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四月の陽気

 春の陽気が影の世界にも射し込む程の麗かなとある日。
 外の世界から何やらきゃいきゃいといつもと違う聞き慣れない声が先程から聞こえてくる。
 最近は大きな出来事もなく、のんびりとした日々を過ごしていた影たちは、少しだけ暇を持て余していた。そんな時に聞こえてきた正体不明のその声に、彼らは興味津々となる。
 こっそり覗いてみようか、それともきちんと主にお伺いを立てた方がいいのか、喧々囂々あれこれ論議していたけれど、主君命のベルによって「先ずは王に外に出てもいいかの許可を取るべき! 拙者が聞こうぞ!」と相成って、勢い込んで旬に声を掛けていった。
「王よ。先程から何やら楽しげな声が聞こえてくるのですが、そちらでは何が行われているのでしょうか?」
 畏まりつつ興味を抑えられない様子で旬に声を掛けるベルに旬は少し考えたあと、気になるのなら出てくればいいと彼らに伝える。
「ただし全員は駄目だ。部屋がぎゅうぎゅうになるし、ビックリして泣くかもしれないから」
 何が? と影たちは頭に疑問が浮かんだが、外の世界に出れば正体が分かる筈だから、そこは聞かずに誰が外に出るかを話し合う。というよりも手っ取り早くクジで決める。
 勝者は五人。
 ベル、タンク、歩兵A、歩兵B、魔法兵C。
 当選漏れしてしまった者たちは残念に思いつつも、影の中から彼らが送ってくる映像で勝ち組たちを見物する。
 クジで勝った五人は戦闘時以外の普段の主と遣り取りができることにも拍車がかかり、嬉しさがはち切れんばかりに外へと勇み足で出ていった。
 そして、そこで見た光景は────。

 五人が出てきた場所は、とある部屋の一画。見覚えのあるその部屋は旬のマンションのリビングだった。
 ぐるりと四方を見渡せば、ソファに座る旬がいる。いつもであれば旬の母や葵がいることも多いが、今日は珍しく旬一人だけだった。それなのにさっきは旬以外の声が聞こえていたような気がした五人が不思議に思って首を傾げていたら、先と同じような声が聞こえてくる。何処から聞こえてくるのかとキョロキョロしている影たちを見た旬は笑いを堪えきれないとクスクス笑い出す。
「お前たちが探しているのはこの子か?」
 そう言って腕に抱えていたタオルケットで包まれたそれを彼らに見えるように差し出す。五人が恐る恐る、影の中でも興味津々の影たちが見守る中、覗き込んだそこにいたのは愛らしい瞳をぱちぱちと瞬いている、赤ん坊と呼べるくらいの小さな子供が旬の腕の中にちょこんと座っていた。
『お、王よ、この赤子は一体?』
 赤ん坊など間近で見たことのないベルが驚いたように旬に問いかける。
 赤ん坊特有の柔らかな髪の色は旬と同じ黒髪をしている。瞳の色も同じく黒く、ぱっちりとした二重に、まだ日焼けをしたことのない肌は色が薄く、血色の良い頬が愛らしい赤味を帯びている。乳歯が生えかけているのか、唇は涎で濡れてぷっくりとした形が更に強調されている。
「ん? 俺の子」
 その唇を持っているオーガニックタオルで拭いていた旬が何でもない風にベルの問いに答える。しかし、聞かされた方は雷に打たれたような衝撃を受け、皆が一瞬でフリーズする。それは影の中でも同じく、外まで聞こえてくることはないが、どよめきが闇の中に広がる。
『王……の子ですか……。……初めてお目に掛かります……。して、このようなことをお聞きするのは大変恐縮ではございますが、もし差し支えがなければ、お相手を教えて頂けますでしょうか。王の伴侶ともなりましたら、我らもその方に敬意を示さなければなりません』
 旬の子だと聞かされ驚きで硬直してしまった彼らだが、慌てて旬の前に跪き拝礼する。勿論それは影の中も同様のこと。
 五人が一斉に目の前で傅くのを少し驚いた表情を見せた旬だったが、その後にっこりと魅惑的な笑みを見せて相手の名前を彼らに伝える。
「イグリット」
 瞬間、何処からか稲光と共に轟音が鳴り響く。
「え? 何? 雨降ってきた? 今日はずっと晴れだって言ってたのに……あれ?」
 雷鳴に驚いて咄嗟に窓の外を見る旬だったが、そこには変わらず春の明るい日差しが入り込んできていて、雨の気配は全く感じない。不思議に思いつつ窓の外に移していた視線を影たちの方へと戻すと、呆然として滂沱の涙を流しているベルと背後に大輪の花を背負ったかのような感極まっている歩兵と魔法兵がキラキラしい視線を旬に寄越していた。
『お、王……、そんな……イグリット……どうし……ぅっ……』
 旬に言葉を掛けようにも、何をどう伝えればいいのか分からず、ベルからは呻き声しか出てこない。それでもベルの言いたいことが分かった旬は恥ずかしそうに頬を染めながら、続きを話し出す。
「影になったばかりのベルには言っていなかったかもしれないが、俺とイグリットは実は身も心も繋がった人で言う夫婦な関係なんだ。永遠の愛を誓ってイグリットと結ばれて、彼に注がれた魔力によって子どもを産める身体になったんだ」
 更に雷鳴は鳴り続ける。何がどうなってさっきから雷が落ちているのか分からないが、この音で赤ん坊が怖がっていないかと旬は視線を下げてみるが、赤ん坊は気にした風でもなく、目の前にいるタンクを興味津々でじっと見つめていた。自然と赤ん坊を見る旬の目が柔らかく緩み、傍から見ても慈しんでいることが目に見えて分かる。
 一方、旬の言葉に黄色い声を上げているだろう歩兵ABと魔法兵Cは嬉しそうにキャッキャしている。タンクはよく分かっていないのかキョトンとした顔で赤ん坊を繁々と見ていた。
『魔力を注ぐとは……王の体に他者の魔力が流れると子を成してしまうということでしょうか……』
 ここにも一人、旬の言葉の意味を把握しかねている者がいる。
 意味が分からないと頭に大量のハテナマークを付けているベルに、旬は一瞬、人の悪い笑みを浮かべる。
「誰でもいいわけじゃないし、魔力を取り込むのにも特別な行為が必要だから」
『なんと! 特別な行為とは!? それは拙者にも可能なことでござろうか!』
 興奮のあまり可笑しな言葉遣いになったベルに苦笑を洩らす。相変わらず時代劇をこっそり観ているのは変わらないらしい。
 そんなベルに呆れつつも問いに答えていく。
「ベルとは無理だな。これはイグリットだけができることだから」
 幸せそうにはにかむ旬にますます気になってしまうベル。言葉にならない声を発しながらも、その特別な行為が何か知りたくて旬に更に詰め寄る。
『イグリットだけでござるか! 拙者では無理だと申されますれば、どうか! その秘なる行為の方法だけでも教えて頂きとうござりまする!』
 勢い込んで旬に詰め寄るものだから、咄嗟に身体を避けてベルを押し退ける。勢い込んで迫って来られたら赤ん坊が驚いてしまう。
 ペシリとベルの頭を叩き、落ち着かせる。
「ベルは赤ちゃんできる方法知らないのか?」
 旬に嗜められて、その場に自主的に正座をするベル。大きな体がしょぼくれたように小さく縮められる。
『蟻の交尾なら存じまする。夏の蒸し暑い夜に女王蟻と雄蟻が巣を出て交尾をするのでござりますが、そこに愛などというものは存在せず、繁殖本能のみが存在するだけでござります。人は蟻とは違うのでありますか?』
 流石自分の仲間のことについては、知識だけはベルにもあるようだった。しかし、そこは蟻。人とはやはり感情というものがない分、より本能のみで動いているのはさもあらんと言ったところだった。
「蟻とはやっぱり違うな。俺とイグリットは、お互いに気持ちを伝え合って、そしたらイグリットが俺のこと抱き締めてくれて、俺もイグリットを抱き締め返して。で、互いに感情が昂って、そのままイグリットが俺の足に手を掛けて……。身体を寄せ合えば、足の間にイグリットの熱くてふt……んぷっ……っ! なに……っ?! イグリット!?」
 ノリノリでベルにイグリットとのことを話し出そうとした旬の口元に大きな手が塞いでくる。咄嗟のことに驚いた旬は思わず赤ん坊を守るように腕に抱き締め、口を塞いできた相手を見上げると、そこには焦っているのかベルに余計なことを言おうとした旬に立腹しているのか、色んな感情が漏れ出ているイグリットがいた。
 主である旬に断りもなく触れることなんて、常のイグリットであれば有り得ない僭越行為であるが、流石に旬との閨でのあれこれを他人に聞かれて平気な程厚顔ではなく、それに旬の口からあらぬ言葉が出ることも許容できず、その結果口を塞ぐという不敬にもなり得る行為に出てしまったのだった。
『! ……!!』
『“主君ともあろう御方が何という破廉恥なことを仰られる。それにお戯れも程々になさって下さい”とイグリットが言っておりますが、一体全体どう言ったことなのでしょうか? お戯れとは……?』
 旬には聞こえないイグリットの声をベルが代弁してくる。イグリットの雰囲気からして怒っているんだろうなと察していたが、やはり旬の悪ふざけを叱責しているようで肩を竦める。
「悪かったって。ちょっと悪ふざけが過ぎた」
 既に旬の口元からはイグリットの手は退いており、今は旬の目の前で跪き、咎めるように見つめてくるから早々に悪気を認め素直に謝る。そして、この展開に些か付いて来れていないベルと他の影たちに種明かしをする。
「嘘だよ。この子は俺の子じゃない。親戚の子を今日だけ預かっているんだ。さっきまで母さんが見ていたんだけど、買い物に行くからその間見ていてほしいって言われてるだけ」
 真実を聞かされて呆然としている四人(タンクはやっぱりよく分かっていない)に肩を竦める。イグリットはと言えば、やれやれといった感じで旬の言葉に嘆息している。
『う、嘘でございますか』
「うん。今日は年に一回嘘をついてもいい日だから」
 イグリットには怒られたけどね。
 旬がイグリットの方に視線を向けながら言えば、当たり前だと言いたそうな顔を向けられる。
『“ついていい嘘と悪い嘘がございます”と言っております』
「だから悪かったって」
 ベルを介して返された言葉にも素直に謝る。まあ、イグリットが怒っているのは嘘自体というより、その後の旬の言葉になんだろうとも思っている。
『では王が子を成すというのも……』
「男の俺が子どもを産めるわけないから。流石に魔力で身体が変化するなんて話、荒唐無稽だよな。」
 咄嗟についた嘘だったが、冷静に考えれば無理があり過ぎる嘘だ。ベルがよく引っ掛かってくれたと思うが、目の前に初めて見る赤ん坊がいたことで、ベルの思考も混乱していたのだろうと推測することにした。
「でもさ、毎回あれだけいっぱい出されたら、男の俺でも赤ちゃんできると思わないか?」
 懲りずに割と真剣に言い放つ旬に、再びイグリットの声なき叱責が飛んでくる。
 そんな二人のやり取りを傍から見ていた他の影たちはと言えば、やはり旬の冗談にまんまと乗せられてしまい、影の中ではあからさまにガッカリしている者たちもチラホラいる。しかし幸いにもその光景は旬にもイグリットにも見られることはなかった。
 その代わり外に出ていたベル以外の他の影たちの反応はと言えば、旬の子だと喜んでいたのも束の間、それが嘘だったと知って、やはり同じようにあからさまにガッカリしていた。
 その様子を見ていた旬は、そんなに自分の子が見たかったのかと、首を傾げてみせたが、彼らは曖昧な笑みを返すだけに留まった。まさかイグリットとの子だと聞いて喝采を上げていただとか、二人の愛を垣間見ることができて大喜びしていただとかなんて言えない彼らだった。
 と、そんなこんなで一頻り騒いだ後は、赤ん坊をラグの上に寝転がせ、彼らと対面させる。
 さっきからのやり取りでも全く泣くことなく影たちを見つめていた子は、今はずっと気になって見ていたタンクに手を伸ばし、目の前にある毛並みを掴んで遊んでいた。自分よりも何倍も大きな巨躯にも全く動じないし、これまた可愛いとは言い難いベルが近付いても腕を上げて、触覚をむんずと掴み振り回している。
「全然怖がらないなあ。将来大物になりそうだ」
 流石のベルも赤ん坊相手に、しかも主君の身内とあっては怒るに怒れず、成すがままに振り回されている。あれ程人々に恐れられていたアリの王もこれでは形無しである。
 旬が感心したように眺めていると今度は魔法兵の持っている杖に興味を持ったようで、ズリズリと腹這いで頑張って近付いていく。魔法兵は心得たとばかりに、自ら赤ん坊へと近付いて興味の引くものを目の前に差し出して、したいようにさせていた。
『流石は王のご親族。肝の座り方が違いますな』
 握られていた触覚を摩りながらベルも感嘆の声を上げる。
「俺はここまで度胸はなかったと思うけど」
 自身の子供の頃を思い出しながら、赤ん坊の様子を見守る。今度はまたタンクへと興味が移り、その体に腹這いで突進していく。もふもふとした毛に埋もれてしまっているが、当の本人は楽しそうに手足をバタバタさせている。しかし、流石にタンクの四つ足の間に潜り込んでいこうとしたところで、イグリットがサッと抱き上げる。
 自分の思い通りにならなかったことで、泣き出しかける赤ん坊だったが、急に目線が高くなったこととイグリットの抱き方が上手いのか、癇癪を起こし掛けた泣き声がピタリと引っ込み、興味深そうに周りをキョロキョロしだした。
「見たことのないものがいっぱいあって忙しいな」
 ころころと表情を変えていく赤ん坊が可笑しくて、旬は楽しそうにイグリットに抱かれている赤ん坊を覗き込む。
 安定した抱き方に落ち着いたのか、その後、赤ん坊はこてりとイグリットに凭れかかり親指を吸い始める。ちゅうちゅうと指を吸う音と共に目元がとろんとし出したかと思えば、数秒の内に夢の中へと誘われていった。
「何かもう赤ちゃんって凄いな」
 あっちこっちに動き回ってくるくる表情が変わり、体力が尽きたら電池が切れたように寝てしまう。生命力の塊のような存在に旬は圧倒されながらも愛しげに瞳を細める。
 赤ん坊が眠ってしまった為、影たちは起こさないようにと旬に言われるまでもなく、各々影の中に帰っていく。イグリットだけは赤ん坊を腕に抱いたままだった為、旬に手渡してから戻ろうとしたが、何故か旬が赤ん坊を受け取ろうとしない。どうしたものかと困惑していると、旬がイグリットに身体を寄せてくる。
「赤ん坊の扱いが上手いのは、過去に経験があるからなのか?」
 眠る子の邪魔にならないようにイグリットの腕に自分の腕を絡ませて抱き付く姿は、拗ねているようにも見えて、イグリットの胸に温かな感情が広がる。多分きっと旬は生前のイグリットに子どもがいたかもしれないと思っているのだろう。そんな事実はある筈もないのに。
 拗ねる口調に混じる旬の嫉妬心を嬉しく思うが、自分の想いを旬に伝えきれていなくて不安にさせているようで自戒する。旬が不安に思わないくらい、もっと想いを伝え、愛を謳い、愛を乞わなければならないと自分自身に言い聞かせる。
 身を寄せてくる旬に少し待つように身振りで伝えると、イグリットはリビングに敷いてある布団の上に赤ん坊をそっと寝かせる。腕の中から下ろされてもぐっすりと眠っている赤ん坊に、タオルケットを掛けて頭をひと撫でして、その場を離れる。そしてずっとイグリットを待っている旬の元へと戻って来たと同時に、旬の身体を抱き上げて自分はそのまま床に胡座をかいて座った。胡座をかいたことでイグリットの膝の上に座る格好となった旬はイグリットの意図が分かり、ギュッと背中に腕を回して抱き付く。
「別に今のイグリットの気持ちを疑っているわけじゃないんだ。だけど過去に俺と同じようにイグリットから愛された人がいるかもしれないって思ったら、何か胸の辺りがモヤモヤしちゃって。これってやっぱりヤキモチなのかな」
 抱き付いた胸に身体を預けて頬もイグリットの胸に当てる。影であるイグリットに心臓の鼓動を感じることはないが、流れる魔力の対流は感じられる。今は穏やかに旬を包み込んでくる魔力の流れを感じることができ、旬もその流れに自身の魔力を合わせる。そうすれば何とも言えない心地良さが身体の中を巡っていく。
「ベルにさ、俺とイグリットの子だって言った時、ちょっとだけイグリットとだったら本当に赤ちゃんできても良いなって思っちゃったんだ」
 すり、と頭を擦り寄せ甘えれば、大きな手のひらが肩を包み、もう一方の手が髪を梳いてくる。
「勿論、赤ちゃん育てるのって大変だし責任もいる。好きだからってだけで産むもんじゃないことも分かってる。だけど生まれた子は二人が愛し合ってできた結晶みたいなものだから、イグリットとの間にできちゃったら、こんなに幸せなことはないだろうなって思ったんだ」
 呆れちゃうだろ。
 そう言って己の思考に自嘲的に笑う旬に、イグリットは首を横に振る。そんなことはない、貴方様のその御心を頂けるだけで、天にも昇る気持ちだと旬に伝える。言葉はなくともイグリットの言いたいことが分かる旬は、イグリットの言葉に幸せそうに微笑む。
 そんなふわりと笑う旬の唇にイグリットは己の唇を寄せていき、優しく口付ける。愛情も恋情も込めたその口付けは、二人の気持ちを確かめ合うのには十分で。けれども、そのまま深くなりかけた口付けは、マンションの部屋の前に人の気配を感じたことで自然と離れる。名残惜しくはあるが、旬の母が買い物から帰って来たらしく、少しして鍵の開く音がした。
 イグリットは母を驚かせないように、リビングへ入ってくる前に姿を消そうと、影の中に戻ろうとして旬に腕を掴まれる。膝まで影の中に入った状態で旬へと振り返ると、同じ目線の高さで旬がイグリットを見つめている。
「さっきの話。もっとイグリットの魔力を何度も何度も注がれたら本当に身体が変化するかもしれないから」
 それだけを言うと、今一度イグリットにキスをする。
 そのキスが何を意味しているか。
 ガチャリとリビングの扉の開く音がする。
 そちらに視線を向けると、思った通り母が買い物袋を持って中に入ってくるところだった。
「おかえり」
 母の持つ袋を受け取る為に足を踏み出せば、既にイグリットの姿は何処にも見当たらない。
 だけど旬の口元には笑みが浮かんでいる。イグリットが影に戻る時にくれた想いに頬が緩む。
「あら、何か良いことでもあったの?」
 買い物前と今とで旬の雰囲気が違うことに目敏く気付いた母が不思議そうに声を掛けてくる。
「うん、ちょっとね」
 それだけ言うと、旬は夕飯後に外に出ることを伝える。
 行き先はいつもの場所。
 イグリットと恋人として会う場所。

 “月が南の空に浮かんだ頃にいつもの場所で会いたい……”

 イグリットにそれだけを伝えた。それだけでイグリットには伝わる。
 そして返事の代わりに頬をゆるりと撫でられた。
 今はまだ春の陽気が窓から差し込む時間帯。
 恋人に再び会えるのはまだまだ先のこと。けれども、待つ時間もイグリットのことを考えているから苦ではない。
 そんなことを考えていると、ふにゃふにゃと可愛い泣き声が聞こえてくる。
 視線を声の方へと向ければ、目が覚めたらしい赤ん坊が近くに誰もいなくて泣いている。
 慌てて赤ん坊の傍へ行き、声を掛ける。
「よく寝たね」

 そして、自分を見つめてくるその小さな体を優しく抱き上げたのだった────。


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Twitterで呟いた(思われる……)ネタを急遽書き起こしてみました。
エイプリルフールネタってことで色々お許し下さい。
私は書いてて大変楽しかったです。
一番言わせたかった台詞はあれですよ!
分かってくれるかな。
あと、作中の出てくる歩兵と魔法兵はイグリットと一緒に転職クエストで影になった子たちです。だからイグリットの想いが旬に届いて、二人がくっ付いたことに誰よりも喜んでます。

初出:2022.04.02

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