── 沖の屋
薫る記憶
出会いと別れが交錯する季節。
早咲きの薄桃色の花をつけた樹々が、まだ少し冬の名残を見せる景色に花弁を散らす。
あてもなく歩む公園内に、卒業を終えた学生たちの別れを惜しむ声が、そよそよとそよぐ風とともに流れてくる。
どこからか聞こえる別れの言葉に思わず足を止め、声のする方へと視線を向ける。
去り行く後ろ姿に向かってブレザー姿の女性が、長い髪を風に靡かせ、小さく声に出していた。
“さようなら”
ツキリと胸に痛みが走る。
それはさっき自分が彼の後ろ姿に向かって紡いだ言葉と同じもの。
幸せそうに微笑む彼。
自分も一時は同じ笑みを向けてもらっていた。
柔らかな想い。彼の優しい声と落ち着く香り。全てが幸せだった。
けれど自分では彼を幸せにすることができないと分かったから、彼の前から姿を消した。
人と違う道を歩んでしまった自分は、もうこの世界の住人ではない。そんな自分に彼を巻き込みたくはなかった。彼には人としての当たり前の幸せを見つけて欲しかった。
だからその為に、ゆっくりと自分の存在を周りから消していった。
一年、二年と。
騒がしかったメディアが自分のことを報道しなくなった。
協会が管理するゲートに入らなくなり、協会から自分の名前を抹消した。
五年、十年──。
科学が進歩し、昔よりもずっとゲートの管理が容易になった。ハンターの役割も画一的になりシステム化が進んだ。
もう、一昔前に隆盛を極めた者のことなど、過去の逸話として残るだけだった。
誰の記憶にもきっと自分のことなど残っていない。
微笑む彼の隣には、彼を幸せにした人がいる。
彼が今幸せだと確認できただけで、またこの先の長い月日を生きていける。
シャツのポケットに入れていた煙草をそっと指に挟む。
彼が好んで吸っていた少し甘みのある香り。
自分といる時は殆ど吸うことのなかった煙草だけど、キスをする時に彼の舌から香るそれの味は嫌いじゃなかった。
咥えた煙草に火を点け、ゆっくりと煙を口に入れる。記憶にある彼の匂いを辿ろうとするけれど、口内に広がる味は何かが違い、彼を思い出させてはくれなかった。
いつの間にか自分の隣に一つの影が並ぶ。
吸い込んだ煙を吹きかけても嫌な顔をすることなく、影は自分の指に挟まれた煙草を取ると、同じように一口吸い込んだ。
細く吐き出された紫煙が風に揺られるのを見上げ、そのままその唇に自分のそれを押し当てる。
口内に舌を差し入れ、中で互いに絡め合う。
さっきまで匂わなかった記憶の煙草の香りが甦る。
彼の好んだ煙草を吸って、その香りに包まれながら、記憶の彼とキスをする。
影は何も語らない。
何を想い、キスを許すのか。
けれどそれには気付かないフリをする。
自分の中の彼との記憶が過去のものになるまでは、影の想いも手に取ってはいけない気がした。
それが遠い未来のことなのか、明日のことなのか。
自分さえ分からない────。
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この作品は私の中ではイグ旬なんですが、読み手によっては犬旬と取られる方もいらっしゃるかと思います。
どちらで取っていただいてもいいかなと個人的には思ってます。
初出:2021.03.08