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baume à lèvres

 初めてキスをした。
 否、あれをキスと呼んでもいいものかさえ分からない。視界を遮る闇の中で静かに己の唇に落ちたものは夢か幻か。
 それでも唇の上に微かに残る感覚が、それが夢でも幻でもないことを伝えてくる。
 彼が何故そんな行動を起こしたのか分からない。常に一歩下がった場所で従者として主君である己に忠誠を捧げ、個としての感情を見せることのない。能力が解放される前もされた後でも言葉少なで、こちらから話しかけなければ殆ど口を開くことはなかった。
 主と従の間を明確にきっちりと線引いていた筈の彼が何故そのような行動を起こしたのか、された行為よりもそのことに対する疑問の方が強かった。
 でも、
「嫌じゃなかった……」
 同性の筈なのに触れられたことへの嫌悪感は全くなくて。暗闇だったから相手の顔が見えなかったからだろうか。
 だけどもし仮に陽の当たる場所で同じようにされたとしてもきっと答えは同じだろうと確信できる。
「まあ、見えていたらアイツは絶対しないだろうけど」
 あの時は周りが見えない全くの闇の中だったから。きっとキスの相手が誰なのか気付かれないだろうと思っての行為だったのかもしれない。時間だって本当に一瞬。触れたかどうかさえも分からないくらいの接触。
 だけど生憎と自分の身に起きたことが分からない程鈍くはない。それが片想いをしている相手からされる行為であれば尚のこと。
「なんで……」
 彼はキスをしたのだろう。
 考えれば考える程、己の都合の良いように解釈してしまう。彼も自分と同じ想いなんじゃないかと。
 感覚が未だに残る唇を無意識に指で触れる。
「お兄ちゃん、さっきから唇気にしてるけど、どうしたの? 荒れてるんだったら開けてないリップあるからあげようか?」
 不意に近くから妹の声がする。
 唇に触れていた指を慌てて離し、声のする方へと向き直れば、テーブルを挟んだ向こう側でラグの上に座って此方を不思議そうに見上げる視線とかち合う。
「そろそろ乾燥してきたから唇が荒れてきたんじゃない?」
 毎年冬になれば自分の唇が乾燥でカサカサになり、酷いと血が滲むくらいに荒れているのを妹は知っている。
 いつもであればこの時期は手放すことのできない薬用のリップクリームであったが、今はスキルの影響でそれも必要なくなった。システムのメッセージにあった“健康な日々を送ることができる”とは、病気や怪我以外にもこういった肌荒れのようなものも治してくれるということなのだろうか。
 再び癖のように指で唇に触れてしまうのを妹は唇の荒れを気にしているのだと捉えたらしく、自室に置いてあるリップクリームを取りに行ってしまう。
「いつもお兄ちゃんが使っているのじゃないけど、保湿力があって血色も良くしてくれるって、学校で今人気なんだ」
 そう言って渡してきたものはスティックタイプのリップクリームだった。
 妹の学校内で人気ということだが、見た目はシンプルなデザインだからか男が使ったとしても可笑しくはなさそうだった。
「今は男の子も肌のお手入れちゃんとしておかないと、女の子にモテないんだから」
 ただでさえ引きこもりの廃人でしかないんだからと、相変わらずの口の悪さで酷評してくる妹の頭を小突いて、貰ったリップスティックのキャップを取る。
「……色が付いてんだけど」
 いつもと変わらない白色のクリームだと思っていたが、そこに見えるのは淡いピンク色をしたものだった為、思わず妹に指摘する。
「あ、それピンク色してるけど、塗ったら透明だから大丈夫だよ」
 私のは薄く色が付くタイプなんだけどね。
 と、自分のリップスティックと並べて見せてくれる。
「ふーん。最近は色んな種類があるんだな」
 化粧品なんかに全く興味がない為、使っているものは昔から変わらない。何か支障があるわけでもないし、悩む時間が勿体ないというのもあるのだが。
「酷くならない内にちゃんとケアするんだよ」
 そう言って、友人から電話が掛かってきた妹はそのまま自室へと入っていった。
「困ったな」
 今はもう必要ないから返そうと思っていたのだが、タイミングを失ってしまった。まあ、荒れてなければ塗ってはいけないものでもないから、折角妹がくれたものだしと、慣れた手付きでひと塗りする。
 そうすれば、彼に触れられた感触が少しだけ薄らいだような気がして、ホッとしたのと同時に少しだけ寂しい気持ちが胸の中を通り過ぎていった。

 ああ。次に彼が触れてくれるのはいつになるのだろう────。

*** おまけ ***

 妹に貰ったリップクリームを捨てるのも勿体ないからと普段使いをする。以前は冬になればよく使っていたから、気にすることなく事務所やハンター協会に行った時、ゲート攻略後にと癖のように取り出しては塗っていると、それを見た周囲が何故か驚いた顔をして、次に必ず顔を赤くして目を逸らしていくのを不思議に思う旬だった。
 その頃。
「あ、あのリップクリームのコンセプトって〝思わずキスしたくなる♡うる艶唇〟だった。まあ、そんなのお兄ちゃんは気にしないか」
 まさか自身の兄は気にせずとも周りに甚大な被害をもたらしているとは思いもよらない。そして、そんな旬の姿を回り回って化粧品会社が知ることとなり、我進ギルドの事務所に連日化粧品CM出演のオファーが殺到することとなるのはもう少し先の話。



**********
イグリットに片想い中の旬の話でした。
イグリットのことは出しませんでしたが、彼も旬のことを主君以上に想っていて、でもそれを表に出すつもりはなくて。それなのに何も見えない闇の中だったから少しだけ箍が外れてしまったのかもしれません。そして、その後に盛大に反省してそうです(笑)
このリップクリームのネタは大分昔に思いついていたのですが、なかなか書く機会がなくて。
今回冬のイベントで書くおまけに何かいいものはないかとネタ帳を探していたら、このネタが見つかったので、ようやくお披露目となりました。
さて、旬は化粧品のCMに出演するのかどうか(*´艸`*)

初出:2023年1月8日 インテックス大阪フリーペーパーより

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