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導く紅

 モノクロの世界に鮮やかに映る一筋の紅────。
 視線が捉える深紅のプルーム────。


 綺麗だと思った。
 無駄を一切削ぎ落とした体軀。
 洗練された隙のない動き。
 振るう剣は主に仇なす者には容赦なく、迷いない軌跡を描いて敵を屠る。
 どれを取っても文句の付けようのない武人であり、自分の持つ最高の騎士だと言える。


 キンッ
 耳許で鳴る金属が立てる不協和音にハッと意識を横に向けると、そこには自分に向けられた刃を己の剣で防ぐイグリットの姿が見えた。
 何時間にも及ぶ数多の敵の数に集中力が切れかけていたようで、死角からの攻撃にステータスにある感覚値が追いついていなかった。
 その後、イグリットはそのまま何の躊躇いもなく敵を屠ると旬を護るように背後に立ち、迫る凶刃を次々と薙ぎ払っていく。
 嗚呼、自分はまだコイツには及ばないなと、迫る危機に跳ねた心音を落ち着かせながら、同じく敵を撃ちつつ妙に冷静な頭でそんな事を考えていた。
 目端に映る紅い筋を追いながら────。


「さっきは助かった」
 ダンジョン内の敵を一掃し、後は最奥に居るボスを倒すだけとなった。
 アイテム回収は一般兵に任せ、取り敢えずボス戦を前にして漸く一息吐くことができた。
 傍には何時ものように静かに侍するイグリットがいる。
 旬は先程助けられた事に素直に感謝を伝えると、イグリットもまた恭しく跪き、主の言葉を頂く。
 何時もならそこで一通りの遣り取りは終わっているのだが、今日は跪くイグリットを何かを考えるようにそのままじっと見つめていた。
 勿論、見つめられているイグリットとしては、何も言わず自分を見下ろす主に困惑し、下げていた視線を主に向けてもいいものか、下命されるまでこのままでいる方がいいものか考えあぐねていた。
「頼みがある」
 そんな折、旬から発せられた言葉。
 意図することが分からず、先を促すようにイグリットは首を上げる。
 旬は一瞬逡巡したが一呼吸置くと、意を決したようにイグリットに視線を合わせ事の内容を告げた。
 「お前の剣を教えてほしい」


 自分とイグリットの剣術による戦闘スタイルは違うということはよく分かっている。
 短剣を持ち、気配を殺して素早い動きで相手を翻弄する自分のスタイルとは違い、イグリットは長剣を扱う。
 両手剣か両片手剣か。どちらにしても人の身長程もある大剣を通常なら両手で扱うものを軽々と片手で操る。相手の動きを読み、力で抑える時もあれば、暗殺者並みの素早さで一瞬にして間合いに入り込み、斬り刻むこともある。相手の力を利用した動きも得意で、それこそ中世の騎士さながら十八番でもあるカウンター攻撃は敵を圧倒していた。
 つくづくあの時イグリットが剣を捨て自分と同じ体術での決闘を選択してくれて良かったと思う。そうでなければ、絶対に勝つことなど出来なかった筈だ。
 そんなある意味互いに正反対なスタイルを持ち、どう考えても旬自身でさえも自分が長剣を扱う事はほぼないと思っているのに剣の教えを乞うた。
 イグリットもそれが分かっているのか、旬の言った言葉にどう対応すればいいのか困惑しているようだった。
 唯、旬には確信めいたものがあった。
 初めて対峙した時、体術戦になる前にイグリットが身に付けていたものを地に落としていた。動き易いようにマントを外し、次に外したのは背面側の腰部に隠し持っていた二本の短剣。
 補助的に使用するものなのかもしれないが、剣術、体術共にあれだけの実力を持っているイグリットが短剣をそこそこでしか扱えない筈はない。きっと短剣さえも非の打ちどころのなく完璧に扱えていたことだろう。
 影になってからもイグリットの戦力は変わらなかった。それならば生前持っていた能力もそのまま引き継がれている筈だ。
「今もそこに短剣はあるのか」
 旬の言葉を待っていたイグリットは発せられた内容に直ぐさま反応し、躊躇いなくマントの影から一振りの短剣を差し出した。
 見た目は中世のヨーロッパで使用されていたダガーと良く似ている。全体の長さは30センチ程度。旬の持つカサカの毒牙よりは幾分短く、刀身も細めだ。派手な装飾はないが機能性に重きを置いたイグリットらしい短剣だった。
「俺の剣術スタイルは分かるな。お前の短剣の実力を見せてほしい」
 長剣相手では未だイグリットの方が実力は上だ。但し短剣であれば互角に戦えるのではないかと軽く考えての言葉だった。
 それがどれだけ無謀な発言だったか。
 この後嫌という程後悔させられるとに、この時の旬は思いもよらなかった。


 旬の剣の扱い方は独学だ。何度か剣術師範でもある馬渕に手ほどきを受けたこともあるから基本的な剣の扱いや動きは学んでいた。そこから他のハンターの動きを観察してどう動けばいいのか研究した。唯、頭で理解していたとしても当時の旬の実力では実戦には全く役には立たなかったが。
 取り敢えずダンジョンは攻略した。
 難なく倒せるボスだったとしても、そのままにして狭いダンジョン内でイグリットと立ち合いをするのは得策ではないと思ったからだ。
 クリアしたダンジョンを閉じ、ゲートから出てきた場所は人里離れた山の中。
 目印は苔生した小さな祠。
 時間は最初に入った時から三時間は優に経っていた。陽は傾き森の木々が陰翳を濃く残していく中、改めてイグリットと対峙する。
 他の影たちは既に己の影に戻した。
 その際、イグリットだけ一人残していることに訝しそうにしている影もいたが、他の影たちが宥め賺して何とか戻っていったことは割愛する。
 漸く静かになったことで旬は短剣を一振り己の手に喚び出す。
「今の俺の実力じゃお前にまだ勝てるとは思っていない。だけど手心は加えるな。それが分かった時点で即終了だ。今後どんなことになってもお前を出すことはないと思え」
 半ば脅しとも取れる言葉を吐くと一瞬だが明らかにイグリットの中に動揺が見えた。それが分かっただけでも先に釘を刺しておいて正解だったと旬はギュッと短剣を持った右手を強く握り締めた。
 瞬きを一つ。
 剣を持つ腕を前に出し腰を低く落としたところで、イグリットも観念したのか初めて打ち合った時同様、羽織るマントを無造作に地面に落とし自身の短剣を逆手に持ち替えた。
 サラサラと木々の間を通り過ぎる風が音を奏で、旬の頬にも薫香を運び撫でていく。
 どちらも相手の出方を窺うように、距離を一定に保ちながら時計回りにゆっくりと足を運ぶ。
 互いに隙がなく動き出せず時間だけが過ぎていく中、キュイッと薄闇の中から夜を告げる夜啼鳥の声が辺りに響いた。
 と、同時に二人の距離は一瞬にして近付き互いに相手の急所目掛けて刃を振う。
 喉元を掻き切るように旬の腕が右から左に一閃するとイグリットは左手でその軌跡を逸らしつつ相手の伸びた右腕の肘を抱え込み、関節技を取りつつ隙のできた脇腹に刃先を向ける。
 旬は咄嗟に軸足に重心を置き反対側の足を蹴り上げ腰を回転させると、僅かにできた隙間から腕を引き抜きそのまま今度は腹部を狙って刺突を出す。
 しかしそれも難なく躱され、軸足にしていた足を払われ体勢を崩されたところを頭上から短剣を振り下ろされる。その腕を反射的に掴み何とか防御するが、掴んだ腕ごと引き寄せられ今度は腹部を狙われ横一線に斬り込まれる。
 ポタリと落ちる深紅の赤はそのまま地面に吸い込まれていく。
 左腕でどうにか切っ先をずらすことはできたが、無傷というわけにはいかなかった。
「やっぱり強い……」
 闇雲に斬撃を出しても全て反撃の材料にされてしまう。向こうに攻撃を読まれているのならその裏をかかなければいけないのに、それさえも読まれてしまう。
しかも常は大剣を自在に操っている為に一撃一撃が短剣だというのに酷く重い。
 もっと腕力つけないとダメか。
 ステータスは主に筋力を中心に上げていた。にも関わらず、イグリットとのレベルの差は未だ縮まらない。
 職業スキルを身につけてからは知力も上げていかなければならず、能力値の配分も以前よりもシビアになってきた。
 ダンジョンのランクも上がっていく中、ステータス頼みだけではこの先強敵が出てきた時に対処できなくなる可能性もある。そこをカバーする為にスキルの熟練を上げるのは必須だ。それには己よりもより強い相手と立ち合うのが自分の遣り方としては一番効率が良い。
 旬にとってイグリットの短剣術は正に打ってつけであった。
 そんなことを考えながら対峙していたのが相手にも伝わってしまったのだろう。真剣勝負中に余所見をするなと言わんばかりに今度はイグリットから容赦のない刺突が雨霰のように繰り出された。
 一撃だけでも重い突きが何度も的確に急所を狙ってくるのを紙一重で躱していくが、突きだけに気を取られていると不意打ちのように足技が入り、または関節技で腕に頸部にと追い討ちをかけられる。
 息を吐く暇もない攻めはその後も続き、それは辺りが茜色の夕闇から周りが闇に溶け、目の前の相手しか見えなくなるまで行われた。



「動けない…」
 陽もとっぷりと暮れ、辺りは夜の虫が静かに羽音を奏でている。
 あれから休みなしで繰り広げた二人の打ち合いは、イグリットの出した突きを旬が左手で取ることで防ぎ、そのまま反動を生かして反対側に捻ると頸部に一閃、間を置かず腹部に刺突、腕を取ったまま背負うように相手の身体を投げて仰向けになったところを再度頸部に突きを入れてチェックメイト。
 イグリットの影が闇に溶け霧散したことで、漸く終わりを迎えた。
 影がなくなったことで、短剣は地面に深々と刺さっており、それを抜こうと力を入れるが、その途端、今まで動いていた足は限界を迎えたのか、引き抜くと同時に踏ん張りが効かず旬はそのまま仰向けに倒れてしまう。地面に打ち付けられるとは思ったが、緊張の糸が切れてしまったのか腕が鉛のように重く咄嗟に受け身をとることができない。
 唯、旬にはそれ程焦りはなかった。何故なら────、
「ナイスキャッチ」
 後頭部が地面につく寸でのところで大きな掌に背中と頭を支えられる。
 ほぼ仰向けの状態で助けられ、そのままゆっくりと地面に下ろされた。
 開けた目の前に見えたものは、先程霧散したイグリットとたなびく一筋の紅。それとその後ろには上弦よりも少し満ちた淡月が木々の間から見え隠れしていた。
 単に下ろすだけで良かった筈なのに、イグリットは自身のマントを敷布のように広げるとそこに旬を横たわらせる。
 壊れ物を扱うような所作は、先程までの非情で容赦のない姿からは想像がつかず些か面映く、そのまま旬から離れようとするところを引き留め、跪いたイグリットを手招くと、その太腿に手を置き序でとばかりに頭を預けた。
「甲冑だと思ってたけど案外堅くないんだな。影だからか?その辺は曖昧なのか…」
 相手が物言わぬのを良いことに勝手に太腿を枕代わりに頭を乗せ、独り言のように呟いては思っていたのとは違う不思議な感触のするイグリットの足をサワサワと物珍しく撫でてみる。
 金属の冷たく堅い感触とは違い、温度感はないがスベスベとした触り心地と弾力があるようなないような、沈み込む感覚と反撥する感覚が合わさった、例えるなら水の上をゆっくりとゆらゆら揺れているような感覚があった。
「あ……ヤバい……気持ちいいかも」
 ダンジョンクリアとその後に何時間もぶっ通しでイグリットと手合わせをしていたのだ。横になった時に全身の力が抜けたような感覚に襲われていたものが、この所謂膝枕の心地の良い感覚に強張っていた身体が見る間に解けていくのが分かる。
 このままここで寝入ってしまいたい誘惑に負けそうな旬であったが、額にかかる前髪をそっと梳かれた気配で閉じていた目蓋を持ち上げた。
 真下から見えるはイグリットの顔。
 無表情を貫いているが、旬の行動に困惑しているのが雰囲気で感じ取れた。
 それもそうだろう。こんな事は今まで一度もイグリットにもましてや他の影にもしたことがなかったのだから。
 旬自身も自分がこんなことをするとは思っていなかった。
 常よりもテンションがおかしいとは自覚している。
 手合わせの際、最初に自分で手心を加えるなとイグリットに言った。
 手加減された打ち合いなど実戦では何の役にも立たないし、自分のプライドも許さなかった。
 イグリットもその意を汲んでくれたからこそ、主である自分にも容赦なく剣を向けてくれた。ただそれが思った以上に自分の中の闘いへの欲求を高めてしまっただけで。
 結果、指一つ動かせない程に体力を削ってしまったということだ。
 それでも気分は最高に良かった。
「もうちょっとこのままでもいいか?」
 身体を休ませたいのもあるが、今のこの高揚感にもう少し浸っていたい。
 そう思って伺いを立てると、イグリットは逡巡するように旬を見下ろしていたが、何を思ったのか旬の背中と膝裏に腕を添え、そのまま立ち上がる仕草を見せる。
「違う違う、動けないわけじゃない。いや、動けないんだが、そうじゃなくて」
 どうもイグリットは旬が体力がなくなり動けなくなってしまったと勘違いしてしまっているようで、自分が抱きかかえて運ぼうと思ったらしい。
 慌ててそうではないと否定すると、上げた腰をそのまま元の位置に戻し、今一度主の意図を汲み取ろうと微かに首を傾げて旬の方を見る。
 そんなイグリットに旬は旬でどう説明すべきか伝えあぐねてしまう。
「何て言うか……んー……もう少しだけお前とこのままでいたいと思っただけなんだ」
 その結果、何だかおかしな方向に言葉を発してしまったような気がして。
「あ、変な意味じゃなくて……っ」
 ピタリと止まったイグリットにまたもや伝える言葉を間違ったと焦るが、このままでいたいと思う気持ちは間違いではなく、とは言え誤解を招くような言い方だったかもしれないと、動揺して思わず起き上がろうとした旬だったが、動かない身体にそのままイグリットの太腿へと再び戻ってしまう。
「うっ……っ」
 自分の足の上で痛む身体に悶える旬を見かねたイグリットが、旬の目の前の空間をコンコンと叩く素振りを見せる。
「イグリット?」
 痛みに顔を顰めながらもイグリットの指を目で追うと、それから指を四角の形に動かすのを見て、ウインドウパネルを出すように言っているのだと理解する。
「ストア、オープン」
 ピロン
 軽快な音と共に馴染みのある画面が空中に出現する。アイテム欄を表示させるとイグリットがポーションの欄を指して旬に購入を促した。
「そうだな。取り敢えず体力は回復させないと」
 手合わせという名目だったので、すっかり体力を回復させることを失念していた。
 何時ものポーションを選択しようと重い腕を上げて購入ボタンを押そうとしたが、イグリットにやんわりと止められ、代わりにその横にあるもっとランクの高いポーションを指される。
「まあ、今のこの状態だと通常のポーションじゃ回復が追いつかないか」
 イグリットの意図を汲み、早速一番高価なポーションを購入する。
 再び軽快な音を立てて出てきたポーションは、何時もとは違い宝石細工のような煌びやかな小瓶に淡い空色をした液体が入っていた。
 瓶を軽く揺すると中の液体がキラキラと輝く。
 物珍しく角度を変えて色々眺めていたが、イグリットに袖を引かれ早く飲むように急かされる。
 苦笑しながらも、ポーションの瓶の蓋を開けようとして、
「開かない……」
 飲み口に栓をするタイプでクリスタルの単結晶のような形に手をかけるが、全身動くことがままならないこの状態では指に力を入れることができず、中々栓を開けられない。
 何度か試してみるが、硬く栓をされている瓶はびくともせず、その内指が滑ってしまい手の中から落ちてしまった。
 イグリットが慌てて受け止めてくれたので、割れることはなかった。
 ホッと安堵の息を吐いた旬は、瓶を渡そうとするイグリットから受け取ったところでふと思い付く。
「イグリット、飲ませてくれ」
 譲渡不可能かと思われたアイテムをイグリットは触れることができた。それならば力の入らない自分が開けるよりもイグリットに任せる方が簡単だ。
 旬とポーションを交互に伺い見るイグリットに、悪戯っぽく笑うと真下から少し口を開けて飲ませろという仕草をして見せる。
 実際には栓さえ外してもらえれば自力でどうにか飲むことはできるので、ちょっとした悪戯心で言ってみただけなのだが。
 手合わせで散々痛め付けられたことへの意趣返しも多分に込めて、イグリットの困る顔を見てやろうと思ったのだ。
 旬の知っているイグリットならば、そんな冗談めいたことを言ったとしても、困惑して受け取ることもできずそのまま固まってしまうだけだろうと思っていた。
 それがイグリットが自分の手からポーションを抜き取るのを見て、旬は慌てて冗談だと言ってみたが、その前に視界を大きな手で覆われ何も見えなくされる。
「イグリット?」
 相手の行動が分からず訝しげにしていると、近くでカシャンと金属が鳴る音がする。
 益々訳が分からなく、もう一度イグリットの名前を呼ぶが、その数瞬後自分の唇に柔らかい何かが押し当てられた。
 温度は感じないがポーションの入った瓶のように無機質なものではない。
 何が触れているのか分からない内に口内に入ってくる馴染みのある液体。直ぐ様自分の身体が回復していくのが分かる。
 流し込まれた液体を嚥下しても、イグリットの掌はそのままで。
 先程から唇に触れているものもそのまま。
 状況が分からず、イグリットの名を呼ぼうにも唇を塞がれたままでは声も出せず。
 結果、目元を覆う彼の腕に自分の手を重ねることでイグリットの意識を向けさせる。
 その瞬間、唇から微かに伝わる振動と離れる前に名残惜し気に上唇を吸われたような気がするのは気のせいだったのか。
 最初と同くカシャンと再度金属音がしてから、ゆっくりと自分の上から掌が外される。
 開けた視界から見えるのは先程と変わらないイグリットの顔。
 何が起きたのか分からないまま、首を傾げていた旬だが、イグリットが背中を支え旬を起き上がらせようとしたので、そのまま腕を借りて立ち上がる。
 ポーションの効き目は抜群で、さっきまでの身体が嘘のように軽やかになった。
 力の入らなかった指も開いたり閉じたりして感覚を確認し異常がないか確認する。
 最終、ステータスウインドウを表示させ、数値が回復していることを見て漸くホッと息を吐いた。
 傍で心配そうに窺っていたイグリットも旬の様子を見て安堵している気配を感じ、大丈夫だと言うように頭一つ分上にある彼の顔に笑いかけてみせる。
 はた、と目が合った。
 その瞬間、先程の場面が蘇り明らかに旬は動揺することになった。
 考えないようにしていたが、唇に触れた感触と最後に上唇に残された感覚。
 あれはきっと────。

「帰ろう」
 これ以上は駄目だ。
 心の底で誰かが叫んだ。
 知ってしまえば後戻りはできなくなる。
 続いて警告される。
 勿論、このままイグリットに詰め寄って先の行動を問い詰めることもできる。唯、詰め寄ったところで何も答えてはくれないことも容易に分かる。
 事実、見上げたイグリットは旬を見ても何一つ変わらない。冷静なままだ。
 それが逆に何も聞くなと此方を牽制しているようでもあり。
 それならば今は考えないことにする。
 遠からず答えを出さなければならなくなるだろう予感はするが、今は未だ考えるのが怖かった。
 今は未だイグリットは自分の影で、自分よりも強く、目標となる存在。それだけでいい。
「次は長剣の方でも手合わせを頼むよ」
 たわいのない言葉で流れる空気を変える。
 今できることはそれだけ。
 きっとイグリットも同じ想いの筈。
 傍にいるイグリットの腕に触れると家路に着くことを教え、暗くなり見えなくなった山道の方へと足を向けたのだった。
 背を向けた旬の姿を確認したイグリットは、一瞬拳を握りしめるが恭しく一礼すると、月明かりに映る一筋の影に溶け込んでいった。


 その後、ダンジョン攻略後の手合わせが二人の逢瀬になるまでは未だ少し先のこと────。


**********
フォロワー様からのリクエストにより、旬とイグリットが手合わせをする話。
前に旬とイグリットの戦い方って偶に似てることがあるよねーって話をしたことから、イグリットに剣術指南を受けてたらいいなってことでできた妄想物です。

本当はバトル中にイグリットの赤いヒラヒラを旬が目で追って、居場所を把握して互いに息の合った連携プレイをする話が書きたかったのですが、どこをどう間違ったのか全く別物ができてしまいました。
でもバトルシーンはめっちゃ楽しかった。
これ書くにあたり、西洋剣と剣術をちょっと調べたんですが、楽しいです。
特に剣術。主にドイツ式の剣術をネットで調べたりYouTubeで観たりしたのですが、もうイグリットに振るわせたくて仕方なかったです。
唯、話の内容的には色気も何もなく退屈な感じが否めませんですが…(>_<)

とそれは置いといて。
今回でイグリットは自覚した筈。旬も時間の問題かなと思ってます。
この時系列の流れでいくと次はTwitterで設定許可頂いた話が来るかと思うので、今回より更に長くなりそうです。

初出:2020.05.28

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