── 沖の屋
声を聞かせて
‘プレイヤーにかけられていた全ての力の制約が解除されます’
システムが最後の役目だと言わんばかりに、旬へと影の君主としての力の解放を告げてくる。
‘軍団長級兵士イグリットの力が復旧しました’
それがどう言った意味を成すのか、この時点ではまだ旬は多くを理解していなかった─────。
三人の君主たちとの戦闘が終わった。
辛くも勝利を収めることができたが、旬をかつてない程窮地に追い込み、その身に大きな損傷を与えた。
君主を相手にするには旬の力だけでは敵わず、影の君主として最後の覚醒を以って真の力を手に入れ、討伐が可能となった。
しかしその代償は大きく、旬は影の君主の力を得たと同時に人としての生に終止符を打たなければならなかった。
牙の君主と極寒の君主から受けた傷は、祝福のスキルであっても治癒させることができず、一時は安寧の世界を時を忘れて揺蕩っていた。
ただ、心の片隅では己の今いる場所が現実ではないこと、そしてこの時点で既に人の臓器として動いていた心が停止していることに気付いていた。
だから、どうすれば力を解放することができるのかが容易に知れ、それが現実となり、旬を新なる影の君主へと導くことができたのだった。
だからと言ってそれを悲しむつもりはなかった。そうしなければ、大事な人たちを守ることができなかったのだから。
何故強くなりたかったのか。何故二重ダンジョンでシステムの要求を呑んだのか。それは偏に大事な家族を守りたいが為に過ぎなかった。それが単に自分の人としての生よりも大事だったというだけのこと。
そして旬が人から影の君主へと覚醒したと時を同じくして、従者たちもまた力を解放させていた。
主君の能力上昇が影全体の能力値の底上げとして影響を及ぼし、その中でもシステムは名付きの影の力の解放を伝えてきた。
彼らの本来の能力の復旧。
ベルの能力値の大幅な上昇と、イグリットの力の解放。
イグリットは本来は前の影の君主、アスボーンの従者だった。その力は他の君主たちに名が知られる程に強大で、時に君主たちをも脅かす武略と剣術で影の君主の軍団を率いる一翼を担っていた。
それが転職クエストで旬の従者となった時に能力の一部を封じられることになった。システムが意図してそうしたのか、それとも旬の能力に比例してイグリットの能力が下がったのか、その辺りの事情については深くは追求しなかったが、どちらにしても漸くイグリットも本来の力を取り戻すことができたのだ。
影の世界から目覚める。
氷の結界に閉じ込められていた従者たちも自分たちの力で易々と抜け出し、再び君主たちとの戦いに参戦する。ベルが先頭を切って飛び出し、それに続くようにイグリットが抜き身の剣を振りかざし、極寒の君主が放つ攻撃をその剣で軽くいなしていく。
そんな彼らから少し時間を置き、二人の上昇した能力の確認を兼ねながら、旬は動向を見極めゆったりと続く。あれだけ苦戦を強いられていた君主との戦いが嘘のように余裕ができる。これが本来の影の君主の力なのかと、改めてアスボーンへの畏敬の念を抱いた。
旬は正面を見据える。
視線の先には極寒の君主の前に立ちはだかるイグリットの姿が見える。旬の位置からは背中側しか見えなかったが、その威風堂々とした姿に感嘆する。
「 」
ふと、聞き覚えのない声が耳に入ってきた。喧騒に紛れて上手く聞き取ることができなかったが、極寒の君主の顔が憎々しげに歪んだのを見るに、先の声がイグリットのものだと分かった。
ドクリ───。
分かったと同時に身体中の血液が沸騰する感覚を覚えた。
初めて音として捉えることができたイグリットの声。
従者として使役してから幾度とその声を望んだことか。
始めの頃は違った。召喚獣が人語を操るなど世界中どこをとってもそんな例はなかったから、彼らが言葉を発する等とは端から思っていなかった。
しかし、ふとした時に湧いてくる。
彼らが人のように感情を表す時、旬を物言わず見つめてくる時。何を思い何を感じているのか、彼らと感覚を共有したいと思うことがあった。
ただ、そんなことは叶うことのない夢だろうと思っていた。
それが架南島でベルを仲間にしたことにより覆される。
名を付けて欲しいと声を発したベルに衝撃を受け、と同時に胸を衝いた思いを今も鮮明に思い出すことができる。等級が上がれば彼らは声を発することが可能になるのかもしれないと。
それは思いの外、旬の心に深く刺さった。
声が聞きたい。何を考え、何を思っているのか。
声を発するベルを凝視しながら、けれども旬はその先の影を見つめていた。闇の中に声を聞きたい者の姿を無意識に探し求めていたのだった。
早く等級を上げたい。あとどれ程のレベルを上げればベルと同じ等級になるのか。
ダンジョンに入る度に今のランクでレベルが上限になる者はいないか聞いた。声はなくともイグリットがその姿を現した時は、嬉しさに心が躍ったことを覚えている。早く昇級させる為に他の影たちを撤退させてイグリットとベルだけでダンジョンに進入することもあった。
そんなイグリットの昇級が叶ったのだ。そして、求めていた声を漸く聞くことができた。
その後、戦闘が終わり改めてイグリットから声を掛けられた。
「主君」
と目の前で傅き、頭を垂れて旬を呼ぶ声の重みに身体が震える。旬を“主君”と呼ぶことも、その声が聞いたことのないような腹に響く厚みのある深い声だということも今初めて知ることができた。
「漸くお前の声を聞くことができたな」
そう旬が呟けば、垂れていた頭を上げて視線を向けてくる。ひたむきなその視線に胸の鼓動が速くなった気がした。
「大変お待たせしてしまい申し訳ございません。しかしこれで漸く主君への忠誠を音としてお届けできることに万感胸に迫る思いでございます」
すらすらと淀みなくイグリットの口から発せられる声に目を見張る。今まで言葉を聞くことができなかったからか、こんなに流暢に言葉を話すことができるとは思わなかったから少し驚いてしまう。しかもベル以上に堅苦しい言葉を使ってくる。それが深みのある声と相まってより一層イグリットを騎士然とさせていた。
「主君より頂いたこの生を再び無に還るその時が来るまで、永遠に主君の為に使うことをお許しください。私は主君の為だけに───、」
「わ、分かったから!イグリットが俺に忠誠を誓ってくれているのは、今までのお前を見ていたら分かっているから、改めて言わなくてもいい」
視線を外すことなく旬への忠誠を誓いの言葉として発してくるのに、羞恥で途中で言葉を遮ってしまう。
朱くなった顔を見られたくなくて、イグリットから顔を隠す。こんな状態でイグリットの声をずっと聞いてしまったら、恥ずかしさで頭が沸騰してしまう。
けれども、言葉を遮ってしまったことに、もしかしたらベルのように落ち込んでしまっているかもしれないと、少しの罪悪感にチラリとイグリットの方へ視線を向けてみる。
「主君?」
「っ…!何でもない…っ」
旬をじっと見つめていたイグリットとバチリと目が合ってしまう。またしても重みのある低い声が旬を呼ぶのに、新しく生まれた心臓の鼓動が痛い程に高鳴り、今度こそ影たちを自分の中へと戻したのだった。
どうしてベルやグリードの時は速まることのなかった鼓動が、イグリットの声にだけこんなにも反応してしまうのか。その答えはもう既に旬の中に朧げながら存在していたが、それを伝えるだけの自信と勇気がまだ旬にはなかった。
そんな一件はあったが、声を発することができるようになったイグリットは、煩わしくならない頻度で旬へと声を掛けてくるようになった。
ただ、元来無口な性格だったのか、幸いにもイグリットも本当に必要な時にしか言葉を発することはなく、ベルが話しかけてくるよりもずっと回数は少なかった。しかし、それでもその度に旬は過剰に反応してしまい、それを悟られないようにするのに精一杯だった。
旬自身も不思議だった。ベルを見ていれば自分を呼ぶ名など分かっている筈なのに、それでもイグリットの声で“主君”と呼ばれるとどうしてこんなにも特別な言葉に聞こえるのか。もっと呼んで欲しいのに、これ以上は呼んでほしくないとも思ってしまう。相反する感情の渦に翻弄されてしまい、旬は気が付けば最近はイグリットの声を避けてしまっていた。勿論、大事な場での声はきちんと聞いているが、何気ない会話の時は極力距離を置いて聞いていた。そうでなければ、その内とんでもないことを口走ってしまいそうな気がしてならなかったから。
そんな折にアスボーンの遺産でもある彼の影の軍勢がゲートから旬の下へと降った。
前王の側近だという甲冑を纏った騎士の型をとった影が旬の前で頭を垂れる。ベリオンと名乗った影は旬への忠誠を言葉に乗せて、滔々と祝辞を述べていく。それを旬は不思議な気持ちで聞いていた。
ベリオンもまたその体躯に似合った、太く低く響く声をしていたが、だからと言ってイグリットの声のように身体が反応することはなかったから。
誰の声を聞いても変わらず彼らと話ができるのに、イグリットの声を聞くだけで身体が反応してしまう。
そんなことを考えながら全軍を自分の影の中へと戻した旬は、その場から姿を消すと最近拠点として使っているDFNのとある場所へと移動していた。
新たに仲間となった者たちの力量を見極める為に、力を使っても他に影響の及ぼさない場所となれば、誰も訪れることのない無人島が最適だった。そこで改めて全軍を召喚する。
壮観なるその光景に思わず感嘆の声を出せば、いつの間にか隣に侍っていたベリオンからも満足そうな気配が感じられた。
ぐるりと軍勢を見渡す。
「久しいな」
すると隣からベリオンの声がする。口調から旬に向けての言葉ではないことに気付き、誰と話しているのかと気になり、声の方へと視線を向ける。
「お久し振りにございます」
それと同時にイグリットの声が聞こえ、条件反射のように心臓が跳ねる。それを気付かぬ振りでそろりとベリオンの躰の合間から彼らを伺い見れば、イグリットが旬以外の者に礼節を持って接しているところを見てしまい目を見張る。
流石に片膝を突いて傅くことはしていなかったが、胸に手を置き軽く頭を垂れてベリオンへと挨拶をしている。
「いい、私とお前の仲だ。そんな堅苦しい挨拶はよせ」
「何を仰いますか。総軍団長と漸く再会できましたことに、挨拶は必要でしょう」
丁寧な挨拶の中に二人の気安さが垣間見える。そう言えば、準備が整いゲートから影の軍団が到来すると伝えてきたのはイグリットだったことを思い出す。あの時はゲートの成熟度を見て伝えてきたのかと思ったが、もしかすると彼らの思念が何処かで繋がっていて、ベリオンが準備が整ったことをイグリットに伝えたのかもしれなかった。
─── ツキリ。
自分の知らないところで彼らが繋がっている。
そう思った途端、イグリットの声に反応していた鼓動が今までと違う音を出す。キリキリとした痛みに思わず胸を押さえれば、それを目敏く見つけたイグリットが慌てて旬の方へと近付いて来る。
「主君」
「な、んでもないっ!気にしなくていいから、お前はもっとベリオンと話をすればいい」
胸を押さえる旬に目線を合わせて上体を屈めたイグリットが、気遣わしげに声を掛けてくる。またあの声が耳朶を掠めるのに、無意識に耳を押さえてイグリットから距離を取る。
「そ、そろそろ作戦を試さないとっ」
丁度目先に演習の為に準備を整のえたベルと他の影たちが見え、旬は慌ててそちらへと足を向けたのだった。
きっとイグリットは変に思ったに違いない。けれどもそれを取り繕う余裕もない旬は、結局その後もイグリットと一定の距離を置いて、影たちの演習を見守っていたのだった。
そんな旬を思案するような視線と諦念を纏った視線とが見ていたことには到底気付いていなかった。
その後、ベリオンとこれからの戦いに向けての作戦の調整をして、影を幾つかの隊に分けて模擬演習をしていくことになった。
旬は基本どの隊にも入らず彼らの動きを観察する。クラスによる得手不得手の見極め。隊同士の相性など、人の観点から見た今後の戦術を練っていく。
隣には旬の考えや戦術を漏らすことなく会得しようと総軍団長であるベリオンが付き従っていた。間近で繰り広げられる旬の戦術にアスボーンとは違う戦い方に少なからず驚いていたベリオンだったが、その内自らも旬の指揮下で戦いたい欲求が生まれたのか、旬に断りを入れて眼下へと降りていった。
見晴らしの良い崖上で影たちの動きを観察する。
流石に総軍団長だけあり、ベリオンの動きは群を抜いていた。ただ、付き合いの長い元からの旬の影たちの動きも悪くなく、連携となれば旬の戦術に慣れた彼らの方に分があった。
『主君、イグリットの軍に合流してもいいでしょうか』
不意に脳内に直接ベリオンの声が響く。どうやら、イグリットと連携を組んでみたいとのベリオンからの要望だった。
「ああ、いいよ」
二人とも元はアスボーンの両翼を担う熟練の騎士だ。前の世界でもきっと連携して戦ったこともあるだろう。だからきっとこの中ではベリオンを援護しながら彼の動きに無理なくついていくことができるのはイグリット以外にはいない。
そう思ったら、またしてもモヤモヤとしたものが胸の中に広がる。
それをどうにかして宥めていると前方の影たちから浮き足立った気配が流れてくる。何事かと思い視線をそちらへと向けた旬は驚きに目を見張る。
予想していた通り、ベリオンとイグリットは流れるようにぴたりと互いの呼吸に合わせて剣を振るっていた。どちらもが相手の剣筋の邪魔にならないギリギリの間合いで、死角を突いてくる相手を撃ち払い、隙のできた場所から陣形を崩していく。陣形を崩された隊は直ぐ様列を整えようとするが、二人の動きの方が速く、イグリットが白雷をフィールド全体に放った瞬間にベリオンのあの独特な剣が相手を縦横無尽に刺突していく。それはまさに圧巻としか言いようがない程の強さだった。
勿論、他の影たちも黙ってやられているわけではない。スピードを活かしたベルの隊が数にものを言わせて幾重にもベリオンに向かって突進していた。間合いギリギリのところで左右から回り込み、そのままベリオンに向かう者と飛び上がり上から攻撃する者とに分かれる。だが立体的な攻撃に対してもベリオンの蛇腹剣が渦を描くようにしなる。一撃で吹き飛ばされるアリたち。しかし、その合間を縫ってベルの鋭い爪が死角からベリオンに向かって振り下ろされる。
ベリオンは気付いていないかのように見えた。しかし、それは背後を気にする必要がないと分かっているからの動きだと旬は気付く。
ベルの鋭い爪が届く寸前で二人の間を白雷を纏った剣が阻む。爪を弾き体勢が崩れたベルに、いつの間にかベルの背後に回ったベリオンが伸びた剣を元に戻し、そのまま一振りする。それを間一髪で避けたベルだったが、着地と同時に下段からイグリットに足を払われ地面に手を突いてしまう。慌てて体勢を整えようとしたが、その首元に二本の剣が交差した。
「ストップ」
それと同時に旬が声を掛ける。すると予め分かっていたかのように二人の剣は名残惜しむことなく、直ぐにベルから離れ、演習の場に下りてきた旬の正面で跪く。ベルも慌ててその姿勢をとる。
「見事な連携攻撃だな。念話もなく互いの動きをよく見てる」
旬が感心して言葉に出せば、イグリットは恐縮したように頭を垂れ、ベリオンは旬の言葉に嬉しそうに言葉を返す。
「イグリットとはあの方の側で常に一緒におりましたから、此奴と剣を合わせることは息をするよりも簡単なことです」
自信に漲るその言葉に、旬の中にじわりと何かが湧き上がってこようとする。
「イグリットを信頼しているんだな」
「最も信頼のおける友です」
友と言った言葉にイグリットの肩が小さく揺れたような気がした。チラリと視線を向けたが相変わらず視線を下げたままで何を考えているかは分からなかった。
「最も信頼できるか…」
ベリオンの言葉を小さく反芻する。その言葉に込められたものに、二人が旬よりもずっと長い時を刻んできたのだと改めて突き付けられた気がした。そして言葉にできる程二人の絆に自信があるのだろう。
胸に巣食うモヤモヤがまた濃くなった気がした。
これは羨望なのか。背中を預けられる程イグリットを信頼しているベリオンに。それとも最も信頼しているとベリオンに言わしめたイグリットにか。
そして気になった。
イグリットもベリオンのことを同じように誰よりも信頼しているのか。
聞くまでもないのかもしれない。あんな剣技を見せられ、違うと言われてもそちらの方が信じられないだろう。
答えが分かっている質問を敢えてする必要はない筈なのに、気が付けば口が勝手に言葉を発していた。
「イグリットもベリオンのことを誰よりも信頼し───、」
「王よ!拙者は誰よりも王に信頼して頂けるよう、今まで以上に精進致します!!ですからどうか!どうか今一度対戦の許可を!!」
イグリットに声を掛けたと同時に今まで大人しくしていたベルが突然切羽詰ったように叫んでくる。身を乗り出し虫独特の大きな目を潤ませ、滂沱の涙を流しながら旬に懇願してくる。その余りの勢いにイグリットに掛けた声は霧散してしまい、旬はそのまま迫ってくるベルを押し退けながら宥める。
「ベル、落ち着け。一本取られたからってベルを信頼しないなんてことはないから。流石にこの二人を相手に勝ちを取るのは大変だろう。だから気にするな」
思わずよしよしとベルの頭を撫でていると二人から強い視線を感じたが、出した手を引っ込めるタイミングが分からず、ベルの頭に手を置いたままになってしまう。
「まあ、一対一だったとしても早々に私から一本を取れるかは怪しいですけどね」
「何!!」
暗に先の総軍団長の座をかけての勝負のことを引き合いに出しているベリオンにベルの気勢が上がる。
「止めろ」
元々ベルは好戦的な性格をしているから少し挑発をされると直ぐに乗ってしまう傾向があるのだが、もしかしてベリオンも中々良い性格をしているのかもしれないと、今の二人の遣り取りを聞きながらこめかみを押さえそうになった旬だった。
旬の一声に直ぐ様口を噤んだ二人だったが、ぴりぴりとした雰囲気が辺りを包む。
「じゃあ、次はベルとイグリットの隊でベリオンと対戦してみろ。イグリットが指揮を取って打ち負かせろ。長く一緒にいたんだったら手の内も分かるだろう」
旬の決定にイグリットから何か言われるかと構えていたが、首肯で受諾の合図を送ってきただけで、特に言葉を発してくることはなかった。少し拍子抜けをした旬だったが、直ぐに頭を切り替えベルに向き直る。
ベルも旬の決定したことには異を唱えるつもりはないらしく、珍しくイグリットに拳を向けたかと思えば、打倒ベリオンと言いたいのか二人して拳を合わせていた。
そんな影たちの遣り取りに旬も興味を持った。ベルとベリオンは先に手合わせをしていたが、イグリットとベリオンの手合わせは未だ見たことがない。力量からすれば一対一だとベリオンが勝つことは目に見えていたが、隊を交えての戦術対抗戦となれば長く共にアスボーンの下で共闘していた分だけ、互いの手の内が分かり、それこそ面白い試合になるような気がした。
「大将はお前たち以外の影を選べ。先にその影を追い込んだ方が勝ちだ」
個々の実力を見るだけならば一対一で戦えば済む話だ。しかし今は次に来る君主たちの襲来の為に備えての訓練も兼ねている。だから、個々で戦うことよりも隊を率いての戦いでどれだけ動くことができるかの方が大事だった。
旬の言葉に三人はそれぞれ承諾し、一度頭を下げると各々の持ち場へと向かって行った。
「そう言えば、先程イグリットに何か聞かれようとしてませんでしたか?」
「え…」
一度旬に背中を向けたベリオンが振り返り、何気なく問い掛けてくる。何の気構えもしていないところに掛けられた言葉に咄嗟に取り繕うこともできず、不自然に固まってしまう。
自分の名前が出たからだろうか、イグリットもまた旬の方へと向き直り、ベリオンの言葉に対して返す旬の言葉を待っている。だが、タイミングを逃してしまった問いを改めて言い直す程、今の旬には勇気がなく、どう取り繕うか思案する。
「いえ、何か仰られていた気がしただけですので、私の勘違いのようでした」
そんな旬を見て何を思ったのか、ベリオンは失礼しましたと、質問を撤回し深々と頭を下げてきたので、更に何も言えなくなる。イグリットの視線を強く感じていたが視線を返すこともできず、結局有耶無耶にしたまま彼らとは別れ、旬は定位置である崖上に戻ったのだった。
その後、訓練の再開と軍団長同士の対戦に影たちの士気は上々な結果に終わった。三人の勝敗については良い線までいってはいたが、やはりベリオンの実力がベルとイグリットよりも上回っていた。ただ、一方的な負け方ではなかった分、ベリオンの戦術を熟知しているイグリットの洞察が功を奏したと言えるのかもしれなかった。
訓練は成功に終わった。それなのに旬の心はモヤモヤしたままで、晴れる兆しが一向に訪れることがなかった。
だから気付いていなかった。
この日を境に、イグリットが再び声を出すことがなくなっていたことに。自分の持て余した感情に翻弄されていた旬は気付くことがなかった。
それから数日は平穏な日が続いていた。
保留にしていた君主たちとの今後の大きな戦いを全世界に説明する決断も付いた。
最近はイグリットの姿を見ても緊張することもなくなった。
いつもの自分に戻ったと思っていた。
今もベリオンを隣に置き、他の影たちを何とはなしに見ながら、たわいもない話をしていた。ベリオンも旬の戦法に慣れてきたらしく、あれこれと指示を出さずとも総軍団長としての使命を果たしてくれていた。
そんな折に隣から声が掛かる。
「最近はイグリットと上手くいっているようですね」
「え?」
急に話を振られ何のことだと訝しんでしまう。咄嗟に反応できず、かと言ってベリオンが何を指してそんなことを言ってきたのかが分かりかねて頭の中で今の言葉を反芻する。
上手くいっているようだと言われても、今までイグリットとは険悪な雰囲気になったこともなければ、戦いの中で連携が取れなかったこともない。それよりも影たちの中では誰よりも呼吸を合わせることができ、指示を出さなくても旬の動きに付いてきてくれていた。
それは訓練を見ていたベリオンも分かっている筈だろうに、何を言っているのかと隣を見上げると、ベリオンの方も困ったような顔をして旬の方へと視線を向けていた。
「…上手くいってないと思っていたのか?」
「いえ…この世界に降り立った頃に思ったことですので、ただ単純に私が思い違いをしていただけだったようです」
そう言ってくるベリオンに、先日も何か引っ掛かるようなことを言っていたことを思い出す。あの時はイグリットに旬が言い掛けた言葉が何だったのかと尋ねられた。今回はイグリットとの仲について聞かれた。どちらも共通するのはイグリットのこと。ベリオンが何故そこまでイグリットとのことを気にするのかが分からない。分からないけれど、イグリットのことをベリオンが気に掛けていると思ったら、漸く消えた筈の胸の澱がまた湧き上がってくる感覚を覚えて、無意識に胸を押さえたまま気が付けば何故そう思ったのかベリオンに問い詰めていた。
「俺とイグリットの何を見てそう思ったんだ?仲違いをしたことなんて今まで一度もないんだけど?」
そもそも旬に従順な影が旬の命令に背くことがある筈がなかった。意図せずやり過ぎて叱責をすることはあっても彼らが旬の意思を無視することはなかった。だからイグリットと上手くいってないように見えた理由が分からない。
「いえ…本当に私が勘違いしていただけですので…」
「いいから。何を勘違いしたんだ?お前から見て俺とイグリットがどう見えたのか教えてくれ」
そこまで言い淀むベリオンに、逆に気になってしまい先を促す。じっと見つめてくる旬の視線が自分から逸らされないことに観念したベリオンは、バツが悪そうに珍しく歯切れ悪く話し出す。
「主君がイグリットのことをあまり良く思っていないように見えたのです。その……イグリットが声を掛けるといつも避けられてましたし、あれの言葉をよく遮られてましたから、イグリットが何か主君の不興を買うようなことをしでかしたのかと思ったのです」
ああ、と思った。
ベリオンが何故勘違いしたのか理由が分かった。
イグリットの声を聞く度に肩を震わせ、極力彼の声を間近に聞かないようにと距離を取っていた。腰に響く落ち着いたあの声で自分を称賛する言葉や気遣う言葉を聞いてしまえば、鼓動が速くなって身体に力が入らなくなるから、全てを聞くよりも先に彼の言葉に言葉を重ねていた。それがベリオンには旬がイグリットを敬遠しているように見えたのだろう。
「イグリットのことを鬱陶しいなんて今まで一度も思ったことない。お前が気に病むことなんてないから」
そう、イグリットが悪いわけじゃない。全て意識してしまう自分が悪いのだ。でもそれならどうして意識してしまうのかと問われてしまっても、それを言葉にして告げることはできない。だから、これ以上は深く聞いてこないでほしいと、ベリオンとの間に無言の壁を作る。
そんな旬の様子にベリオンも諦めたのか、それ以上のことは聞かず、それでも一つ旬の胸に黒い染みを落としていく。
「それならば良いのです。主君とイグリットはあまり言葉を交わされる仲ではないのかと思っていたのですが、二人の気性もあると言うことですね」
ベリオンは思案するように言っていたが、自分の言葉に納得したのか、旬の方へと向けていた視線を前方へと向き直し、背筋を伸ばして背後で手を組みスッキリとした顔付きをしていた。
しかし、そんなベリオンとは反対に、旬は告げられた言葉に引っ掛かるものを感じる。
「イグリットと言葉を交わしてない?」
今しがた告げられた言葉を繰り返し口にする。
「?…はい、私が此方の世界へ降りた時は時折言葉を交わされていたようですが、最近はイグリットに命令される時に主君から声を掛けるだけに留まっておるように見受けられました」
そこで漸くイグリットの声をもう随分と聞いていないことに、言われて初めて気が付いた。そして自分の鈍さに呆れてしまう。なんてことはない、イグリットを見ても緊張しなくなったのは、彼が以前と同じように声を出さなくなっただけのこと。あの声を聞かなくなったから身体が強張らなくなったに過ぎなかったのだ。
「言葉を交わされてはいませんが、イグリットのランクが上がるまでは他の者たちと同様にずっと声なく主君に従っていたのでしょう。戦闘においても特に支障があったようには見えませんでした」
旬の意図を汲み、一つ一つ指示を出さなくても思い通りに動いてくれるイグリットだったからこそ、ベリオンに言われるまで気付かなかった。そして、それはイグリットが旬に気付かれないように細心の注意を払って、ごく自然に当たり前のように振る舞っていたからこそなのだと分かる。
「なんでイグリットは話さなくなったんだ……」
いくら言葉を交わさず意思の疎通ができると言っても、ベルやベリオンは自分によく話し掛けてくる。グリードも言葉少なだが、ベルたちと話していると自分も混ざりたそうにしているのを見る。イグリットも声を出せるようになった時は、自分から話し掛けてくることもあったのに、何故それを止めてしまったのか旬にはその理由が分からなかった。
「イグリットが何故主君にだけ声を出さなくなったか理由は分かりませんが、今まで通りであれば主君が気になさることではありません。それに主君は命令できるのですから、それこそイグリットに声を出せと一言言えばいいのです」
“主君にだけ声を出さなくなった”
自分とは話さないのにベリオンとは話をしている。そんな風にも聞こえて、その言葉に更に落ち込む。
確かにイグリットとは言葉がなくても上手くいっている。先日の模擬戦でのベリオンとイグリットが見せた連携も自分とイグリットならば可能だと自負できる。だから今更声を出して話せと言ったところで、それは必要な工程ではないし、何よりこんなことでイグリットに命令をしたくなかった。命令をしてしまえば、イグリットは自分の感情や意思とは関係なしに旬に従うから。それが分かっているから、それだけは絶対にしたくなかった。
「理由は知りたいけど、俺と話がしたくないんだったらそれもできない。だからと言って命令をする気もない」
イグリットが理由もなく自分を避ける筈がないから、きっと何か理由があって声を出さなくなったんだとは思う。しかし、それを問い質した時に、もしも聞きたくない言葉を聞いてしまえば、自分の心を平常に保てる自信がなかった。
きっとこんな気持ちになるのはイグリットにだけ。
イグリットにだけ心が向かってしまい、何故そうなってしまうのかその理由ももう既に自分の中で明確に確立してしまっていた。だから、彼の声にドキドキするし、ベリオンとの絆を見せられてはキリキリと胸が痛んだのだ。
「そろそろ、陽も傾いてきましたし、一度城へ戻りますか」
自分の考えに没頭していた旬は、ベリオンの声に意識を浮上させる。
周りを見回せば、太陽は随分西へと傾き、空を茜色へと変化させていた。東の空にはもう闇が訪れようとしている。
一旦思考を中断させた旬は、外へ出していた影たちに号令をかけ、自分は彼らが築いた城へと足を向ける。ベリオンが旬に従って後ろから付いて来ようとするのを片手で制する。
「少し一人になりたい」
一人になって頭の整理をしたかった。
声を出さなくなったイグリットのこと。アスボーンの下で共に支え戦っていた彼らのこと。
そして何よりベリオンに聞かされた“主君にだけ声を出さなくなった”の言葉に傷付いている自分の心をどうにか落ち着かせたくて、今は少しでも早く一人になりたかった。
一人城へと戻った旬は、城下を一望できる塔の一角に来ていた。
眼下を見渡せば、城の前に広がる広大な土地に命令をしたわけでもないのに影たちが互いに力を競い合う姿が確認できる。
ここにいる間は彼らを自分の中へと戻すつもりはなかった。それは前にベリオンにも言ったこともあるように、次元の狭間でずっと閉じ込められていた彼らを今度は影の中とはいえ、やはり閉ざされた空間に留まらせるのはどうしても窮屈に思えてならなかったからだ。誰にも見咎められる心配がないのであれば、マナを消費することもないし、彼らには自由にしていてほしいと思った。
「いないな…」
見渡した場所にいつもの紅が見えないことに、安堵しているのか落胆しているのか分からない心がせめぎ合う。
見てしまえば意識してしまい心臓が高鳴って仕方なくなるくせに、いなければいないで何処で何をしているのか気になって仕方なくなる。しかも先程まで自分の隣でいた影も同じく姿が見えないことに更に胸がざわついてしまう。
他の影たちとは違い、顔馴染みの二人。漸く再会できたことで積もる話もあるだろう。どんな話をしているのか、知りたいような知りたくないような。ただ、気を許し合い、自分と接する時とは違う彼らにしか分からない、他の誰とも共有することのない世界があるのだと思うと、寂寥感と虚しさが心の中を吹き荒んでいく。
ああ、と、漸く自分の心と向き合えた気がした。
転職クエストで初めて影にしたイグリット。
最初は初めて影にした従者だから、自分の心が彼を特別視していたのかと思っていた。けれども、それだけじゃないことに時間を共に過ごすことで段々と気付いてしまう。
どんな時も側に控え、支えてくれる存在。何も言わず、ただ側で自分を護ってくれる彼にどれだけ助けられたか分からない。それは戦いの中でもそれ以外の中でも変わらない。自分を包み込んでくれるイグリットの存在に、いつしか心が惹かれしまっていたのだ。言葉がなくても自分の意図を汲んでくれる。一つ一つは些細な出来事であっても、それが積もり積もれば特別な存在になってしまうには十分な理由だった。
けれども自分の特別とイグリットの特別が違っていると突き付けられてしまったら、この気持ちはどうすればいいのだろう。
否、どうするも何も、始めからどうにかできるものではないのだ。
主と従。それ以上でもそれ以下でもない。
イグリットは忠実な従者だ。だからこそ今までその枠からはみ出るようなことをすることはなかったし、旬も安心してイグリットに背中を預けることができた。それはきっとこれからも変わらないだろう。
ただ、旬の心が変わっただけなのだ。
それだけじゃ嫌だと。従者としての忠実さだけじゃなく、もっと近付いてほしい、もっと話しかけてほしい。
「もっと求めてほしい……」
言葉にしたことで感情が形となって旬の中に生まれる。
切なくて愛おしい感情。
主従の間では持ってはいけない感情なのかもしれない。ずっと秘めていなければならないものなのかもしれない。
けれども、旬は勇気を出して伝えようと思っている。勿論、伝えたところでイグリットが心を返してくれるとは思っていない。
それでも、ベリオンが言ったように自分がイグリットのことを避けているように見えたのなら、それに対しての理由をきちんとイグリットに話して今までのことを謝らなければならないと思った。なぜなら、ベリオンに気付かれているのならば、自分のことをずっと見てきたイグリットが気付かないわけがないから。
それに今まで支えてきてくれた彼に対して、自分がやっていたことは不誠実な態度だ。だからきちんと向き合う。それがひたむきに支え護り続けてくれた彼への自分なりのケジメだと思うから。
そう思ったら今までが嘘のように早くイグリットに会いたいと思った。会って早くこの気持ちを伝えたい。返ってくる答えが分かっていても自分の嘘偽りのない気持ちだけはイグリットに信じてもらいたいと思った。
見渡す荒野には未だイグリットの姿は見えない。気配を辿れば城の中にいることが分かった旬は、何の躊躇もなく塔から離れると、イグリットを探して城の中へと足を向けたのだった。
陽が殆ど入らない場内は薄暗く、唯の人間ならば薄気味悪さに長く留まりたいとは思わないだろうが、旬にとっては暗闇は最早安寧とした空間でしかなかった。
回廊を渡り、玉座へと続く広間のある扉の前に辿り着く。今は開かれたその扉の奥へと足を進めると無駄に広い大間が現れる。ベル曰く、謁見の間と言うものだそうだが、今の自分には不必要な部屋でしかなかった。それでもベルたちアリ兵が方向性はおかしくても、旬の為に一生懸命造ってくれたのだと思うと無下にもできず、溜息一つで享受することにした。
そんな大広間の一角からイグリットの気配を感じる。
広間の柱に隠れて姿を確認することはできなかったが、気配のする方へと足を向けると見知った紅いプルームを視界が捉えた。
そのままイグリットに近付こうとして、そこにいるのが彼だけではないことに気付き、思わず近くの柱へと身を潜めてしまう。自分でも何故咄嗟に隠れてしまったのか分からず、自分の行動に動揺してしまう旬だったが、聞こえてきた声に更に息を詰めて前方にいる二人に気付かれないように気配を消して、駄目だと思いつつも彼らの話に耳をそばだててしまう。
「お前は、いつまでそうやっているつもりだ」
低く潜める声ではあったが、イグリットと話をしているのはどうやらベリオンだと分かる。塔にいた時、二人して姿が見えなかったことに胸がざわついたが、こうして自分の知らないところで二人だけで人目を忍んで会っている事実を目の当たりしてしまうと、胸がざわつくどころか掻き毟られるような痛みを伴い、思わず両手で胸を押さえてしまう。
背後にある柱に背中を預け、どうにかしてその痛みを落ち着かせようと浅く呼吸を繰り返していると、ベリオンの問いにイグリットが応えているのが聞こえてくる。
「何のことを言っているのか分からないな」
久し振りに聞いた低く響くイグリットの声に、こんな状況だというのに嬉しくて泣きたくなるような感情が湧きあがる。
「分からないなら言ってやろう。お前のその態度だ。主君に対していつまで言葉を出さずにいるつもりだと言っているんだ」
二人が自分のことを言っているのだと知り、旬は慌てて息を潜ませる。胸の鼓動は未だ痛いくらいにドクドクと脈打ち、その心音が二人に聞こえてしまうのではないかと心配になる程だ。
幸いに、二人は未だ旬がいることには気付いていないようで、話は尚も続いていく。
「何を言っている。主君の命は絶対であり、私はそれを完璧に遂行している。何の支障もない。主君からも咎められたこともない」
「私が気付いていないとでも思っているのか。お前は主君の前でその声を態と出さずにいる。今まで力が抑制されて声を発することができなかった為に、それとなく周りに違和感を植え付けないように言葉を話さないようにしていったのかもしれないが、私の目は誤魔化されないからな」
ベリオンの詰問にも素知らぬ振りで流そうとしていたイグリットを誤魔化しは許さないと、更に詰め寄っていく姿が見える。そんなベリオンの強い追求に物言わず睨み付けていたイグリットだったが、流石に誤魔化せないと思ったのか、観念したように一つ嘆息をすると今しがたの凛とした声とは裏腹に何かを諦めたような口調で滔々と話し出していった。
「お前には敵わないな……。……どうやら私の声は主君を不快にさせてしまうようなのだ……。初めは力が解放されて声を出すことができるようになった私に慣れずにおられるのかと思っていたのだが、何度主君へとお声を掛けさせて頂いても、その度に御身を強張らせておいでだった。その内私を避けられるようになり、声も聞きたくないと手振りで拒否されてしまう」
イグリットの告白に旬は思わず声が出そうになり、慌てて手で口元を覆う。やはりイグリットも旬が彼を避けていることに気付いていたのだ。けれどもイグリットの声を不快に思ったことなど一度もなく、彼が思い違いをしていることに歯噛みする。
「私の声で主君にいらぬ心労をかけてしまっていたのではないかと、そればかりが悔やんで仕方がない。それならば一生この声を封印することなど何も大したことではない。私にとって主君に拒絶されてしまうこと程、恐ろしいものはない」
静かに語るイグリットの声に、彼が本気で悔やんでいることが分かり、今すぐにでも飛び出して違うと叫んでしまいたかった。けれども、それをする前にベリオンがイグリットに言葉を返す。
「もしかしてあの時のことをまだ引き摺っているのか」
ベリオンの窺う声に何のことだと旬は首を傾げる。それが自分の知らない彼方の世界での出来事だということに続く言葉で気付く。
「あれはお前の声が不快だから彼らが言ったわけではないんだぞ」
「そうだな。言ってくる者が一人や二人なら私のことが気に食わない者からの戯言と気にも留めなかっただろう。だが何人もの相手から声を出すな、お前の声は毒だと言われ続ければ、私の声には人を不快にさせるものがあるのだと認めざるを得ないではないか」
イグリットの声が続く。
言葉を話す度に相手が眉間に皺を寄せる。酷い時にはあからさまに身体をビクつかせ、自分から距離を取ろうとした。
それでも大概の者はそれ以上のことを言動に示すことはなかった。だが、イグリットよりもランクの上だった騎士たちは、こぞって彼へと暴言を吐く。
“お前の声は毒だ”と。
そして、決定的だったのが他の支配者からの言葉だった。イグリットの声を聞いた瞬間、拒絶するように自分を遠ざけ、不快な表情を隠そうともせず、イグリットの声以上に毒の入った言葉を容赦なく彼の胸へと突き刺したのだ。
「彼方の世界でも私の声を聞いた者は皆同じ反応を示していた。だから今更気に病むことも傷付くこともない」
イグリットの諦めた響きを持った声に、旬は今更ながら自分が彼に対して取った行動を後悔した。自分がイグリットの声に反応していても何も言ってこない彼に勝手に気付かれていないと思い込んでいた。けれども、それはイグリットがただ諦めていただけ。何度も経験したことに諦観の念を持っていただけに過ぎなかったのだ。
「だから、この際お前も不快だと思えば気にせず言えばいい。上辺だけで付き合う仲でもないだろう。まあ、言われたところで一蹴するだけだが」
重くなりそうになった空気を敢えて斜に構えた言い方で、暗くならないようにするイグリットに、しかしベリオンは大真面目な顔で反論する。
「お前の声を不快だなどと思ったことはない」
「無理をするな」
「それこそ何故お前と私の仲で無理をする必要がある?私はお前の声は好きだ。兵を指揮する時の厳しくも凛とした声も好きだが、私の言葉に困って狼狽える声も気に入っている」
「馬鹿か」
真剣な顔をして讃するベリオンに呆れたような口調でイグリットは悪態を吐くが、言葉とは裏腹にベリオンに向ける目は柔らかい。
イグリットのそんな表情を初めて見た旬は、胸を押さえていた手がシャツの布地をきつく握り締めていくのに気付かない。
「はは、冗談だ。だがお前の声を不快に思ったことは一度もないのは本当だ。それは疑ってくれるな」
イグリットの肩を拳で叩くベリオンに、頷くことでその言葉を受け入れる。そんな二人の遣り取りが胸が苦しくなる程羨ましい。主と従の関係でしかない自分たちにはない、彼らだけの世界であり、絆。
さっきまでイグリットに自分の気持ちを伝えたいと思っていた感情が急に萎んでしまう。伝えたところで主従の理を重んじるイグリットには迷惑な感情でしかない。それに伝えても、あの二人の絆よりも強く結ぶことができるとは到底思えない。それならば、自分の気持ちに蓋をする。大切だからこそ自分の感情で迷惑をかけたくなかった。
だけど、誤解だけは解かなければいけないから、それだけはイグリットに伝えて謝罪をしたい。
「で、それでも主君へ言葉を伝えないつもりなのか?」
話をふりだしに戻したベリオンが今一度問い掛ける。今までの会話を聞いていれば、直ぐに肯首すると思われるそれに、しかし言葉に何か含むものを察したのか、イグリットは今度は応えを躊躇うように唇を閉ざす。
「いいのか?お前の気持ちを伝えないまま、いつかは使命を全うし、闇の一部となってしまう日が訪れても。お前は後悔しないのか」
ベリオンがそれでいいのかと念を押す。旬には彼らが一体何を言っているのか分からなかったが、何か重大なことを言おうとしていることは彼らの真剣な雰囲気から知れる。それこそ、今聞いておかなければこの先イグリットが自分の下から去ってしまいそうな、そんな不穏なものを感じた。
一呼吸置いた後、イグリットが静かに告げる。
「主君を護る為に私はあの場所から甦った。誰よりもお側で、誰よりも最後まで主君を護り抜くことが私の全てだ。だからこの想いを告げることで、それが叶わなくなるのであれば永遠に封印できる。それこそ、主君が私の声を不快だと遠ざけるのであれば、この声さえも潰すことに躊躇いはない」
しんと静まり返った広間にイグリットの声が響く。決意に満たされた彼の声は揺るぎなく、全てを受け入れ甘んじようとする。
「お前は主君に特別な想いを抱いているのだろう。それを一度も告げることなく封印するというのか」
「主従には関係のないものだ。歓迎もされない。なくしたところで何処にも支障も出ない、その辺の塵芥と同じだ」
そこまで聞いて、旬はもう聞いていられなくなった。
「駄目だ」
身を隠していた柱から飛び出した旬は、二人の前へと姿を現す。盗み聞きしてしまっていたことへの罪悪感はあったが、それよりも今は二人が告げた言葉の方が重要だった。
「声をなくすなんて許さない」
柱の影から不意に現れた自分たちの主君の登場に、二人は慌てて片膝を突き傅こうとしたが、それよりも早く旬がイグリットの前に立ち、睨み付けるようにその顔をきつく見据える。
何故急に旬が現れ、ベリオンに告げた言葉を否定するのか分からず動揺しているイグリットだったが、きつく睨んでくる旬のその瞳の奥に悲痛な色を見てしまったのか、益々不可解だというように狼狽していた。こんな表情の旬は見たことがないというように。
「主く──、」
思わず旬を呼ぼうとして声を出すイグリットだったが、寸でのところで慌てて唇を閉ざす。その仕草に、先の彼ら二人の会話にあった、言葉を声として告げないと言っていたことが事実なんだと目の前に突き付けられ旬の目元が歪む。
今にも泣き出しそうな旬の目の色を見てしまったイグリットだったが、己が主君に触れるわけにも、どうすればいいのかも分からず、結局旬の前に跪き次に告げられるであろう主からの言葉を神妙な面持ちで待つしかなかった。
「不快だったから避けていたわけじゃない……」
イグリットが傅くことで自然と下へと向く目線を逸らすことなく相手へと注ぐ。イグリットもまた、旬の言葉を聞き漏らさないようにと、常ならば頭を垂れて主の言葉を受けていたのを視線を上げ、旬の視線を正面から受け止める。
互いの視線が交錯する。
「ランクが上がれば話すことができると分かった時からずっとお前の…イグリットの声を聞きたいと思っていたんだ」
イグリットが傅いている為、顔を下へ向けると、さらりと額を流れる黒髪が旬の目元に陰影を付けていく。それが今の焦燥と沈鬱とした旬の気持ちを表しているようで、思わず手を差し述べたくなる。しかし、イグリットにそんな僭越を犯すことができる筈もなく、拳を握ることで衝動を耐えるほかなかった。
「闇の中で影の君主となったあの日、システムが告げてきた言葉に心が震えた。漸くお前の声を聞くことが叶うんだと」
‘軍団長級兵士イグリットの力が復旧しました’
システムのその声が力の解放だけを指しているわけではないと、闇の中から地上へと戻った際に聞こえたイグリットの声で分かった。
「そして初めて聞いたお前の声に心臓が震えたんだ。これがイグリットの本当の声なんだと」
極寒の君主を前にしても堂々とした態度で揺るぎのない毅然とした声が耳を震わせ、戦闘中だというのにその声に聞き惚れてしまう。それなのに「主君」と自分を呼ぶ声は、一転してふわりとした真綿に包まれたような柔らかな声で呼んでくるから、その落差に脳が痺れたように甘く蕩けてしまう。
「でも、お前が俺を呼ぶ度に身体が反応してしまうんだ。だけどそれは不快だからじゃない。お前の声がどうしようもなく俺の心を揺さぶるんだ。自惚れたくないのに、お前から向けられる想いも全部その声に込められている気がして……立っていられなくなる……」
声を聞く度に身体が反応して感じてしまうなんて、イグリットからすれば気持ちの良いものではないだろう。
そう思っていたのに、見つめる先の彼の瞳が大きく見開かれ、その瞳の奥に隠された熱を目に留めてしまえば、旬の方が逆に狼狽えてしまう。何故イグリットがそんな表情を見せるのか、期待してしまいそうになる心を懸命に諌める。
「お前の声を聞く度にそうなってしまうから、段々自分自身が怖くなって、だからその原因となるお前を遠ざけるようにしてしまったんだ。身体が感じてしまうなんて、お前が悪いわけじゃないのに自分よがりな態度でお前を傷付けてしまった」
ベリオンと話していた時のイグリットの諦めを含んだ声が耳を離れない。自分は何てことをしてしまったんだと後悔した。イグリットを避けるんじゃなくて恥ずかしくてもちゃんと理由を話すべきだったと自責の念に駆られる。
「本当にごめん。謝って済む問題じゃないかもしれないけど、でもお願いだから喉を潰すなんて言わないでくれ」
もう二度とイグリットの声が聞けなくなる方がずっとずっと心が苦しい。
望んでいた声。幾度“もし”を夢想したことか。それなのに自分の不用意な言動でイグリットを悲しませただけでなく、言葉まで奪ってしまうところだった。
「イグリットが俺の言葉を信じられないって言うなら何度でも言うから。信じてもらえるまで毎日伝える」
見下ろすイグリットの顔は旬の言葉を一言も聞き逃さないようにと、怖い程真剣に見つめてくる。今、この瞳には旬だけしか映されていないことにゾクゾクとした歓喜が湧き上がる。けれども傅くイグリットとの距離がもどかしく、旬は自身も膝を折り、イグリットとの距離を縮める。
正面に座り込めば、目線の高さが逆転する。今度はイグリットの顔を見上げて、少し躊躇ったあと伝えたい言葉を唇に乗せた。
「本当はイグリットの声をもっと聞きたい。俺はお前の、その低く落ち着いた声が好きだ。その声で主君と呼ばれたら、お前にとって俺は特別な存在だと言われているみたいで、胸がドキドキして嬉しくて感情が溢れて出しそうになる。だから、もっと声を聞かせてほしい」
ここまで言っても、まだ旬の言葉を信じられずイグリットは声を出してくれないかもしれない。きっと声を出しても、また旬が肩を震わせ己から距離を取り離れていくことを恐れているのかもしれない。そんなことは、もう絶対にないのに、一度犯してしまった過ちは簡単にイグリットの懸念を払拭させることはできない。
自分が蒔いた種で自業自得ではあったが、想いを込めて告げた言葉でもイグリットの心を動かせないのかと、寂寥感に上げていた顔も徐々に下がっていく。
項垂れるようにイグリットから視線を外し、足下を歪んだ目元で見つめていると、空気の流れる気配がする。
「主君」
それに続き、鼓膜を震わす艶やかな深い低音が頭上から降りてきて、歪んでいた瞳が大きく開く。聞き間違いかもしれないと、一気に高鳴る心臓を落ち着かせようとして、再び頭上から声が落ちてくる。
「主君」
今度は聞き間違いなんかではないと確信して、しかしイグリットがどんな顔をしているのか見るのが怖くて、恐る恐る視線を上げてしまう。
項垂れていた頭を上げ、視線をその先の瞳へと合わせれば、先程よりももっと熱のある視線とかち合う。
「主君」
瞳を合わせながら更に呼ばれてしまえば、その視線と声で身体が中から溶け出しそうになる。
「イグリット…」
旬の呼び返す声も甘く溶ける。
「本当に私の声は主君を不快にさせてはいませんか?」
「不快なんかじゃない。だってこんなにも心臓が煩く鳴っているのに嫌なわけないじゃないか」
不安がるイグリットの手を取り、自分の方へと引き寄せる。胸の上に手を当てれば、規則正しくはあるが早鐘を打ったように鼓動する心音が伝わってくる。
それはイグリットの手のひらにも伝わったのか、一瞬ホッとしたような表情を見せる。
「主君は先程のベリオンとの会話をどのくらい聞かれてましたか」
それでも慎重に、旬に嫌な思いをさせないようにと囁く声が切なく胸を打つ。
「ごめん、盗み聞きするような真似をして」
「いえ、それは構わないのですが、私の声が周りを不快にさせていたというのは…」
「うん、聞こえた。俺と同じようにイグリットのことを避けたり、拒絶するようなことも言われたって…」
聞かれて気持ちの良いものではない内容に、嫌な顔をされると思っていた旬だったが、不思議とイグリットは気にした風でもなく、それよりも関心がないようにも見えた。
「確かに初めの内は何故そんなことを言われるのか分からなかったのですが、その内誰もが私の声を聞く度に眉を顰めるので、そういうものだと思うようにしました」
「悲しくはなかったのか?」
周りから冷たい言葉を投げられても、淡々と受け入れていたと言うイグリットに、旬の方が落ち着いていられなくなる。
「悲しいとは思ったことはないですが、任務に支障が出ることもあった時は困りました。でもそれは命令でどうにかなりましたから、特段不便に感じたことはありませんでした」
自分よりも上位から難癖を付けられてくるのは対処しようもなかったが、同じ階級の者や部下であれば、支障が出るような時は命令を速やかに遂行するように指揮していたとイグリットは言う。
「誰に拒まれてもただ諦念しか感じなかったので、自分は不感症なのかと思ったこともありました。けれど、それは大きな誤りでした」
じっと旬の瞳を見つめ、自分の心を吐露してくるイグリットから目を逸らすことができない。
二人の手のひらは未だ旬の胸の上に置かれたまま。奏でる鼓動もそのままに伝えている。
「私の声に反応される主君のお姿を見てしまった時、今まで誰から何を言われても動かなかった感情が動いたのです」
ドクン、と一つ大きく鼓動が鳴る。
イグリットの言葉に自分が今まで彼に取っていた行動を思い出し、咄嗟に胸の上で掴んでいた手に力が籠る。しかし、それを宥めるようにイグリットの手のひらが翻り、旬の手をそっと取り上げ優しく包み込んでくる。
「主君が私の声に反応される度に自分の心も揺れ動き、それが切なく身を焦がしていくと同時に、主君を煩わせるこの声を初めて嫌悪したのです。大切な主君を不快にさせるものは自分自身でさえも許せなかったのです」
だから永遠に声をなくしてしまい、喉を潰すことに躊躇いは全くなかったと、イグリットは旬に告げる。
イグリットのその言葉に胸が締め付けられる。そこまで自分はイグリットに対して絶対的な主君であっただろうか。そこまでする価値が自分にはあるのだろうか。そしてイグリットがそこまでする理由は何なのか。それが知りたくて堪らなくなる。
旬の為ならば自分を傷つけることも厭わないイグリットの強い想いに恐ろしくも、しかしそれとは別の感情が漏れ出してしまいそうになる。告げないと思った心が彼に向かって溢れ出す。
「俺がお前の主君だからそう思ったのか?」
「主君は私の全てです。貴方様に拒まれる程恐ろしいものはありません」
それじゃあ、と旬は言葉を続ける。
「前の…お前の主だったアスボーンにも同じように思った…?」
主君として絶対的な存在だと言うのであれば、もしアスボーンがイグリットの声を拒んでいたら、今と同じように躊躇いなく声をなくすのか。
主君であるから。
イグリットの行動が旬が主君であるが為のものだと思いたくない。今まで旬に言った言葉を旬と出会う前、あの時代の主従関係であったアスボーンにも同じように言うのだろうかと思えば、ズキズキと胸が軋んでしまう。
これは独占欲だということは、旬にも分かっていた。だから、イグリットが旬に拒絶されたくないと言った言葉が主である旬に言ったものなのか、旬という個に言ったものなのか、それが知りたくて仕方がない。
本当ならこんなこと聞くべきではないと、頭では分かっていることを聞いてしまう。誰かと自分を比べるなんて今まで気にしたこともなかったのに。
「あの方と主君は違います。あの方は誰よりも高みにおられる方でした。我々影を必要として下さっていましたが、常に孤高であり続けられ、そこには我々とも、他の大勢の者との間にも厚い壁が幾重にも重なり隔てられていたように感じてました」
旬の心を知ってから知らずか、イグリットは旬とアスボーンは違うとはっきりと明言する。
「私はただ、あの方に付き従うだけでした。そこに個の感情を挟んだことは一度としてありませんでした」
揺るぎない言葉がそれを真実だと告げてくる。
アスボーンに向けてイグリットからの感情の流れがなかったと聞かされ、あからさまに安堵する心を認めた旬だったが、それならばと思う。
「イグリットは俺に拒絶されると怖いのか?」
「はい」
「他にそういう奴はいないのか?」
「おりません。主君にだけ感情が揺れ動かされるのです」
その言葉にこの先の続きを聞いてもいいのかと心が揺れる。旬にだけ感情が揺さぶられる理由。それは旬が望んでいる答えと同じものなのか、聞いてもいいものかと心が惑う。
「理由を聞きたいと言ったらお前は答えてくれるか?」
こんな聞き方は狡いのかもしれない。だけど、怖いのだ。イグリットの口から二人の関係性にはっきりとした名前を付けられるのが。
旬とイグリットの関係は主と従でしかない。それは紛れもない事実だ。しかもイグリットには肉体がない。
人と霊体。
主と従。
これだけでもう既に自分たちの間には大きな壁に隔てられている。そこから一歩前に進もうとするのならば、どちらもが動くしかなかった。
旬の感情はもう溢れ出る寸前だった。だけど最後の一歩が踏み出せない。だから、もしイグリットが呼び水となってくれたなら、今度こそ隠さず彼への想いを告げようと思う。
「何故俺だけに心が揺れ動く?主であったアスボーンでは芽生えなかった感情が俺には表れた理由は?」
「……それはご命令ですか…」
「命令なんかじゃない、お願いだ。イグリットのその感情が俺と同じものでればと願う俺の願望だ」
命令と言われ咄嗟に否定する。言葉を無理矢理聞きたいわけじゃない。だけど本音を教えてほしい。今までの言葉で自分がイグリットの中で誰よりも特別なんだとは何となく感じることはできた。でももっと確かな形が欲しい。言葉ではっきりと言われるのが怖いと思っていたけれど、やっぱりイグリットからちゃんと言葉にした想いが欲しかった。
旬の言葉に躊躇いを見せるイグリット。今まで感情らしい感情を持ったことがないと言っていた。感情を表したことがないのであれば、それを言葉にして表すことに躊躇いがあるのかもしれない。若しくは不安が。
「どんな言葉でもいい。今、お前のそこに浮かんでいるものを俺に教えてほしい」
握られている指とは反対側の指で、人であれば心臓のある場所に触れながら言う。触れても鼓動があるわけではないけれど、イグリットが緊張していることは感じられる。固唾を飲んで注視していれば、漸く腹を括ったのか、はたまた己の感情を表す言葉を見付けることができたのか、イグリットは改めて旬を見つめると静かにその唇を開き語り出していく。
「一生告げることのない想いとして、この身の奥深くへと封印しておりました」
そう一言告げたあと、一呼吸置いて続けられた言葉。
「どうしようもなく貴方様に惹かれております」
一瞬、呼吸が止まった。その後に一層胸の鼓動が速くなる。イグリットの言葉の続きを待つのがもどかしい。けれど、一言も告げられる言葉を漏らしたくはない。
「主君に対してこのような感情を持つことがどんなに身の程を弁えず愚かなことなのか分かっております。己の主君に抱くには浅ましい想い。私は主君により喚び出された召喚獣にすぎず、忠誠のみを誓わなければならない身。想うことさえも表に出してはならない感情です。ですから、幾度となく心の奥底へと封印しようとしました。しかし、その度にそれよりももっと強い想いが込み上げ、感情を押し隠せずにいました」
幸いにも力を制御され声を封じられていたイグリットには旬に自分の想いを告げる手段がなかった。だから旬に見せる態度は忠誠心の延長と誤魔化すこともできた。
「そんな中、力が解放され、それと同時に封じられていた声も音に出すことができるようになり、ふとした瞬間、気を抜けば貴方様を慕う気持ちを感情のままに声に出してしまいそうになる己を持て余してました」
静かに語られていく言葉が旬の心の中へと沁み入ってくる。
「主君に気付かれてはならないと必死に隠していた想いでした。そんな折に主君が私を遠ざけられ、漸くこの感情に終止符を打つ決心ができたと思いました」
終止符と言ったイグリットの言葉に心臓がぎくりとしたが、それを宥めるように旬の手を握る手の力が強くなる。大丈夫と言われたような気がして、心が落ち着いていく。
「寂しさはありましたが、それよりも己の浅ましい想いを主君に知られなくてすむことへの安堵の方が強かったです」
思いの全てを告白するイグリットの言葉が自分と重なり胸が痛くなると同時に、互いに同じ想いを持っていたことに不謹慎だと思いつつも嬉しくて堪らなかった。
「けれども主君……貴方様が隠さなくても良いと、己の中に巣食うこの想いを曝け出すことをお許し下さいました」
声を張り上げているわけでもなく静かに、得てすれば淡々と低く響く声音であったが、それ故にイグリットの真理に直接触れていると分かる。
「本当に……本当に言葉にすることをお許し下さるのですか……」
今も尚、一番奥深くへと封じていた想いを解き放すことに躊躇するイグリットに、彼の旬への想いの根の深さを改めてひしひしと感じた。
「お前を避けていた俺がこんなことを言うのは、虫が良過ぎるのかもしれないけど聞かせてほしい。……お前の本当の想いをお前のその声で聞かせて……」
その言葉でイグリットは決心を付けたのか、一度瞼を閉じ、胸に置かれた旬の手の上に握っていた方の手も重ねる。そして一呼吸の後、再び開いた瞳で旬の目を真っ直ぐに見つめ、封じていた言葉を声にして告げた。
「主君を……貴方様をお慕い申しております。忠誠を誓うに飽き足らず、このような想いを己の主君に抱いてしまった私は、もう貴方様への忠義者と言えません。けれども、お許し頂けるのであれば、どうかこれからも貴方様の身を私に護らせて頂きたい…。他の者が私よりも近く、私よりも速く貴方様を護る権限をお与えにならないでほしい…」
言葉には魂が宿ると云う。イグリットの言葉は正にその魂の全てを込められ、ダイレクトに旬の心を撃ち抜き、とうとう我慢ができなくなった旬はそのまま目の前のイグリットの胸へと飛び込んだ。
「主君っ!?…っ」
「俺もっ、俺もイグリットが好き。ずっと好きだった。だけどそれを俺が伝えてしまったら、お前は俺の為に尽くそうとしてくれるのが分かっていたから言えなかった。君主としての俺じゃなくて水篠旬としての俺を好きになってほしかったから」
勢いよく飛び込んでいったにもかかわらず、イグリットは揺らぐことなく旬の身体をしっかりと抱き留める。腰に肩にと大きな手のひらが身体に痛い程食い込むが、それがイグリットの想いの強さを現しているようで、旬も自分の気持ちを隠すことなく声に出していた。出してしまえば後は湯水のように感情が溢れ出し、イグリットへの想いを止めることができなくなる。言葉を止めることができない。
「それなのにイグリットを避けるような態度を取ってしまってごめん。お前の声を聞いてしまったら隠していた気持ちを言ってしまいそうになって怖かったんだ。だけどそんなことをしている内にイグリットが俺から離れてしまい、ベリオンとの絆が俺よりも強くなっていくことがもっと怖くなった。いや…二人の絆の深さに俺が入り込む隙なんてないんだって思い知らされ絶望した」
普段の二人の気の置けない遣り取りだけでなく、戦闘時の呼吸の合わせ方や互いの剣の癖を知り尽くした動きに今なら素直に言える。自分は二人の仲に嫉妬していたんだと。イグリットの特別は自分だけだと思っていた。それが全くそうではなかったと見せ付けられた時の己の身に掬った感情はどす黒い嫉妬心だった。
嫉妬心、独占欲、そして─────寂寥感。
「?何故そこにベリオンの名が出てくるのか分かりませんが、主君が仰るような仲ではありません。あれとはただの腐れ縁です」
「それが羨ましいと思ってしまったんだ。俺にはあんな風に言い合える人がいないから」
学生の頃は確かに同じ学び舎で学んだ仲間たちと気兼ねなく言葉を交わし、行動を共することもあった。けれども、父が行方不明になり、母も倒れてからはそんな余裕は一切なくなった。今はもうあの時のような苦労はなくなったけれど、それでもきっと彼らと再会したとしても以前のような気安さで話をができるとは思えなかった。だから、どれだけの時を離れていたのかは分からないが、イグリットとベリオンが再会しても尚、変わらず何の気負いもなく言葉を交わしていることに驚き、羨望したのだった。
「それにベリオンはイグリットが好きだと言っていた」
「っ、それは声のことでしょう。しかもあれは性質の悪い冗談です。あれは昔から往々にして趣味の悪い戯言を言ってきては皆を困らせるのです。主君が気に病むようなことは一切ありません」
心底迷惑しているといった声音と雰囲気にわだかまっていた心が解けていくのが分かり、不覚にも声を出して笑ってしまう。
「ふはっ、アイツあんな澄ました顔をしてるくせに、結構問題児だったりするんだ」
くすくすと笑う旬をホッとした顔をしたイグリットが見下ろしてくる。それに気付き、笑んだ口元をそのままで見つめれば、抱き締められていた手で改めて抱き締め直される。包みこむように愛しむように。
「俺、イグリットのこと好きでいてもいいんだよ
な。主君だからじゃない特別だと思っていいんだよな」
「はい、貴方様は私の全てです。この想いを受け入れて下さいましたことに、感嘆たる思いと共に永遠の誓いを貴方様へ捧げます」
誓いと紡がれた言葉を自然と受け入れることができる。この誓いは水篠旬へと向けられた言葉だから。
永遠を捧げると言ってくる声に歓喜で身体が心が震えた。
イグリットへの想いが受け入れてもらえるなんて永遠にないと思っていたから、幸せ過ぎて思わず涙が滲む。その涙を指の背で拭おうとして、それを見取めたイグリットが唇を寄せて柔らかく目尻へと触れてくる。そこから瞼に頬にと羽毛のように柔らかなキスが降りてくる。それを甘受した後、そのまま今一度視線が合えば、どちらともなく互いに唇を寄せ、神聖な気持ちのまま恭しく口付けを交わした。
ほんの数秒。ただ唇を触れ合わせるだけのおままごとのような無垢な口付け。けれども旬にはこの上ない特別な時間でもあった。
名残惜しく思いつつも触れた時と同じようにそっと唇を離すと、代わりにと背中に手のひらが添えられ胸に抱き寄せられる。旬とイグリットとの背の差では見上げたままの状態で胸に抱かれてしまうと背筋が反り返り、足は殆ど宙に浮いてしまうくらいの爪先立ちになってしまう。不安定な身体を支えたくてイグリットへと腕を回せば、そのまま抱き上げられてしまう。
「御身に触れる僭越をお許し下さい」
「今まで散々触ってたし、キスまでしちゃったのに今更そんなこと言う?」
律儀というか生真面目というか、折角想いを交わした仲だというのに、そんなことを聞いてくるイグリットに鼻白んでしまう。
抱き上げられたことで目線が近くはなったが、見上げる位置のまま、頬を膨らませ拗ねたように唇を尖らせた顔をイグリットに向ければ、困った顔を見せてくる。
「貴方様は私のお慕いする方であり、主君でありますから、身に付いてしまった癖と言いますか…条件反射なのです…」
影の契約で旬とイグリットの間には絶対的な主従の楔が結ばれている。だから、いくら想いを告げて心を通わせたとしても、主従であることをなくすことはできない。その契りがなくなればイグリットは旬の影として存在することができなくなってしまう。
「仕方がないな」
イグリットを形成する核に刻まれた、従としての根元がそうさせてしまっているのであれば、それは努力でどうにかできるものではない。だから、そこに関してはやむを得ないと諦める。
「でも、その代わりもっと声を聞かせて。イグリットのこと避けていた時の分まで聞きたい」
自分が素直になれなかったが為に、ずっと願っていたイグリットの声を自ら封じてしまっていた。本当に馬鹿なことをしたと、旬は自分の浅慮な考えを悔やむ。イグリットにも辛い思いをさせてしまった。
だからその時間を取り戻すくらい、イグリットと言葉を交わしたい。本当はずっと聞きたいことや聞いてほしいことがたくさんあったのだ。それにずっと聞いていれば自ずとイグリットの声にも慣れてくるかもしれないから。
旬がそんなことを考えていれば、心を読んだかのようなタイミングでイグリットが旬の耳元で囁いてくる。
「主君」
さっきまで気にならなかった声が身体の奥に響く。
「お慕いしております」
耳朶の中へと吹き込まれた言葉は旬を容易に蕩けさせてしまう。今が抱き上げられた状態で良かった。そうでなければ何の心構えもなくこんな声を間近で聞かされてしまえば一瞬で腰が砕けてしまう。
「っ!それ、わざとじゃないよな?!」
あまりにもタイミングが良過ぎて、意図して言われたのかと疑ってみたが、イグリットは旬の問いの意味を計りかねている様子だった。そうなれば、改めて説明するわけにもいかず、旬はうぐうぐと口籠もりながら熱を持った頬を隠すようにイグリットの首筋に顔を埋もらせる。
「主君?」
不安気にイグリットが呼びかけてくる。
「ん…。違う、お前の声が良過ぎて身体に力が入んなくなっただけ」
まだ自分の声に自信がないのか、旬の挙動一つ一つに心配そうな気配を見せてくる。それが何だか可愛く思えてしまい、腕を回して更に密着する。
「さっきの…」
流石にこの至近距離でイグリットの瞳を見ながら話すのは少し気恥ずかしいから、顔を上げながらも目線を少しずらしたままで言葉を続ける。
「“お慕い”なんて堅苦しい言い方じゃなくて…」
自分はそんな情緒のある人間じゃないから、遠回しな言い方じゃなく、もっと直接的に言ってほしい。その方が実感が湧くから。
きゅっと首に回した腕に少しだけ力を込めて、抱き上げられたことで近くになったイグリットの耳朶の辺りへ内緒話を囁くようにそっと言葉を吹き込む。
伝えてしまった言葉に旬の胸は再びドキドキと鼓動が速くなる。恥ずかしくて目元を朱く染めていれば、イグリットに視線を合わせるように下から見つめられる。そのまま抱き上げられていた身体を軽々とイグリットの左腕の上に座らされるように抱き直されたと思えば、頤にそっと指を添えられる。そのまま軽く唇を触れ合わされた後、旬がイグリットへと言った願い事の応えを耳元で囁かれる。
「っ、それ、お願いした言葉と違う…っ」
耳に吹き込まれた言葉は、旬が伝えたものと違う。それよりももっと旬の胸に強烈に打ち響く言葉。
「“好き”という言詞よりも私の想いは此方の方に近しいので……ご迷惑でしたか……?」
イグリットの言葉に盛大に狼狽える旬を眉があればハの字にした困り顔をしているであろう瞳で見つめてくる。
「迷…惑なんかじゃない…っ」
寧ろイグリットにそこまで想われていたことへの歓喜の方が強い。
もっと言ってほしくて、けれどさっきのように耳元で甘やかに、低く響くあの声で言われてしまうと、今度こそ心も身体もどうにかなってしまいそうだと思った旬は、イグリットからの言葉を聞きたいと思いつつも我慢する。声だけで腰砕けになってしまうなんて恥ずかし過ぎるから。それなのにイグリットは旬が嫌がっていないと分かると、今まで伝えられなかった分を取り戻すように、何度も旬の耳朶へと言葉を吹き込んでくる。
柔らかに、胸の辺りが切なくなるくらい真っ直ぐに旬だけを束縛する甘い言詞。
「も…っ、イグリットばっかり狡いっ…」
とうとう根を上げてしまった旬は、陶酔する脳の痺れに涙を滲ませながらイグリットを詰る。
「そう言われましても。まだまだこのくらいでは言い足りません」
「ま、まだ?!」
「一日中でも貴方様への想いをお伝えするに足りぬくらいです」
その言葉に今度こそ旬の顔が真っ赤に染まり、茹だったようになる。それでも止めてほしいとは思わない。
思わないけど───、
「……ゆっくりで、お願い……」
嬉しさと恥ずかしさ、それに少しの悔しさを滲ませた旬の顔。その表情に満たされたイグリットは、もう一度旬へと囁きかけると、再び恭しく口付けを落としていったのだった。
ここに来た時は未だ夕闇に染まっていた広間だったが、今はもう宵闇の中。
敷き詰められた大広間の大理石に窓から差し込む月明かりが重なる二人の足元へと静かに降り注いでいた。
旬がイグリットへと願った言詞。
それは二人だけが知ればいい睦言─────。
おまけ
「そう言えば、ベリオンは?」
イグリットのことしか頭になかった旬は、いつの間にかいなくなっているベリオンに今更ながらに気が付く。
「ベリオンなら主君が私に話しかけられた直ぐくらいに、ここから退出していきましたが」
「気付かなかった…」
出て行った気配すら分からなかった自分の余裕のなさに旬は恥ずかしくなる。追い出すような形となったことへ、あとでベリオンには謝っておこうと思っていると、旬の考えが分かるのかイグリットが何だか嫌そうな口調で話を続ける。
「謝られる必要はございませんよ。出て行く際のあれの顔は今回のこの状況を面白がっているようにしか見えませんでしたから」
横目で見たベリオンの薄ら笑いを思い出したイグリットは苦虫を潰したように眉間に皺を寄せ口元を歪める。
「…そう?」
旬は納得したようなしてないような曖昧な返事を返すに留めた。
但し、イグリットの表情を見た旬が、やっぱりこの二人の関係に少しの羨望と嫉妬を覚えたことはここだけの話。
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イグリットが喋った記念SS。
記念なのにすれ違い両片想いという…。しかもベリオンが二人の間に入っちゃってぐるぐるもだもだしちゃってます(いや、ベリオンは別にわざとじゃないんだと思いますが)
もだもだはいつもと変わらないですね。
小説の旬が事あるごとにイグリットの声に反応するから、めちゃくちゃいい声なんだと思ってます。
もぉ!!老若男女、君主も支配者も誰もが腰砕けになっちゃうくらいの超絶イケボ!
嫉妬する旬も書けたし、久し振りの戦闘シーンも書けたしで、自分的には楽しかったです。
初出:2022.01.08