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月影に惑う

── side.旬 ──

 名を与えた影がいる。

 タンク

 アイアン

 キバ

 カイセル

 ベル

 そして────、



「イグリット」


 彼らはダンジョン内で相対していた元モンスターであったり、自分に仇なす元人間だったりした。
 名を与えることができるだけあって、影にする前は一様に戦闘能力が高く、Aランクのハンターでは太刀打ちできない、Sランクであっても容易に倒すことができない者たちばかりであった。
 それでも自分の実力を前にすると、相性云々もあったかもしれないが、それ程困難な相手ではなかった。

 レッドゲート内で対峙したタンク。
 唯一人間を影にしたアイアン。
 ハイオークの王であったキバ。
 悪魔王の随従だったカイセル。
 自らを王と驕心していたベル。

 どの戦いを振り返っても命の危険を感じた事はなかった。
 ただ一人を除いて。


 夜の闇を冷たく照らす満月に近い上弦の月。
 入浴を済ませラフな姿で自室の照明も点けず、カーテンから差し込む月の光を見るとは無しに焦点の合わない瞳で見ていた。
 ベッドに浅く腰を下ろし物思いに耽る事柄は、専らここ最近一人になった時に頭の中を占める一人の存在。

 もう随分と過去の事に思える、まだまだレベルの低い発展途上中だった時に挑んだダンジョン。
 転職クエスト。
 再覚醒後、あれ程命の危機を感じたダンジョンはなかった。
 取り分け他の空間とは完全に違う、身震いを起こす程の威圧感、未だ忘れられない二重ダンジョンで感じた死を彷彿とされる恐怖。玉座を守る騎士団長として自分の前に立ちはだかった存在 ─ 紅血のイグリット ─。
 能力、経験値、実力、全てに於いて自分より遥かに上回っていた。勝てたのはまぐれに他ならない。
 だからこそ考えてしまう。
 あの後、奇しくもクエスト完了後に与えられた自分の職業で得たスキル「影の抽出」。
 命尽きた身体からマナを吸い取り、影を取り出し自身の従者とするスキル。
 対象とする者が自分より能力が上であったり、死亡してからの時間が経過し過ぎてしまうと抽出の確率が大幅に下がってしまう。
 あの時イグリットを倒してから既に四時間以上経過していた。加えて能力も自分よりも高い。
 条件としては最悪の確率だった。実際、一度ならず二度も抽出に失敗した。そこには下位の者に従うつもりはないと強く拒絶されている声無き声が聞こえるようだった。
 だから最後の三回目は半ば諦めていた。きっと此奴に俺は相応しくないのだと突き付けられている気がして。
 だがそれでも心の奥底では欲しいと思った。
 誰も座ることのない玉座をただ一人守り続ける騎士。そこにあるのは本当に忠誠心だけなのだろうか。
 何故か今は亡きここの王を許せなくなった。
 死しても尚、この騎士を玉座に縛り付け、侵入者から守らせようとする。
 自分はもう居ないと言うのに。

「いなくなった野郎の椅子なんか守ってないで……目の前にいる俺を守ってくれ」

 自然と口に出てしまった。
 システムにより生成されたダンジョン。自分がクリアしてしまった後、ここはどうなる。
 もしかしてまた何事もなかったかのように全てがリセットされ、次に何時訪れるやもしれない侵入者を気の遠くなる時間待つことになるのだろうか。
 そして騎士は何時までも守るべき者のいない玉座を守り続けるのか。
 それならば、今ここに存在する自分を守ってほしい。
 自分の声が届いているか分からないが、右手を差し出し、自分を選ぶよう万感の想いを込めて告げた。
 だから影が抽出され、目の前に騎士が現れた時は言いようもない優越感が湧き上がり、無意識に口角が上がった。
 名をイグリットと与えれば、恭しく首を垂れ従属の意を示される。そこに今まで守ってきた玉座への未練は一切見られない。
 此奴は俺のものだと、目端に捉えた玉座を見据えながら心の中で宣告した。


 ふと思考を浮上させると、ベッドに腰を下ろしている自分の前にイグリットが静かに跪いていることに気付く。
 ああ、そう言えばさっき小さく名を喚んだんだった。
 イグリットの態度は、影とした時から変わらない。何時も自分を守るように、しかし邪魔にならないように側に従う。
 今も自分が声をかけなければ何時間でもその状態で佇んでいることだろう。
 唯、イグリットの見せる従属の意が恭しければ恭しい程、最近頓にあの時の玉座が脳裏を掠める。
 それは…
 玉座の王にも自分と同じように傅いていたのか、と。
 当たり前と言えば当たり前のことだ。騎士にとって王は絶対的な存在。そこに個の意思は関係ない。
 しかし、仕える王を選ぶことはできる。仕えるに値する王なのかどうか。
 あの時聞けなかったこと。
 何故自分より下位だった者に仕えようと思ったのか。
 俺はお前の主に相応しいか、と。
 だけど聞いたところで話すことのできないイグリットから応えが返ってくる筈もなく。
 必然的に独白のようになる。

「お前の前の主はどんな奴だったんだろうな」


 月の明かりが冷たく差し込む部屋に自分の声が空虚に消えた────。





── side. イグリット ──

 主の喚ぶ声がする。

 何時ものような君主然とした声ではなく、儚く散っていきそうな声音に違和感を感じた。
 月光でできた影から外へ出てみると、またしても違和を感じる。
 何時もであれば、ダンジョン内であったり、相対する敵が目の前にいたりするものだが、ここは違う。この場所が主の居室だと認識するまでに然程時間は掛からなかったが、喚び出された意図は分からず、それでも次の言葉を待つ為、座する主の前で跪き首を垂れる。
 息をするように自然と振る舞える主への絶対的忠誠。喚び出される度に傅くことのできるこの悦びを主は知らない。

 どのくらい時間が経ったのか、主は何かを思案されているようで、直ぐに命が下りる事はなかった。
 待つことに苦痛はない。この空間に主と二人だけだと思うと永遠に続けば良いと拉致もないことを夢想してしまう程に。
 ふと主の気配が変わった。

「お前の前の主はどんな奴だったんだろうな」

 一呼吸後に告げられた言葉に最初は意味が理解できなかった。
 その後、漸く自分が生前守っていた玉座の王のことについて言われているのだと察する。
 何故今頃前の主のことを蒸し返されたのか真意が分からず、許しを得てはいなかったが面を上げて主をそろりと見上げる。
 主の瞳は自分を見ているようで、その実何処か違うところを映しているようだった。
 見下ろされた眼光に何時もの強さはなく、陰りが見えるのは気の所為ではないだろう。
 思わず声を掛けたくなるが、自分に主を呼ぶ音は無い。
 こんな時、あの蟻を心底羨望するが、だからと言って何よりも欲しいかと言われれば否である。
 言葉はなくとも主に想いを伝えることなど幾らでもある。
 唯、それを犯すことが許されないだけであって。

 また紡がれる言葉。
「どうして俺に従おうと思った。二度も拒否したお前の中に何の心境に変化があった。あの時、お前の方が俺よりも能力が上だった筈だ。ずっと守っていた玉座を捨ててまで俺に従った理由は何だ」
 矢継ぎ早に問われる言葉に主が何を言わんとすることか分かった。
 そして、その後に続く言葉も分かってしまう。

「俺はお前の主に相応しいか」

 
 ナイト以上の者の中で唯一、主の前に従う王がいた自分。
『玉座を守れ』
 王の死後も侵入者から玉座を守るよう、王の今際の際に言われた言葉。
 その王の名も顔ももう覚えていない。
 それなのに呪詛のように自分を縛り付けるあの言葉だけが生きる糧となっていた。
 本当はあの場所で朽ちるつもりだった。
 侵入者であった今の主に屠られた時は、漸く呪縛から解き放たれると思っていた。その為、再び自分を起こそうとする言葉に拒絶した。
 それがたったひとつの言葉で変わった。

『いなくなった野郎の椅子なんか守ってないで……目の前にいる俺を守ってくれ』

 守れと言う言葉は同じ。それが何故ここまで甘く甘露のように聞こえたのか。
 答えは分かっている。
 もう一度、自分を必要とする主に巡り会いたかったのだ。
 経験も実力もまだまだ成長過程で荒削りなところのある目の前の男に、絶対的な恭順を示したくなった。
 そこには、既に自分を縛っていたものの影は一欠片も残っていなかった。


 月明かりの下、見上げる主の面には隠しきれない憂いが見える。
 その憂いの基に自分が関係していることも分かっている。
 主は自分が前主と主を比べているのではないかと憂慮しているのだろう。
 何故そのような疑義を抱かれたのかは分からない。自分を影として使役した時点で己のことなど慮る必要などない筈なのに、主として相応しいかと投げかける。
 今まで身命を賭して主だけを守り仕えていたが、少しでも忠義を疑われてしまうのは、己の至らなさであろう。

 唯、自分からの応えなど期待していないその昏い瞳を見てしまっては、隠すこともできない情動が胸の内に押し寄せる。
 音を紡げない自分から起こす僭越に赦しはいらない。恭しく跪くだけでは自分の想いを主に分かってもらうことはできない。
 視線を下げれば洗い晒しの下穿きから覗く主の脚が月光の白い光に淡く照らされている。
 綺麗に整った爪の先は、ダンジョンで激しい戦闘をこなしているとは思えない程で、そこに落とす接吻は背徳にも似た想いと甘美な誘惑を持ち合わさせる。
 主からの拒絶の気配を感じないことを良いことに、爪先、足裏、足の甲、脛にと接吻を残す。


 爪先に落とすは崇拝
 足裏に落とすは忠誠
 足の甲に落とすは隷属
 脛に落とすは服従


 誰が唱えたのか、騎士の間で主への忠誠心を表す操立て。
 生前、他の騎士たちは王や自分たちの主に証明する為に行っていた行為に、自分だけは誰にも表明したことはなかった。
 それが今の主に対しては何の抵抗もなく自然と成し得てしまう。
 名残惜しく離れ難かったが、触れていた場所からそっと身を外し、僭越を犯した我が身に罰を下してもらう為、再び主を見上げた。
 審判を下される思いで主を仰ぎ見、神妙な面持ちで下命を待ったが、そこに見えたのは真っ赤な顔をし、動揺を隠すことなく自分を見下ろす主の姿が目に映った。
 目が合うと更に狼狽たように視線を逸らされる。

 ドクリ──、

 主のその仕草に奥底に堅く仕舞い込んでいた何かが開く予感がした。
 だがこれは決して開けてはならないパンドラの箱。
 波立つ情動を無理矢理沈め、開きかけた箱は再び暗闇の奥底へと仕舞い込む。
 主と一定の距離を取り、喚び出された時と同じように跪く。
 もう許されるまで頭を上げることはない。
 主からの応えはない。
 月夜の明かりが雲間に隠れ、夜の静けさだけが過ぎ去っていく。
 辺りは闇に紛れ、自分と主の姿も輪郭を曖昧にしていく。
 再び雲間から現れた月が主の部屋を照らした時、自分の前に落ちた影は誰の影か。


 冷えた空気が揺れ、自分にはない熱が己に触れたのはすぐ後だった────。


**********
イグリットが生前仕えていた王を気にする旬の話。思った以上にシリアスになってしまって色気も素っ気もないです。
二人の視点に分けて書いてみましたが、旬だけの方が良かったかなーって思ってます。
キスに関する意味などはネット調べ。他にも色々意味があるみたいなので、機会があれば使ってみたいです。

初出:2020.04.27

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