── 沖の屋
疲れた時の特効薬は
影も経験を積めば自分と同じようにレベルが上がる。
ある一定の水準まで達すれば階級がワンランク上がる。一般級なら精鋭級に、ナイト級なら精鋭ナイト級に。そして、将軍級に上がれば今は聞くことのできない彼らの声が聞けるようになるかもしれない。
そんな夢を旬に抱かせるきっかけとなったのがベルを仲間にしたことだった。
ベルが仲間になるまでは、使役する影に言葉を発する者は誰もいなかった。キバでさえ生前は人語を操っていたが、影になった途端、言葉を忘れたかのように声を出さなくなった。
階級が上がれば彼らの声を聞くことができる。そのことは旬にとって興味の対象であり、期待を寄せるもののひとつになった。特に旬の側で戦い続けているイグリットの声を思うと胸が熱くなるのを抑えきれなかった。
その為ベルを仲間にして以降、イグリットの階級を早く上げたくて、空いている中級ゲートの殆どを申請するようになった。他のギルドから反感が来るかもしれないが、そこは副ギルド長が上手く対応してくれている。
あとどれくらい経験を積めばいいのか。数値で分かればいいのだが、これだけはいつも現れるウインドウでも知ることはできなかった。
それでも経験値を積む為に旬は連日ゲートへと入っていったのだった。
その日はいつもより忙しい日だった。
珍しく妹が買い物に付き合ってほしいと言ってきたので、朝から隣町のショッピングモールへ家族三人で来ていた。今はシーズンの売り出し期間中になっているらしく、どの店舗も特売価格を店頭で謳っている。
妹の魂胆は分かっている。旬を荷物持ちにさせようとしているのだ。どれだけのものを買おうとしているのか知らないが、それでも母と楽しげに話しながら店を回っている姿を見るのは、久し振りに穏やかな時間が訪れたようで心が癒された。
モール内は流石にセール中だけあって人が多く、どの店も大変賑わっていた。混雑する通りを病み上がりの母を気遣いながら移動し、彼女たちが購入した商品の荷物番をする。
ひとしきり回ったあとは、妹が行きたがったモール内にあるカフェテリアで少し遅めの昼食を取り、そのまま帰宅すれば、タイミングよく賢太から連絡が入る。先日から申請していた三つのゲートの進入許可が下りたとのことだ。
陽はまだ傾きかけた辺りで、夕暮れにかかるには少し早い頃合いだった。
母には今からゲートに入るから夜は遅くなると伝える。夕飯のことを聞かれたが、いつ帰って来られるか分からないから自分の分は必要ないと言う。
「気を付けて行ってらっしゃい」
ゲート内では何があるか分からない、旬を心配しているだろうに、それを口には出さず優しく微笑みながら送り出してくれる母に感謝して、旬は目的のゲートへと向かった。
すぐにダンジョンブレイクを起こすゲートは今のところはない。本来なら今日中に全てのゲートを攻略する必要はないのだが、少しでも早くレベルを上げたかった旬は、申請の下りたゲート全てを本日中に攻略してしまいたかった。
ただ、家族サービスのあと、レイドを三つ回るのは流石の旬でも疲労が蓄積されてくるのを自覚する。特に身体的疲労というよりもショッピングモールでの人混みにあてられた精神的な疲労の方が強かった。
自分がそれなりに顔が知られていることは、妹や旬の周りの人たちからしつこいくらいに言われているので否が応でも自覚している。それに元々周囲の目を気にする性格ではなかったから、旬自身はなんとも思わないのだが、その目が家族に向けられるとなったら話が違ってくる。流石にS級ハンターの家族に直接ちょっかいをかけてくる愚かな人間はいなかったが、それでも好奇な目が二人にも向けられているのを心配してしまうのは仕方がないことだと思う。
だから、レイドではその精神的疲労を発散させる目的もあり、いつも以上に身体を動かして。結果、最後のレイドを攻略した時点で、汗と土埃とで大分薄汚れた状態でゲートから出てくる羽目になってしまった。
時間は既に深夜を随分過ぎた頃。
今から帰宅して身体の汚れを流す為に風呂に入るとすると、家族を起こしてしまう可能性がある。特に母はきっと旬がどんなに遅く帰ってきても気付いて起きて出迎えてくれる。それが心苦しくて、最近では日を跨ぎそうになれば先に連絡を入れて、我進ギルドの事務所で寝泊まりするようにしていた。母には本音の部分は隠して、ただギルドでレイドの後処理が長引いて帰れないということにして。だから今回も最後のゲートに入る前に連絡を入れておいた。
事務所に戻り灯りを点ける。
最後のゲートまで付き合ってくれた賢太も事務所まで付き合うと言っていたが、流石に疲れた様子だったから自分のことは気にせず帰宅するよう促した。最初は渋っていたが、それでも旬が再度同じことを言えば不承不承家路に向かい帰って行った。別に旬とて賢太がいても気にすることはないのだが、きっと彼は旬が仮眠するまであれこれと世話を焼こうとする。自分の方が疲れているのにだ。だから、こういう時は旬一人で事務所に帰ることにしていた。勿論、後処理など仕事が残っているなら別ではあるが。
ギルドのスタッフが使うフロアを通り過ぎ、エレベーターで上の階へ行く。上階にはスタッフの休憩室と仮眠室があり、更に上の階には旬専用の仮眠室がある。旬は必要ないと言ったのだが、これについては賢太が頑として譲らなかったので諦めて好きにさせた。しかしその結果、どこのホテルの一室かと言わんばかりの部屋ができあがってしまい頭を抱えそうになったのは記憶に新しい出来事だ。
賢太自身はギルドマスターが使用する部屋であればこのくらい当然だと言っていたが。
「それでもこの浴室の広さはない」
仮眠室には浴室も備えられていた。
風呂の湯を入れる為に浴室に足を踏み入れ嘆息する。
目の前には大の大人が優に三、四人は同時に入れる程の大きさの湯船と洗い場が広がる。旬ひとりが使うのにいったいどれだけの湯量がいると思っているのか。反論したところで部屋のデザインの時同様「ギルドマスターの〜」と真面目な顔をして言われるのがオチなので、諦めて黙って使っている。
そんなことで、普段は勿体ない気持ちがあってシャワーで済ませていたのだが、今日はどうしても湯に浸かりたい気分の方が強く、初めてここの湯船を使うことにした。
自動湯沸かしのスイッチを入れて十分程待てば湯張りが終わった音声が流れてくる。汚れた服を脱いで浴室に入り、簡単に身体の汚れを流して早々に湯船に浸かれば、今まで張っていた緊張が一気に解けた。
「あー……無理かも……」
丁度いい湯温、旬の背でも優に足を伸ばせる広さ。ヘッドレストに首を乗せれば、あまりの気持ち良さに動きたくなくなってしまう。
「このまま寝たい……」
ぶくぶくと湯の中へ沈んでいく上半身をどうすることもできず、口元から既に鼻先まで湯船に沈んだところで何かが後頭部に触れ上半身を支えられる。
微睡みかけた意識をどうにか浮上させ、閉じていた瞼を億劫げに開ければ、そこには見慣れた愛しい影の姿があった。
「イグリ、ト?」
ぼんやりと眠気のせいで舌足らずに名前を呼ぶ。呼ばれた相手は旬を支え、再び湯船の縁に凭れかけさせるとそのまま何事もなかったかのように戻っていこうとしたから、離れていく手を咄嗟に取って止めてしまう。
「待って……」
働かない思考のまま相手を見上げると、引き留められると思っていなかったのか、イグリットが困惑した雰囲気で旬を見返している。
「も、だめ……動けない……。イグリット洗って……」
いつもの旬であれば言わない言葉と、ふにゃふにゃになった身体をイグリットに無条件に預ければ、躊躇うことなく身体に触れてくる手に満足する。旬が喚んでもないのに現れた時点で、彼は従者としての立場ではなく恋人として旬の前に現れたのだと、この時だけは自分の都合のいいように解釈する。
浴槽の縁に後頭部を乗せて眉をハの字にイグリットを見上げる。引き止めた手が頬を撫ぜ髪を梳いていく感触が気持ち良くてうっとりと目を閉じていれば、ふわりと花の香りが鼻腔を掠める。それからすぐにがっしりとした指が頭部を優しく揉んできたので、その手に任せて旬自身は温かな湯の中で全身の力を抜いていく。
「ん……気持ちいい……」
ひと通り洗い終わりシャワーで泡を流し終えれば、今度は浴槽に沈んでいる旬の身体を掬い上げられる。逞しい腕に軽々と抱え上げられ、イグリットの腿の上で背中に凭れかけさせられた状態にされたかと思えば、そのまま肌の上をもこもこと泡のたったボディソープで全身くまなく洗われる。肩を撫で、腕を滑り上半身が泡まみれになっていく。時折り筋肉を解すように弱過ぎず強過ぎない絶妙な力加減で揉まれ、旬の唇から自然と吐息が漏れ出る。肌を滑る手が胸元を通り過ぎ腹部へと移動していく。
「一緒に洗って……」
一瞬、動いていた手が止まったことに気付くが、瞼を上げることなく気にせず洗うように伝えると、それまで以上に繊細に洗っていくから可笑しくておもわず唇に笑みが浮かんでしまう。
「いつもは容赦なく触るくせに」
言えば密着している躰がひくりと揺れるから、更に可笑しくて、閉じていた瞼を上げてイグリットの顔を見上げる。無表情ではあるが、目元が困惑げに揺れているように見えるのはきっと気のせいではない筈だ。
「冗談だよ。とても気持ちがいいから、今度からレイドのあとはお前に洗ってもらうのもいいかも」
そう言うと、困惑しながらも満更でもない様子を見せてくるから旬自身も本気でイグリットに任せようかと思ってしまう。
そんなことを考えていると身体の方も洗い終わり、今度もシャワーで丁寧に泡を流されていく。その後、再び湯船の中へと戻されのんびりと浸かりながら、たまにイグリットに話しかけては疲れた身体を癒していく。勿論、話すのは専ら旬だけで、声を出せないイグリットは静かに旬の声に耳を傾けつつ、旬からの問いには指先の動きや目元の表情で応えていく。本当は他にもイグリットと心を通わせる方法はあるが、常にするには照れが生じる行為なので、それは特別な時だけの二人の秘め事としていた。
だから今のこの穏やかな時間にもそれは必要なかった。それに旬はイグリットと意思の疎通を図ることは、なにも特別なこととは思っていない。どうしてだか言葉がなくてもイグリットとは意志が通じている気がするのだ。勿論、彼が何をどんな風に思っているのか仔細までは分からない。だけど、旬の言葉に困ったり喜んだりしているのはなんとなく感じられる。更に戦闘時になれば視線ひとつでイグリットの動きが読めるし、彼も旬の動きを読んで剣を振る。旬の邪魔にならないように、旬が戦いやすいように援護してくれるのだ。
「経験値を積んで将軍級になってイグリットの声を聞きたい気持ちも凄いあるけど、今の言葉がなくても通じ合えてるままでもいいと思ってる自分もいるんだ」
浴槽の縁に後頭部を乗せてイグリットを見上げる。濡れた前髪から滴が落ちるのを指で掻き上げながら伝えれば、イグリットは少し考える素振りを見せる。旬の言葉に同調しながらも、自分はそうではないと言いたそうに緩く首を振ってくるので、どうしたのかと理由が知りたかった。
「イグリットは違うのか?」
てっきり旬と話す理由がないから首を振られたのかと思ったのだが、そうではないらしい。
自分の唇の辺りを指で押さえ、そのままその指をきょとんとした表情の旬の唇に触れ合わせる。まるで言葉を交わしたいと言っているようで。
「イグリットは話がしたい?」
そう言うとすぐに首肯が返される。更に胸に手を当て、再びその手を旬の唇に触れ合わせてくる。その仕草だけでイグリットの言いたいことが分かってしまい、のぼせたわけでもないのに頬が熱くなる。
「イグリットの気持ちは分かってるよ……」
言葉がなくても旬を見つめる瞳の強さ、その奥に潜む熱を孕んだ焔を一度でも見てしまえば、そこに乗せられた想いに目を逸らすことなんてできない。
「言葉が話せるようになったら、絶対最初は俺を呼ぶんだ。他の誰かの名前を俺より先に呼んだら許さないからな」
子供っぽいことを言っている自覚はあるけれど、それが紛れもなく旬の本音である以上、きちんと思いは伝えておく。イグリットは誰よりも特別な存在だから、やっぱり自分を一番に呼んでほしい。
そう伝えれば明らかに嬉しそうな気配を漂わせ、約束を誓うと胸に手を当て頷き返してくれた。
上機嫌なイグリットを見ていると、旬の気分も高揚してきたと同時に今の二人の距離がもどかしくなる。寄りかかっていた浴槽の縁から起き上がり、イグリットの方へ腕を伸ばす。
「そろそろ上がる」
そう伝えれば当然のように旬の体を湯船から抱き上げ、バスタオルで包まれる。浴室の床に下ろされ肌を流れる水滴を丁寧に拭われていく。いくら疲れているからといっても、普段の旬ならイグリットにここまでさせることはない。今も床に下ろしてくれるだけでよかったのに、体を拭かれて部屋まで抱き上げて連れて行かれてしまったので、イグリットに全てを任せてしまった。どうせここにはイグリットしかいない。たまには好きな人に甘えたってバチは当たらない筈だ。
「今日はもう全部イグリットに任せる」
部屋に予備で置いてあるシャツとボトムに着替えさせられ、座ったソファの後ろからドライヤーをかけられる。いつの間にかこういった道具も普通に扱えるようになっていることに、感化されてるなって思うと同時に、自分の為に人の道具にも関心を持つようになったのであれば、それはそれで嬉しいとも思ってしまう。
いつもは鋭く尖ったガントレットの指先を旬の肌を傷付けないようにと形を潜ませ、男らしく節くれだった指が髪を掬い上げては乾かしていく。時折地肌を撫でていく手が気持ちよく、髪の水滴が殆ど乾いた頃には気が付けばソファの上で微睡みかけていた。
ドライヤーの音が止む。
それでも旬の瞼が上がることはなく、ゆらゆらと形の良い頭が小さく船を漕いでいる。
イグリットはそっと静かに旬の体を抱き上げた。数歩歩いた先には仮眠用のベッドが置かれている。微睡む旬を起こさないように、抱き上げた時と同じく静かにベッドの上に体を下ろしかけたところで旬の瞼が少しだけ上がる。
仰向けのまま、いつもは前髪で隠れている秀でた額が露わになり、形の良い眉が綺麗な流線形を描いている。その下にはどんな時も強く輝きを放つ瞳が、今は眠気でとろりと甘く溶けて、部屋の照明の下でキラキラと光を反射させている。
そのまま旬をベッドに横たえたところでイグリットの首に腕が回される。まるで離れていかないように繋ぎ止められているようで、不自然な状態で動きを止めるはめになる。
そんなイグリットをよそに旬は近くなった恋人の顔に頬を擦り寄せる。
「イグリット……ありがとう。大好き」
半分夢の世界へ誘われた声は舌足らずな言葉で。それでも嬉しそうに伝えた後、頬に寄せていた唇をイグリットの唇に寄せてキスをする。ちゅい、と可愛らしいリップ音を鳴らせば、イグリットが反応する前にそのまま本格的に夢の中の住人となってしまった。
首に回した腕の力が抜けてベッドへと倒れていく旬をイグリットは優しく支える。穏やかな寝息を立てだした旬にシーツをかけ、その寝顔を静かに見つめる。少しだけ躊躇ったイグリットだったが、旬へと指を伸ばし頬に触れる。普段であれば気配に聡い旬が、今はイグリットが触れても起きることがないことに幸福を感じる。
『────』
言葉を発することはまだできない。
それでも、穏やかに眠る旬へと当然のように言葉をかけ、イグリットもまた同じく、愛しい恋人の唇へとキスを落とす。
〝おやすみなさいませ、我が君。お慕い申し上げております〟
旬がイグリットの声を聞くことができるのは、まだもう少し後のこと────。
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久し振りに能力が解放される前のイグリットと旬の話を書いてみました。
時系列的にはベルを影に入れてから君主たちがまだ本格的に旬と接触して来る前くらいかな。
ずっとモブ道の甘々とは無縁の再録作業をしていたので、イチャ甘に飢えていたのです(汗) なので、その反動で書いた話とも言えるのですが、平素は誰かに甘えることのない旬がイグリットと二人だけの時は甘えちゃうってシチュエーションが大変大好きで。
旬は長男ですし、父親は行方不明、母親は溺睡症で入院中だったから、ずっと誰かに頼ることができなかったと思うのです。で、自分だけでなにもかも解決しようとする癖がついちゃったけど、イグリットにだけは甘えてほしいなっていう私の願望を書いてみました。
入浴中の全裸の恋人が疲労でへろへろになった色気増し増しな表情で自分を見上げながら「洗って……」なんて言われたら、どんな鋼の心を持っていたとしても即落ちすると思ってますw
あと我進ギルドのビル内は私の願望です。こうだったらいいなーって♡ でも賢太のことだから絶対旬専用の部屋は用意していると思うのですよ!
ということで、ここまでお読みくださりありがとうございました。
初出:2023年8月20日インテックス大阪用フリーペーパーより