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主なのか恋人なのか

 家族との夕食後、母に代わって片付けを終えて自室に向かう。母と葵はリビングでテレビを付けたまま話をしていたが、旬は基本的に自室に篭っていることが多かった。
 特に何かをしているわけでもなく、その日によってマチマチだ。部屋から出て夜の街を見廻ることもあれば、パソコンの画面を見たり、雑誌を読むこともある。時折、賢太から電話が掛かってくることもあるが、今日はその兆しはなさそうだった。
 それに今夜はいつものような時間を過ごす気はなく、自室に入りベッドの端に腰を下ろすと、深呼吸した後、一つ口を開く。

「イグリット」

 戦闘時以外でこの名前を呼ぶのはまだ気恥ずかしくて言葉にした途端、胸の動悸が幾分速くなる。
 緊張していることを悟られたくなくて、心を落ち着かせようともう一度深呼吸をしていると、正面に見慣れた黒い靄が現れ、直ぐに人の形が形成される。闇色の鎧とマントが目に入り、その次に彼を象徴する深紅のプルームが旬の前に跪く動作に合わせてふわりと舞う。
 一つ一つの動作が洗練されていて、しかもどれも自然体で嫌味がない。その所作から果てしなく長い時を騎士として、その身を捧げてきたのだろうと容易に想像がつく。
 何度見ても飽きることなく見惚れてしまうイグリットの姿に、知らず旬の目元が甘やかに綻ぶ。
 体格のあるイグリットは跪いていても尚、ベッドに座っている旬よりも若干上背がある。少しだけ見上げるように顔を覗き込もうとしたが、低頭している為か、上手く見ることができなかった。それが何となく気に入らなくて、イグリットの正面に立ち上がると、下を向いている顔を両手のひらで挟み込み、そのまま上に向かせる。
「床ばっか見てないで、俺の方を見て」
 名前を喚べば直ぐさま出てきてくれるけど、それは忠実な従者としてのイグリット。ダンジョン内でもないこんな場所で、幾度となくイグリット一人だけを喚び出しているのに、未だに旬が言わなければ従者としての立場から逸脱しようとしない。
 『自分を見て』、なんて言葉も本当は命令しているようで言いたくない。だけど、旬から言わなければイグリットはずっとそのままの体勢でいる。もっと求めてほしいし、自分の欲望を吐き出してほしい。だけど今まで一度もイグリットからそんな激しい感情は向けられたことはなかった。いつも穏やかで包み込んでくれる想い。それも嫌なわけではないけれど、こんな二人きりの夜はもっと積極的になってほしい。
 例えば、
 腕を引いて抱き締めて。
 強引に唇を奪って、舌で中を掻き回して。
 大きな手のひらで腰を引き寄せて、めちゃくちゃにしてほしい。
 そんなことを考えていれば、腰から下に覚えのある甘怠い感覚が芽生え、イグリットを見つめる視線が更に熱を帯びる。しかし旬は今自分がどんな顔をしているかなんて分かっていない。
『っ』
 ふとイグリットの息を呑む音が聞こえたような気がした。けれども、未だ声を発することができない彼から聞こえる筈がないと否定する。
 見つめる先の表情は変わらない。兜が邪魔をしてイグリットが今どんな表情を面に浮かべているのか見ることができずにいる。
 気になってしまえば兜の下の顔が見たくなってしまい、自然と側面にあるヒンジ部分に指が伸びる。そのままベンテールと呼ばれる面甲部分を上にずらそうとして、その指を止める。いつも従者然としている彼を少し困らせてやりたい気持ちが湧いた。
「俺からは直接はしないから」
 それだけを言うと、兜をずらそうとしていた指をそのままイグリットの首元に腕を回して、唇のあるであろう上からキスをした。
 兜と言っても金属的な冷たさや感触は感じられない。唇の上に不可思議な感覚が広がるだけで。それでも、イグリットに触れているというだけで心臓がドキドキと高鳴ってくる。
「ん、ん……」
 少しくっ付けては離してと、最初は緊張した面持ちで控えめに触れ合わせていた口付けが、イグリットに見られながらしているという高揚感に、段々と大胆に唇を触れ合わせていく。
 少し開けた唇で喰むように兜の口元に触れ、顔の角度を変えてまた喰む。唇を少し突き出したまま兜に押し付けて小さく鳴らしたリップ音を何度もさせる。
 夢中になり過ぎたせいで身体が前のめりになり、イグリットの首筋に回した手に力が入ってしまう。
 そんな旬を咄嗟に支えようとしたイグリットであったが、背中に回した腕を中途半端な位置で止めてしまう。旬をそのまま抱き締めてもいいものなのか考えあぐねている雰囲気が伝わってくる。
「イグリット……」
 互いの想いを重ねて漸く恋人になれたというのに、イグリットの優先事項はまだまだ主としての旬で。だから旬に触れることも、ましてや自分から旬を求めることなど僭越行為でしかないと思っている。
 旬があからさまに身を預けているのだから、そのまま抱き締めて自分の欲のままに旬を求めればいいのに、それを“主"にしてもいいのかと、“恋人"としての旬のことはそっちのけにされてしまう。
 自分なのに、その自分に嫉妬してしまう。
 唇を離し、“主”である旬が呼ぶことのない睦言を囁くような声音で目の前の従者の名を呼ぶ。眉尻を下げ、キスで高揚した感情が目元を朱く染め上げる。熱くなった口内を冷ます為に開いた口元からは、意図せず熱っぽい吐息が洩れて、それがイグリットに当たる。
 瞬間、今まで躊躇って旬に触れようとしなかった手のひらに強く背中を抱き寄せられる。ぐっと腰骨の辺りを掴まれ、その強さに気を取られていれば、近くで金属の擦れるような音がする。ハッとして正面を向くのと唇に何かが触れるのが同時になる。
「ぅん……?!」
 さっきまで自分が触れていたものと明らかに違う感触に目を見張る。目の前には焦点の合わない兜越しではないイグリットの素顔が視界いっぱいに広がっている。
 いつも癖のように旬の唇を喰んでくるものが何かなんて見えなくても分かってしまい、心臓が更に跳ね上がる。
 引き寄せる腕の強さも、優しくても熱の篭った唇も全てが旬の心を甘やかに揺さぶってくる。
 それに満足してイグリットに身を委ねるが、それでもやはり一つだけ不満を口に出してしまう。
「戦闘中以外は俺を優先して」
 君主である自分ではなく、唯の水篠旬、イグリットの恋人である自分を優先してほしい。そういう意味で伝えた言葉は、果たしてイグリットに伝わったかどうか。
 何度言ってもこの願いだけは中々叶えてくれないイグリットに、今回も無理だろうなと、分かっていながら言った言葉。
「次に恋人の俺に跪いたり、抱き締めるのを躊躇したら、当分俺に触るの禁止にするから。キスだってしない」
 だからちょっと脅すくらいの言葉も付け足す。
 旬もその間イグリットに触れられなくなるから諸刃の剣のような罰ではあるが、このくらい強く言わないと、平気で主である旬ばかりを優先してくる。
 今から実行と言うように、パッとイグリットの胸に凭れ掛かっていた身体を伸ばして、態とらしく肩の横で両手のひらを持ち上げて触れないようにする。
「どうする?」
 そんな旬の態度をどう受け止めたのか、一瞬びくりと肩を震わせたイグリットであったが、一呼吸の後に続いたのは、目の前の身体を自身の腕の中にすっぽりと覆い抱き込み、途中になっていた口付けの続きを再開させたことだった。
 先とは明らかに触れ方が変わったイグリットに満足する旬。
 けれども余裕があったのはこの時だけだった。
 段々とイグリットの腕が手のひらが唇が、旬の快楽を引き出そうと動き出してくることに次第に焦りが生まれてくる。
「待ってっ! これ以上はっ……!! 向こうに母さんも葵もい……っぅんんっっ……!!」
 最後まで言わせないように、イグリットの舌が旬の口内を深く潜り込み、抗議の声はくぐもったものになる。
 自分から蒔いた種とはいえ、どうしよう、どうしようと扉の向こうにいる二人に気付かれてしまうかもしれない恐れに、頭の中が真っ白になる。心音が今までとは違う鼓動で早鐘を鳴らす。
 しかも、二人の気配が動いたことに、更に焦りが加速する。旬の部屋に段々と近付いてくる気配に最早焦りがピークになりかけた瞬間、唐突に唇を離される。と同時に部屋の扉をノックする音がした。
「お兄ちゃん、お母さんと食後の散歩に行くんだけど、今日はどうする?」
「き、今日は……少し疲れたからやめとく。気を付けて……行くんだぞ……」
 扉越しに声を掛けてきた葵に、どうにか平静を装って言葉を返す。動揺して声が掠れてしまったが、幸いにも葵は気付かなかったようで、行ってくると言うと、そのまま母を連れ立って玄関の扉の開閉音と鍵の閉まる音がした。
 家の中に旬の気配だけが残る。
 どっと全身から疲れが噴き出し、目の前の恋人の顔を恨みがましく睨め付ける。
「限度がある」
 勿論、イグリットが分かっててやっていたであろうことは、旬でも気付いていた。そして、困らせたくてやっていたわけでも、意趣返しをしたくてやっていたわけでもないことも知っている。だけど、流石にイグリットとの仲を、しかも口付けている場面を家族に見られて平気な顔ができる程、旬も厚顔ではなかった。
 そんな旬に詫びるように抱き締めてくるイグリット。
 いつもであれば旬が怒った瞬間、従者の位置に戻ってしまう恋人が、今日はそれをせずに対等な位置で旬に謝ってくる。それが嬉しくて、旬は早々に赦してしまう自分に呆れる。結局、何をされてもイグリットなら本気で嫌がることはしないと分かっているから、旬も本気でイグリットを怒ることができないのだ。実際、さっきのことも葵に見られてしまうかもしれない羞恥心はあったが、嫌だったわけではない。バレなければキスだってずっとしていたいと思ってしまっていたことに、今度は別の意味で羞恥心が湧いてくる。
 自分の甘ったるい考えに身悶えていると、旬が何も言わないのを未だ怒っていると勘違いしているイグリットが、今度は旬の顔中にキスを降らせてくる。優しく触れるだけの謝罪のキス。最後に赦しを請うように鼻先にキスを落とされれば、赦さないわけにはいかなかった。と言っても、既に最初の謝罪で赦してしまっている。けれども、そのことをイグリットには伝えていなかった為、同じく鼻先にキスを返すことで謝罪を受け入れたことを伝える。
「でも、今度からは二人が家にいる時はキ……スより先は駄目だからな!」
 言葉で伝えるのは些か恥ずかしくて、少し吃りながらの言葉になってしまう。言い含めるように伝え、イグリットが頷くのを確認して、漸く少しだけ心が落ち着いた。
 そんな旬をイグリットは優しく撫でていく。髪を漉き、朱くなっている目尻と頬の間を親指の腹で撫で、そのまま手のひらで頬の輪郭をなぞるように包み込んでくる。
 優しい愛撫。
 だけど、今は二人きりの時間。
「母さんたちが帰ってくるのは、もうちょっと先だと思うから……」
 さっきの言葉は裏を返せば、二人きりの時はキスより先もしてほしいということ。
 流石に直截な言葉で伝えるには羞恥心が勝って言えなかったが、それでもイグリットは旬の言いたいことを汲み取ってくれる。その証拠に、優しく触れていた手のひらがゆっくりと首筋から肩へ、腕を伝って旬の手のひらを掴む。そこからその手のひらをイグリットの唇に触れ合わされる。
 視線も合わされ、手のひらに口付けをされてしまえば、さっきまで落ち着いていた鼓動がまたどくどくと早鐘を打ってくる。
「っぁ……!」
 不意打ちのように口付けられた場所を舌でなぞられ、反射的に声が出る。
 それが呼び水となり、そのまま手を引かれ再び唇へとキスをされる。今度は旬の感じる場所を的確に、官能を引き出すように絡め取られ、粘膜を容赦なく擦られていく。
「イグリット……好き……」
 キスの合間に無意識の内に口から溢れた言葉。何度も好きと言葉にする度にイグリットが同じくキスで応えてくれる。
 二人きりの静かな部屋の中で、旬のあえかな声だけが小さく響く。
 それは散歩に出掛けた二人が戻ってくるまでの間、秘めやかに続いたのだった────。


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Twitterのフォロワー様の描かれたイラストのイグ旬がとても素敵だったので、許可を頂きそのワンシーンを書いちゃいました。
キスを仕掛ける旬を抱き締めていいのか戸惑うイグリットの構図。相変わらず主従と恋人の間で二の足踏んでるイグリットにヤキモキする旬。ホント側から見たら「あーあ、またやってるよ」って呆れちゃうのでしょうが、イグリットは至って真面目に悩んでいそうです。でもきっと彼はやる時はやる男ですから、吹っ切れたら完璧な恋人になってくれるでしょう。
因みに意味深に思われたかもしれませんが、お母さんと葵ちゃんは本当に気付いてません。

初出:2022.05.31

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