の名を呼び続けてくれることを願わずにはいられない。
どんな顔をして自分を抱き締めてくれてるのか知りたくて顔を上げれば、優しく見下ろしている瞳とぶつかる。
「イグリット」
名を呼び、応えを待たずに腕を上げて首筋へと絡める。それだけで言葉がなくても察するイグリットに笑みを浮かべれば、真っ直ぐと伸びた己の腕が徐々に下がっていき、それと同時に自身の唇の上に柔らかな感触が降りてきた。
「主君、」
そして唇の上で奏でられる音に今度こそ、この身を預けたのだった────。
初出:2021.11.20