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夢の先【前編】

※オリキャラとの絡みがあります。苦手な方は回れ右でお願いします。


 最近不可思議な夢を見るようになった。
 場所は何処か分からない西洋の古城を彷彿とさせる広大な城。
 整然と敷き詰められた石畳はどこまでも続き、城の反対側には雄大な大地が広がっていた。その肥沃な大地は木々を育み、清爽な青を刷いた空が若い緑と交じり一枚の絵画のような光景を映し出していた。
 旬はその夢を映画の観覧者のような立場で見ていた。
 城の庭だと思われる場所に立ち、目を向けた少し先には人だかりが見える。侍従と思われる男たちと侍女たちが整然と並び、彼らの前には二人の男性が穏やかな表情で何かを話していた。
 一人は初老に入った辺りと思われ、精悍な顔つきではあるが整えられた髪はシルバーグレーの部分が諸所に見えた。
 服装や侍る従者たちの姿から見て高貴な人物なのだろう。隣に立つ男性も同じように品のある正装姿で初老の男性の話に口許を柔らかく緩め相槌を打っていた。その姿はまだ若々しく凛とした立ち居振る舞いに清廉さを窺わさせる。
 そんな穏やかな輪より少し離れた場所に彼らを見守るように佇む集団がいることに旬は気付く。
 少数ではあるが甲冑を纏い帯刀をしているところを見ると、この城の騎士たちと見られる。
 談笑をしている輪に混じることなく、貴人らの邪魔にならぬよう、それでいて警護を担っている彼らは警戒を怠ることはない。
 そこでふと一人の騎士に目が向く。同じような白銀の甲冑を纏っている騎士たちの中で一人だけ漆黒の鎧を纏った騎士。スラリと立つその姿は厳粛な空気を纏い、一目見てこの騎士団の頂天だと分かる。兜から流れるプルームが風に靡き一筋の光のラインを描いていた。
 旬は一瞬既視感に襲われ無意識に額に手を翳し何かを確認するようにその騎士を今一度見るが、映像はそこで靄がかかったように霞み、周りの景色も全て徐々に白く消えていってしまった。
 唯、消え行く中でも鮮やかに残る紅いラインが旬の中に酷く印象に残った。



 何時ものようにダンジョンを単独攻略した旬は、恒例となっているイグリットとの手合わせに心を昂ぶらせながら、短剣の柄を逆手に持ち替え正面から相手に斬りかかっていった。
 今日のイグリットの武器は彼が最も慣れ親しんだ長剣。しかも全長が旬の身長程にもなる大剣である。普通の人間であれば持ち上げるだけでも至難であるにもかかわらず、イグリットは重さを全く感じさせない剣捌きで短剣である旬の速さについてくる。
 一振り下ろす度に鋭い剣先と衝撃波が旬を襲い、容易に近くことができずにいたが、イグリットが下ろした剣を青眼に構え直す一瞬の隙を狙い、懐に潜り込み低い体勢のまま突き上げるように下から上へと剣を振り上げた。
 大剣はリーチが長く威力こそ大きいが、小回りが効かない分一旦懐に入られてしまうと剣を振るうことができなくなる。そこを突いた旬の攻撃であったが、両手剣である大剣を片手で扱っているイグリットは瞬時に背面に隠し持っている短剣を抜き、旬の攻撃を間一髪のところで受け止める。
 まさか今の一太刀を止められるとは思わなかった旬は、次の一手に出る動作が遅れてしまう。そこをイグリットが見逃す筈がなく、受け止められていた短剣を横に払われ正面が無防備になった旬の鳩尾を容赦無く蹴り付ける。
 「は…っ」
 何の構えもなく蹴りを食らってしまった旬は、そのまま廃墟となっているビルの壁面まで飛ばされ背中を強かに打ち付けてしまう。衝撃に顔が歪むが痛みに耐えている暇はない。直感で相手の剣が来る方向に短剣を構えると間を置かずイグリットからの追撃が来る。キンッと鋭い金属音が鳴り、旬の手首に重い衝撃が走ったかと思うと握り締めていた短剣はイグリットの手首を返した攻撃により旬の手から離れ宙をクルクルと舞い、手の届かない地面に突き刺さって落ちてしまった。
 「参った」
 喉元にイグリットの持つ短剣を突きつけられ足の間の地面には大剣を刺された状態では身動き一つ出来ず、旬は潔く両腕を上げ降参の意を示す。
 旬の言葉にイグリットは向けていた剣を直ぐに抜き、その場で跪くと恭しく首を垂れて何時ものように次の主の言葉を待った。
 「流石にお前相手に正面突破はまだまだ無理だな。容赦無く打ち込んで来るから腕がまだ痺れてる」
 苦笑と同時に拗ねたように言ってみせると、イグリットは案の定伏せていた顔を上げ、旬の腕を心配する素振りを見せる。
 最近自分は少し変わったと旬は思っている。
 以前は影たちが何かに反応しようが気に留めること、感情が動くことはなかったのに、今はこうやって自分のことを気にかける仕草を見せられると嬉しく思ってしまう。
 腕を気にするイグリットを安心させる為にもう殆ど痺れが引いた腕を差し出すと、その腕にそっと手を添え異常がないか確認するように彼は診ていく。
 イグリットもまた以前に比べて変わったように思う。
 今のように何も言わず腕を差し出しても、前までのイグリットであれば主である自分が命令しなければ、どう対応すればいいか当惑していた筈だ。ましてや自分に触れることすら躊躇しながら触れてきていた。
 それがどう言ったことか、ある時を境に細かく命令しなくても旬の意図を汲み行動に移してくれる。
 今も旬が何も言わなくても若干の躊躇いは見せるものの腕を取り痺れが残ると言った場所に手を添え、腫れや筋を痛めていないか入念に診ていた。
 「痛みはないから痺れも直ぐに引く。お前が気に病むことはない」
 イグリットに以前本気でかかって来なければ今後一切喚び出すことはないと脅したのは旬だ。一度しか言っていない命令であったが、それを彼は忠実に守っている。それ程喚び出されなくなることが怖かったのか、もしかしたら脅さなくても本気で来いと言えば同じように打ち合ってくれていたのかもしれないが、今となってはどちらでも良かった。
 イグリットの気が済むまで腕を預け、見るとは無しに跪いたままの彼の頭を見ていると兜から流れる紅いプルームに目が吸い寄せられる。
 最近何処か別の場所でもこの紅を見たような気がすると思ったところで昨夜見た夢の内容を思い出した。
 貴人を警護する騎士団の長。夢で見た騎士もこの紅と同じ物を兜に着けていた。
 あれはイグリットの生前の姿なのだろうか。
 そうだとしても何故あんな夢を見たのか旬には全く身に覚えがなかった。だから確かめてみたかった。
 「昨日の夜、おかしな夢を見た。古い西洋の城のようなところで身分の高そうな人物が二人、その周りに甲冑姿の騎士が数人。その中にお前と同じ形(なり)をした騎士がいた。あれはお前の生前の記憶なんだろうか」
 黒い甲冑に紅いプルーム。
 今のお前とそっくりだったと言うと、旬の腕を掴んでいた手に僅かに力が入る。
 相手の反応が知りたくて旬は探るようにイグリットを覗き込みでみたが、兜に隠れてしまっている為その表情を伺い見ることはできなかった。
 それでも先程の僅かな動きに旬の憶測はあながち間違いではなかったと知れる。
 「お前の記憶か…」
 何故今その記憶が旬の夢の中へ入ってきたのかは分からないが、生きていた頃のイグリットに興味があった。生前の彼は一体どんな風だったのか、この時は単純に知りたいと思っていた。

 それがあんなにも自分の胸を締め付けるものだとは今の旬は到底知る由もなかった。



 目の前には先日と同じ光景が目の前に広がっていた。
 古い城と広大な庭。
 手入れの行き届いた庭は季節の花々で鮮やかに彩られていた。
 ここは夢の中であり、イグリットの生前の世界だと誰に言われるまでもなくそう思った。
 この間の夢の続きなのかもしれない。
 夢であるにもかかわらず、旬は自分の意識がそこにあることに気付く。これは本当に夢なのかと疑問に思いもしたが、流れる映像は旬の意思とは関係なく勝手に進んでいく。今も先日の庭から場所が移り、鍛練場のようなところの映像が映っていた。
 時刻は既に夕刻を過ぎているのであろう、空は茜色から夜の色に刻々と変わりつつあり、日中であれば兵士たちの活気のある声で溢れているこの場所も今は一対の剣捌きの音と息遣いだけが響いていた。
 一人は先日、初老の男性の隣にいた青年のようで、簡易な鎧を身に着け訓練用の長剣を軽やかに扱っていた。
 剣筋には迷いがなく、青年の性格そのものを現しているかのような清廉とした、得てして潔癖ささえも見える太刀筋で相手の剣を躱しながら斬り込んでいた。
 剣の技量も相手の動きに対する才覚も申し分ないレベルだと思われる。唯、対する相手が悪過ぎた。
 旬の視線は青年が振り上げた剣の先を見ていた。
 袈裟懸けに斬り込んだ剣は難なく捉えられ、相手の剣の柄の部分に絡められるとそのまま手首の返しによって剣を握る腕を跳ね上げられる。そうなればその反動で胴の部分ががら空きになり、一瞬にして相手の剣先が腹部を狙い横一文字に一閃を払われた。
 いくら訓練用の刃を潰した剣であっても当たればそれなりの衝撃はある。案の定、反撃を受けた青年は腹部を押さえ片膝をついてしまい、そのまま勝敗は決まってしまった。
 「剣の扱い方、振りの速さは申し分ございません。しかし如何せん太刀筋が素直過ぎます。もう少し挑発的に剣を使う方が良いです」
 暗にもっと捻くれた剣を使えと相手の騎士に言われ、青年は苦笑を滲ませながらも瞳の奥に悔しさを揺らめかせているのを旬は見逃さなかった。
 案外好戦的な人物なのかもしれない。
 旬は、興味深げに二人のやり取りを暫く見守ることにした。
 膝をついた状態から立ち上がった青年は剣を一度鞘に戻し相手の騎士に歩み寄る。
 騎士の方も同じく剣を鞘に戻すとそのまま青年に傅こうとして手で制された。
 「俺の剣を素直だと評するのはお前くらいだ。父上も他の騎士たちも手合わせをする度に俺の剣は捻くれていると嫌そうに言われる」
 肩を竦めながら騎士の数歩手前の正面まで青年が近付くと再びスラリを鞘から剣を抜き、一旦身体の正面で剣を掲げ、軸足をずらして腰を低くすると再度剣を構えて相手を待った。
 「今日はここまでにしておきましょう」
 しかし騎士の方は柄頭に手を置いたままで剣を抜くことはなかった。
 「何時もより早いが、この後予定があったのか?」
 「いえ、予定は入ってはおりませんが」
 構えは解かずに剣を抜く気のない相手に切っ先を向けたまま問いかけるが、そうではないと言われますます分からない。
 今一度手合わせを促すが相手にその意思が全くないことが分かると、仕方がないと言うように溜息を一つ吐き構えていた剣を鞘に戻した。
 「理由は教えてくれないのか」
 私的なことであればこれ以上踏み込むべきではないと思ったが、どうやらそう言ったことではないみたいで、構えを解いた青年の側までやってきた騎士は「ご無礼失礼します」と一言言うと応えを待たずに青年の右腕を覆っているガントレットを外し慎重に前腕から手首の間を何かを確認するように触れていく。
 「──っ」
 「やはり手首を痛められてますね。先程剣を返した時に何時もの貴方なら受け流せる筈が弾かれていましたので、もしやと思ったのですが」
 「このくらい大したことじゃない。後で冷やしておけば腫れも明日には引いてるさ」
 気付かれないように上手く隠していたつもりだったが、相手の方が何枚も上手だったようで赤く腫れている手首を取られては言い逃れもできず、ばつが悪そうに騎士の視線から逃れるように顔を背けた。
 「いいえ、大事になってはそれこそ大変です。ここでは適切な処置ができませんので医務室へ参りましょう」
 「剣で斬られた訳でもない。この位のことで多忙な医師の手を煩わせたくはない。戻って従者に湿布薬を用意させれば済む話だ」
 自分が怪我をしたと医務室へ行けばそれがどんなに小さな傷だったとしてもその後大変な騒ぎになることが目に見えている。その為青年は騎士の言葉に素直に肯くことができずにいた。
 しかし目の前の相手はそんなことはどうでもいいと言わんばかりに青年の言葉に首を振り、痛めている手を自身の左右の手で包み込むと、その場で片膝を突き青年を見上げながら言葉を紡ぐ。
 「どうか御身をもっと大切になさって下さい。貴方様はこの国で国王の次に尊きお方。何かあっては国中が悲しみます」
 「お前はっ、よくもそんな恥ずかしい台詞を臆面もなく!」
 たかだか手首を捻っただけで大仰な台詞を発する騎士に赤くなる頬を誤魔化すように抗議するが、掴まれている手は振り解けずにいる。
 「国民だけではありません。私も貴方には怪我をして欲しくないのです」
 この国の周辺は大小と様々な国が乱立している。友好的な国もあれば虎視淡々と領土を狙っている国もある。そんなきな臭い今の世では争いを起こさないことが難しいこととは百も承知ではあるが、できることならば貴方の身体には傷一つ残したくない。
 そんな真摯な言葉を聞いてしまえば自分の我を通すことも憚られ、結局青年が折れることでその場は収めることになった。
 「その代わり言い出したお前が処置するんだ。医師の手を煩わせるんじゃないぞ」
 それだけは譲れないと、見下ろした先にいる騎士に言う。呆れられるかと思いもしたが、青年の言葉を待っていたかのように薄っすらと笑みを形取った唇にドキリとする。
 「御命令とあらば如何なることであろうと従いましょう」
 「無理強いをするつもりはないぞ」
 騎士の言い方が気に入らず、高鳴った心音とは裏腹に拗ねた口調が出てしまう。
 しかしそれさえも相手にはお見通しだったようで、浮かべた笑みはそのまま、青年は手の甲に恭しく口付けを落とされた。
 「本音を申しても宜しいのでしょうか」
 手の甲に唇を落とした状態で上目遣いで見上げられれば退いた筈の熱が再度頬に集まってしまう。
 「よ、宜しくないっ。馬鹿なことをしてないでさっさと医務室へ行くぞ」
 取られた手を咄嗟に引き抜き、赤みの差した頬を隠すように踵を返し、青年は足早に先を歩き出した。
 「御意」
 後ろを振り返りもしない青年の姿にそれでも騎士は深く辞儀をすると口元に微かに笑みを浮かべたまま同じく城の医務室へと足を向けたのだった。

 そこで映像は途切れ、旬は暗闇の中閉じていた瞼をゆっくりと上げたのだった。

 視界を覆うのは未だ闇の世界。
 時計を見ると夜中の二時を過ぎた辺りで、開けた窓から夜風が入り込み、カーテンをふわりふわりと舞わせ、時折旬の横たわるベッドに月明かりが零れた。
 先日と同じように夢の内容は鮮明に覚えている。
 青年の方は誰だか分からないが、会話の内容から推察すると夢に出てきた国の皇子だと思われる。
 対する騎士は前の夢にも出てきていた騎士、生前のイグリットだと確信していた。特徴のある兜は外していたが、漆黒の鎧、佇む姿勢、何より戦い方が今のイグリットと同じだった。
 旬は目が覚めたことで一度起き上がり、片膝を曲げて身体の方へと寄せる。
 やはりこの夢はイグリットの生前に起きた記憶だ。
 しかし何故こんな夢を見ているのかが分からない。
 イグリットが見せているのか、自分がイグリットに同調してしまい見てしまっているのか。どちらか分からないが、映像は全て第三者的立場から映されていた。だからなのか、彼らの関係が客観的に見ることができる。

 ─── ズキリ

 二人の姿を思い出した途端、胸に言いようにない苦しさが広がる。
 イグリットの言葉にくるくると表情の変わる青年。貴人特有の傲慢さはなく、下の者を思いやる気持ちを持ち合わせた気質は好感が持てた。青年の顔は、どう言うわけか暗く影になってよく見えなかったが、口元の動きだけでイグリットに寄せる信頼と好意の感情はよく分かった。
 そしてイグリットもまた敬愛の情を隠すことはなかった。
 青年に自ら手を伸ばし怪我の状態を確認し、どんな傷も負ってほしくはないと直截な言葉で真摯に告げる。自分の知っているイグリットは声を音として出すことができないから本来の彼がどう言った性格をしていたのかまでは分からない。それでもあんなにも巧みに言葉を紡ぎ相手への敬愛や情愛を隠すことのない彼に少なからず驚いた。そしてそれと同時に彼らの間には誰にも踏み込めない二人だけの確かな絆が見えた。
 自分とイグリットの間にも主従の関係はある。イグリットのことは他の影たちよりも頼りにしていると自覚しているし、イグリットも自分のことは主と認めてくれてると思っている。唯、あの夢の中での二人のような互いを想い合う二人だけの特別な何かがあるとは思えない。どうしてもイグリットの方が壁を作っているように思えて仕方がなかった。それが何故なのかずっと引っ掛かっていたのだが、あの青年の存在がイグリットの中に未だ深く残っているからなんだと分かると漸く腑に落ちるのを感じた。
 「俺はお前の一番にはなれないんだな」
 青年に傅く姿は自分の時と変わらないのに、相手に寄せる視線が声が態度が自分に対する時と全く違っていた。
 きっとこの夢はイグリットの大切な記憶なんだろう。
 そう思ってしまったらさっきよりももっと胸が締め付けられ、どうしようもない心の虚しさが身体の中を駆けていく。
 闇は闇のまま、今の旬の声に応えるものはそこには何もなかった。



 あの夢の後、もう一度寝直すこともできず、結局カーテンの隙間から朝の光が射し込む頃に起き出すと、そのまま自然とダンジョンへと足が向かった。
 ダンジョン内であれば何も考えず目の前の敵だけに集中できると思ったからだ。
 しかし、実際はダンジョンに入ったからと言って胸の痛みが取れるわけでも気持ちを切り替えられるわけでもなく、逆に影を召喚してしまった為にイグリットの姿も見つけてしまう。
 未だ夢に対して心の整理ができていない状況ではイグリットを見るだけで不自然に鼓動が跳ねてしまう。動揺を隠す為に視界に入れないようにしようと思うが、近くに姿が見えなければ見えないで無意識に彼を探してしまっていた。
 結局、気持ちの整理はできないままダンジョンも攻略してしまい、いつものようにアイテムを影たちに回収させ、ルーティンとなったステータス確認を事務的に行い全ての作業を終わらせる。
 ウィンドウパネルを閉じ視線を上げると、此方も作業の終わった影たちが旬の周りを取り囲むように静かに跪いていた。
 いつもと変わらない光景。
 それなのに、イグリットの姿を見つけてしまった途端蘇る胸の痛みに意識を逸らすことができない。
 傅く彼の姿が夢の中の騎士と重なる。
 本当に傅きたい人物は他にいるのだろう。自分に跪きながらお前は何を考えている。
 喉まで出かかる言葉は奥歯を食いしばることで飲み込む。自分が生前のイグリットの夢を見ているとは思ってもいない筈だ。急にそんな話をしたところで、もうこの世にはいない人物を相手にどうすることもできない。イグリットも突然そんなことを言われても困るだけだろう。
 不快さと虚しさがない混ぜになる気持ちの宥め方も分からないまま、旬は傅く影たちを己の影に戻していく。
 影が消えダンジョンももう直ぐ閉じようとする音がする。その中に一体だけ変わらず跪いたままの影がいる。
 「イグリット…」
 そうだ、いつもであればこの後ダンジョン外でイグリットと手合わせをするのが日課となっていた。
 昨日までの自分であればイグリットとの手合わせはダンジョン攻略の時以上に心待ちにしていただろう。けれど、今はイグリットの顔を見るだけで夢の映像が脳裏を掠め、まともに直視することができなかった。そんな状態で手合わせなんてできる筈もなく、それと同時に自分が命令をしたから仕方なく従っていると思えてならなくて、手合わせを申し出たのが夢の中の青年だったら彼にはどう応えていたのだろうかと考えてしまう。きっと本心から望んで青年の願いを聞いてあげるのだろう。
 「今日はお前と打ち合う気分になれない。戻っていい」
 目を見て言う勇気もなく、イグリットに背を向けて言った言葉に自分自身が傷付く。
 顔を背けた自分をどう思ったのか分からないまま、音も無く影に戻っていくイグリットにも酷くショックを受けた。
 「結局契約で縛られた関係でしかないんだな…」
 一人だけになったダンジョン内で行き場のない感情に翻弄される自分をどうすることもできなかった。



 熱風と土埃が旬の頬を掠めていった。
 そこはかつて活気溢れる街だった場所。
 しかし今はその面影もなく、石で作られた建物は瓦礫と化し、街であった場所のあちらこちらで燻った煙と赤く燃える炎が見えた。
 旬のいる場所は街の中心よりも少し離れた崩れた建物の上になる。下を見下ろせばこの惨状の要因となった者たちが見える。その中には例の青年の姿もあった。

 ああ、またイグリットの記憶を踏襲しているのか。

 現とは違う光景に夢の中だというのに反応してしまう。
 見てしまえば胸の痛みを伴うこの夢を早く覚めてほしいと願う気持ちとは反対にイグリットの過去を知りたいと思う気持ちもある。
 あの青年とはどうなっていくのか、結局のところ覚めない夢を言い訳にこれから起こる出来事を静かに見守ることしかできなかった。
 土煙の中、前を見据えて身動き一つしない青年の周りには、おびただしい数の兵士の死体が無造作に転がっていた。
 彼の国と違う紋章を掲げていることから、敵国の兵士だと分かる。
 青年の握る剣や身に付けている鎧に血で汚れた血跡があることから、この数を彼が全て屠ったのだろう。誰一人としてピクリとも動かない兵士たちの亡骸の中心で彼は何を思っているのか。昏く沈んだ色の瞳からは何の感情も見ることができなかった。
 どのくらい経ったのか、時間にすればほんの数瞬だったのかもしれない。放心状態でその場に佇む青年の下に一人の騎士が静かに近付く。
 イグリットだとその姿で分かる。
 歩く度に鳴る甲冑の金属音が聞こえていない筈はないのに、未だ何の反応も示さない。イグリットが直ぐ側にいるというのにまるで自分一人が世界に取り残されたような青年の姿に旬の方が不安になってくる。
 「皇子」
 イグリットが青年に声を掛けるが身動ぎ一つすることもない。
 「皇子」
 今一度、今度は先程よりもはっきりと声を掛けるがそれでも青年は前を向いたままイグリットの声に反応をすることはなかった。
 一瞬イグリットの顔に苦渋の表情を見た気がした。
 しかしそれを綺麗に消し去った彼は、ゆっくりと瞬きを一つした後、青年に更に近付くとそっと彼の頬に手を添える。怯えさせないように、その上で自分の方へと意識を戻させるように。
 「…イグリット?…」
 頬に触れた自分とは違う体温に漸く意識を戻した青年は、ぎこちなく首を動かすと焦点の合わない瞳でそこにいるイグリットを見上げる。
 「最後の地区の敵も殲滅完了しました」
 静かに報告をするイグリットに何の感情も表さない瞳で見返し、そのまままた前を見据えることで報告を受け入れたことを示す。
 「これで敵の進軍も大幅に後退することになるでしょう」
 「イグリット」
 「これから我が国は本格的に冬が始まります。あちらは冬の行軍には慣れておりません。我々から仕掛けない限り向こうから仕掛けてくることはまずないでしょう」
 「イグリット」
 「ここは何があっても敵に奪われるわけにはいかない我が国の要所です。皇子のお陰で護り切ることができました。王もお喜びになることでしょう」
 「イグリットッ」
 「この地の民が犠牲になろうともここに潜む敵を殲滅させるのは王からの絶対命令でした。皇子が責任を負う必要も憂いを覚える必要もありません」
 淡々と事実を述べていくイグリットの言葉に耐え切れず、青年は彼の名を叫ぶことで遮ろうとするが、言葉はそのまま容赦なく続けられた。
 「…これで良かったと言うのか」
 絞り出すような声には青年の苦渋が滲み、正面を向いた表情からは激しい後悔の色が見えた。
 「民一人護れない者がこの国の皇子だと?父上が赦されたとしても俺は自分自身を赦せない。一生この罪を背負って身体に刻み生きていかなければならない。それがこの地を愛し、我らに未来を託した者たちへの贖罪だ」
 「では、貴方様の罪を私にも背負わせて下さい。私は一生を貴方様に捧げると誓いました。私にもどうか貴方様の一部をこの身体に刻ませて下さい」
 全てを護ることなどできないと分かっている。何かを護る為にはそれ以外の何かを犠牲にしなければならないこともある。理想だけで国が建てられると思う程愚かではない。しかし、それを免罪符にはしたくない。青年のいる場所は誰かの犠牲の上で立っている場所だ。だから忘れてはいけない、彼らの想いを背負って自分は生きていく。それは自分だけでいいと青年は思っていた。それなのにイグリットは一緒に背負わせろと言ってくる。一生を捧げると、同じ罪を身体に刻ませろと。
 旬の意識に青年の思念が流れ込んでくる。
 そんなことはさせられない。我が国の騎士団長、お前の主は私ではなく国王だ。
 そう言わなければならない筈なのに、振り向いた時に見てしまったイグリットの瞳の中に宿る熱に言葉は声にならなかった。
 ああ…また自分の為に誰かを、彼を犠牲にしてしまった。
 喜んではいけない。
 頭では分かっている筈なのに言葉に心が歓喜している。
 そんなどうしよもない愚かな自分に吐き気がする。こんな自分に赦しや施しなど必要ない。
 けれども、悼むように頬に触れてくるイグリットの指を拒む理由もなく、促されるままに顎を上げた先にくる彼からの口付けを相反する気持ちを抱えながら泣き笑いのような表情を浮かべた後、ゆっくりと瞼を閉じて受け入れた。

 『な、に…』
 二人の影が重なり合う間際、どういう訳か今までずっと暗くて殆ど見えなかった青年の素顔が露わになり、旬の眼前に曝された。
 この国では珍しい漆黒の髪に前髪から覗く瞳も髪色と同じく漆黒の切れ長で、スッと通った鼻梁の下には男にしては艶のある薄い唇。
 見間違う筈もない。
 そこには自分と同じ顔をした人物がいたのだった。
 混乱する旬を余所に無情にも映像はそこで途切れる。沈んでいた意識が徐々に覚醒する感覚に、ゆっくりと瞼を持ち上げると、次に目の前に映し出された光景は、いつもと変わらない己の部屋の天井だった。
 心臓が早鐘を打ったようにドクドクと鳴り続け、酷く汗をかいていた。
 今も未だ思考が混乱している。
 そして何よりも狼狽る旬の唇には青年が交わした筈のイグリットとの口付けの感触がはっきりと残っていたのだった───。


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イグ旬のくっつくまでの話前編です。
あと前編は指定ないですが、後編はがっつり年齢指定入るのでいったん切りました。
今振り返るとめちゃくちゃ捏造甚だしいのですが、当時は影の君主とかまだ全然なんにも分からない状態だったので、妄想で書いてます。

初出:2020.08.02

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