── 沖の屋
朱華
チリチリと視線を感じる。
今までも時折り感じていた視線だったが、最近自分の感情を騒つかせる程、頻繁に感じるようになった。
だからといって不快なわけではなく、逆に見られていることに落ち着かなく、視線の向けられる場所を不必要に手で摩ってしまう。
首元から頸にかけて。
じっと見つめてくる視線は、性的なものが含まれているわけではなく、どこか心配気で不機嫌な気配を漂わせている。
振り返っても誰もいない。
だけど、きっとこの視線の先にいるのは────。
我進ギルドとして動き出してからというもの、外部からの会合やら懇談やらの招待を頻繁に受けるようになった。大体は旬の意向を汲んで賢太が精査して、必要なものだけをピックアップしてくれているので、出席する会合自体はそれ程多くない。しかし、それでも出席せざるを得ない会合も出てきて、それが本日夕刻から開催されるギルド会談だった。
「面倒くさい」
会談なんて言っているが、実質唯の会食だ。しかも夕刻から始まると言えば、酒が当たり前のように振る舞われるのが目に見えていた。招待客の中には酔いに任せて絡んでくる者もいるだろう。流石に旬に絡んでくるような無謀な者はいないだろうが、それでも酔った勢いというものがある。相手にするつもりはないが、そもそも会談に行くこと自体が億劫だった。
「諸菱君に任せれば良かったな」
通常であれば、旬が表に出ることはあまりない。殆どが賢太に任せていたが、今回のような大掛かりな会談だとマスターである旬が出席しないわけにはいかなかった。
面倒くさいを全面に出した顔で渋々シャツに腕を通す。
今着ている黒のシャツは肌触りが良く、それだけでも上等なものだと分かる。先に履いたスーツのスラックスも同じく履き心地は最高だった。けれども、それだけでは旬の気分が上がるわけでもなく。
「ノーネクタイでオッケーなのは幸いだな」
会食と交流会が主だった会談の為、服装についてはあまり指定がなかった。流石にいつものシャツとパンツでは駄目なことくらいは旬にも分かっていたから、今日は黒のシャツに黒のロングジャケットという出立ちで行くことにした。
シャツのボタンを留め、ジャケットを羽織ろうとしたところで、ふといつもの視線を感じた。
しかし今は自分一人しかいない自室。そんな場所で視線を感じるとなれば、自ずとその正体が分かってくる。
「何か言いたいことがあるんだろう」
誰とは言わずともそれだけで相手は姿を見せてくる筈。案の定、照明でできた旬の影から一つゆらりと人型の影が現れる。
「で、最近の視線の犯人はお前か?」
照明の下であっても薄れることのない漆黒を纏った相手は、旬の前に立つと恭しく低頭してくる。下げた頭に沿って深紅のラインが流れる。
「理由は?」
そう問えば、低頭していた頭を上げ、相手は旬の首元に視線を合わせてくる。それは先日から感じた視線と同じ場所で、やはりイグリットが自分を見つめていたのだと確信する。
「俺の首に何かあるのか?」
イグリットが頻りに気にするその場所を自分の指で触れてみるが、特に何かあるわけでもなく、益々わけが分からなくなる。訝しく思いながらも、そろそろ賢太が迎えに来る時間になってきたので、ジャケットを手に持ち部屋から出ようとした。
「!?」
イグリットに背を向け扉の方へと足を向けた途端、旬は腕を取られ再びイグリットの方へと向き直された。
どういうつもりだと言葉を発する前に、イグリットの指が旬の胸元に触れてくる。
「な、に……」
明らかに動揺する旬だったが、イグリットは構わず旬のシャツに手を掛けてくる。何をされるのか分からず、固唾を呑んで動向を見守っていると、スルスルと留まっていないシャツのボタンを器用に留めていく。
自分のシャツのボタンをイグリットが留めているという事実に一瞬思考が追いつかず、きっちりと上まで留められていくシャツを見て漸く止まっていた思考が働き出す。
「……そんなに上までボタン留めなくてもいいだろ?」
確かに先程まで胸元が見えるくらいにボタンを外してはいたが、旬自身、許容範囲内だと思っていたし見苦しくはないと思っている。
それなのに生真面目に留めていくイグリットに何がそんなに気になるのか、そちらの方が気になって仕方がなかった。
旬が問いかけてもイグリットは何も反応せず、ひたすら旬のシャツのを気にしている。
そんなイグリットの態度に、旬はもしかしてと、一つ思い当たる節があった。
「気になるのはイグリット自身?」
ぴくり、とシャツに掛かる指が震え、図星だと分かる。
そんなイグリットの姿に、そう言えばと、最近の自分の服装を思い返してみる。
以前は機能重視で丸首のTシャツを好んで着用していたが、少し前から襟の付いたシャツも着るようになった。気候に合わせてボタンの前を開け閉めできるのが便利で、最近はよく好んで着用するようになったが、そう言えばその辺りからイグリットから視線を感じるようになった。気温が高く、暑い日は特に顕著だった。
「そんなに気にすることじゃない」
胸元が見えたところで自分は男だ。誰も気にしない。
そう言ってもイグリットが納得することはなく、しっかりと首元までボタンを留められてしまう。流石に上まできっちり留められると窮屈で仕方がなかった。
「窮屈だ。外すぞ」
唯でさえ面倒くさくて出たくない会談なのに、服装まできっちりさせられてしまったら気分は滅入るばかりだ。
イグリットが留めたボタンを再び外していく旬に、イグリットもまた頑なにボタンを外させないようにする。普段旬のすることをここまであからさまに反対することのないイグリットの反応に、流石の旬も内心困惑してしまう。
「誰かが肌蹴た胸元を見て、俺に邪まな感情を持つとでも思ってるのか?」
だから揶揄うつもりで言ってみた。
それなのに、イグリットからは思いの外真剣な目を向けられ、その後に続く言葉が言えなくなってしまう。
旬を見つめる瞳が心配だと訴えかけてくる。
何がそこまで心配なのか旬には全く理解できなかったが、イグリットがそこまで気にするのであれば譲歩してもいいかと思えてくる。
「分かった。第二ボタンまでは留めることにしよう。でも、俺ばかり譲歩するのも気に入らないから、どうにかして俺を納得させることができたらボタンを留めてやる」
別に一番上だけ外せれば、あとは留めようが外そうがどちらでもよかったのだが、頑なにボタンを留めてくるイグリットにそう言ってみたら、どういった反応を返してくるか興味が湧いた。
納得させろと言っても、要は旬がボタンを留めざるを得えない状況を作ればいいのだ。
自分の言った言葉の意図を汲むのはイグリット次第。
ゆっくりとイグリットに視線を合わせると、見下ろす視線に熱が灯った気がした。
旬の指がボタンを外していっても今度は止められることはない。
その代わりに肌蹴た胸元に寄せられた温度のない熱が、旬の肌にチクリと痛みを走らせたのはそのすぐ後だった。
「水篠さん、今日は蒸し暑いですが、その格好で大丈夫ですか?」
迎えに来た賢太が旬の首元まで留められたシャツを見て、心配そうに声を掛けてくる。
その言葉に賢太には見えないように旬はとろりと目を細め、「大丈夫だ」と一言返す。
口元に浮かんだ笑みは、誰にも気付かれることはなかった────。
初出:2021.05.14