── 沖の屋
無彩色の紅
固く握りしめていた短剣をインベントリに戻すと、ようやく非現実から現実に戻ってきた実感が湧く。
高揚した体内の魔力を静める為に空を仰いで深呼吸をする。その時になって、さあさあと降りしきる雨と、己の服が随分と水分を含んでぐっしょりと濡れていることに今更ながらに気付いた。
空に向けた視線を戻し、目の前に広がる景色を見る。
風はなく、降りしきる雨は垂直に細い線を幾重にも描き、地面を濡らしていく。
人目がつきそうなビル街の一角で見つかったゲートは既にダンジョンブレイクを起こしていた。ビル街といっても、裏通りのビルとビルの狭間。オフィスに勤務するだけの会社員が普段通ることのない袋小路にあるブロックの隙間に隠れるように開いたゲートだった。
幸いにしてゲートのランクは高くはなく、近くにハンター協会の職員がいたこともあり、一人の犠牲者も出すことなく、ダンジョンボスは旬に倒され、ゲートはそのまま何事もなく閉じていった。
後に残ったのは無数の魔物の死骸と魔物によって少しばかり破壊された街並み。そして、その場に降りしきる雨が周りを白く烟らせるように降り注いでいた。
少し前から降り出した雨は瞬く間に地面に水玉模様を落とし黒く塗りつぶしていく。ぐっしょりと濡れそぼり肌にまとわり付いた服が煩わしかったが、今更何をしても濡れねずみであることには変わりなく、視界にかかる前髪だけを無造作に掻き上げた。
さあさあと雨は降り続ける。
一般人を避難させた現場は、旬と旬の使役する影たち以外、動くものはいない。混凝土の山の間で影たちは瓦礫の撤去を始めている。
鈍色の空は、陽が傾いたことで周囲を無彩色の世界へと変えていく。雨に濡れた瓦礫も黙々とそれを撤去していく影も全てが色のないものたちで。そして、振り続ける細い雨が彼らの境界をも白く曖昧にさせていく。
黒と白、灰色の色のない世界。
それは己の心にも似た世界だと旬は思う。
しかし、そんな中に一筋だけ旬の目を奪う色がある。
吸い寄せられ、目が無意識のうちに探してしまう色。
己の指標であり目標でもある色。
色のない世界にその色だけが一瞬にして旬の瞳の中へと飛び込んでくる。色鮮やかに、鮮烈に。冷えた旬の心を熱する色。
旬の視線に気付き、振り返ったそれが灰色の世界に一筋の紅い筋を載せる。ゆらりと揺れる紅に目を奪われる。
あの日、人を殺めた時からずっと高鳴ることを忘れていた心がひとつ大きく鼓動を打つ。指標であり目標である色の筈なのに、時々そこに別の感情が湧き上がる。
不快ではない。
だけど、どうすればいいのか分からない。胸が絞られるような痛みと共に。自分では持て余す不可思議な感情。
そして、同時にそれに名を付けてはいけないと理性が訴えてくる。心の奥底を見るなと言ってくる。
だから旬は見て見ぬ振りをする。鼓動が高鳴り胸の痛みを確かに感じていたが、それには気付いていないと自ら暗示をかける。
「イグリット」
声は雨音に掻き消されてしまい、相手に届くことはない。届かなくていい。
相手の紅だけが色のないこの世界に色を付け、旬の瞳の奥へと届けばいい────。
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雨が降っていた日にふとノスタルジーな感傷に浸りそうになって、思わず書いてしまったものです。
モノクロの旬の心の中にひとつだけ色彩があれば、それはイグリットの紅だったらいいなって思ったのです。
文章から色を思い浮かべていただけたらいいな。