── 沖の屋
不求同年同月同日生、只愿同年同月同日死
今もまだ目の前で光の流砂となって消えた父の姿が目に焼き付いて離れない。それはどんなに時を経ても決して忘れることなどできない悔恨と呵責。
もっと早く父に気付いていれば。
もっと自分が強ければ。
もっと上手く立ち回っていれば。
もっと
もっと
もっと
もっと……!
今更考えても仕方のないことばかりが頭の中を巡り、己を責め立てる。
母は一度だけ涙を見せたあとは、自分たちの前では何があっても父のことで涙を流すことはなかった。
葵は幼い時の記憶しかないためか、悲しみはしたがいつもの生活へと次第に戻っていった。
普段と変わらない日常が再び訪れる。
何も変わらない。
十年前から父はここにはいなかったのだから。
だけど、その変わらない日常が父を守ることができなかった旬を責めているように思えた。
母も妹も何も言わない。
涙を見せない。
だから、旬も涙を見せることはできない。
否、涙はずっと出なかった。
父を腕に抱いた時を最後に、枯れたように一筋も出なくなった。
人は言う。『身体の中に渦巻いた想いは涙と一緒に流した方がいい。そうすれば、次へ進むことができる』のだと。
自分は足を止めるわけにはいかない。だから堰止まったままの想いを流さなければならない。
既に最悪のシナリオは完成しつつあるのだ。自惚れでもなく、この世界を守ることができる唯一は自分しかいない。それなのに、足が立ち止まってしまう。心がこの場から動こうとしてくれない。
だが、己の思いとはうらはらに体はやるべきことのために動いていた。
巨大なゲートから現れた影の君主の兵士たちを迎え、竜帝との戦いに備えるための策を練った。やるべきことは多く、父のことばかりを考えている余裕はなかった。
前には進んでいる。
だけど、それは旬の身体の表面上だけ。心底はいまだあの場所から動いていない。
前へ進まなければいけない焦りと目の前でフラッシュバックする父の最期の姿に、理性と感情が制御できずにいる。
どうすればいい?
どうすれば足を前に出すことができる?
不安定な心はいつしか先の見えない闇の中を彷徨い、行くべき道筋が見えなくなる。
己の道が見えない。
ふと視線を下に向ける。そこには足下まで闇が侵蝕していた。
闇は影と共にある。
普段であれば恐れることのない闇に今は不安と焦りしか感じられず、そんな旬の心に呼応するかのように足の上をゆるゆると這い上がってくる。
このまま何もしなければ闇に飲まれてしまうだろう。その先が安寧なのか虚無なのか。どちらにしてもこのままでは駄目なことだけは分かっていた。
闇に飲まれるな。闇を自分の意思で己のものとして飲み込め。
立ち止まっては駄目だと脳内に声が木霊する。
「わかっている」
頭に響く声に苛立たしく吐き捨てる。そんなことは己が一番よく理解している。だけど、後悔が己をその場に留めてしまう。
自分が周りの人間を不幸にしてるのではないのだろうかと。
旬がハンターに覚醒してしまったから母は溺睡症に罹ってしまった。
旬の魔力が近くにあったために妹はモンスターに襲われてしまった。
旬が君主に目をつけられてしまったから父は旬を守るために死んでしまった。
全て自分がいたために起こってしまったこと。
己の存在が家族を不幸にしてしまう。
家族を守るために強くなろうとしたはずが、家族を不幸にしている元凶は自分なのかもしれない。
頭の中を過った恐ろしい想像に、再び呼応するように足下の闇が一段と濃くなる。
ゾッとした。
これ以上ここにいてはならない。己の意思とは無関係に闇に飲まれてしまう。
頭では分かっている。分かってはいるが、どうしても闇に埋もれた足が前に出てくれない。
理由は明らかだ。
何も解決していない感情のまま、今のこの状況で無理矢理にでも進もうとすれば、抑え込まれていたものがどうなるか自分自身でも予測ができないからだ。体内に渦巻く感情を上手くコントロールできなくなる。
それは今まで誰にも弱音を吐かずにきた旬にとって恐ろしいもの以外の何ものでもなかった。
早くいつもの自分に戻らなければならない。暗く澱んだ顔を母や妹に見せるわけにはいかないのだ。こんな弱い心では家族を守ることも、これから起こるであろう厄災に対抗することさえできなくなる。
だからなのだろうか。追い詰められた旬は、無意識に助けを求めるようにその名を喚ぶ。
「イグリット」
暗闇の中をさほど大きくもない己の声が響く。影の君主の威厳も何もない掠れて無様な声。
それでもイグリットは旬の前に姿を見せてくれる。
能力が解放されて本来の力が戻ったイグリットは、言葉を話すこともできるようになっていた。しかし、今は旬が声をかけるまでイグリットから声を発することはなかった。
喚び出したからには何か言わなければならない。それなのに旬は言葉をなくしたかのように、口を開けるも、そこから何も発することができなかった。一言でも発してしまえば、言葉にならない悲痛な声が喉を引き攣らせて出てきそうだったから。
何も言わない、言えない旬。
しかし、そんな旬をイグリットは静かに抱き締める。僭越を犯すことを極端に嫌う男が壊れ物を扱うように優しく、背に回された大きな手のひらを殊更にゆっくりと動かし撫ぜていく。
引き攣れた心がその温もりに癒されていく。
「イグリット」
『はい』
「声を」
抱き締められたまま、額をイグリットの胸元に押し付ける。背を撫ぜる手のひらは、いまだ一定のリズムを刻んでいるのに安堵する。
『主君』
ずっと聞きたいと願っていた、低く深みのある落ち着いた声。
「うん」
『お側にいます』
「うん」
『主のお側にずっとおります』
「主君だから?」
『私の唯一だからです』
抱き締める腕が少しだけ強くなる。その強さがイグリットの意志の強さにも思えて。
「いかないで」
言葉が震える。
閉じた瞼の裏に流砂となって消えゆく父の姿が浮かび上がる。
『いきません』
「絶対」
『貴方様を置いて先には逝きません』
揺るぎのないイグリットの声に、冷たくひび割れた心が柔らかく解かされていく。
「約束だから」
『命令してください』
「これは主としてじゃない」
それならば、どの立場で言ったのかと、自問する己を冷ややかに見下ろす自分がいる。
イグリットの優しさにつけ込む旬を感情の見えない冷たい瞳が詰問してくるが、問われてもそんなもの旬でさえ分からない。だけど、主君としての自分でないのであれば、いったいイグリットに何て言えばいいのだ。
旬は影の君主であり、イグリットは影の君主の下に従く従者でしかない。命令する者とされる者。二人の間にあるものはそれ以外なかった。ないはずなのだ。
『約束いたします。決して貴方様をお一人にはいたしません』
それなのに、イグリットの声が、抱き締める腕の強さが、背を撫ぜる大きな手のひらが、旬を主君としてだけ見ているのではないと言っているようで。
解かされた人としての水篠旬の心が震える。
上手く呼吸ができず、喉奥が苦しくて。
「 」
思い人の腕の中。
漸く声を上げて泣くことができた。
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「蟲愛づる王」でもワンシーンとして父を失くした旬の心情を書きましたが、また性懲りもなく書いちゃいました。
声を上げず涙を流す旬が哀しくて、このシーンを思い出すたびに胸が締めつけられます。
人前では決して涙を見せない旬が唯一心を預けられる存在がイグリットであればいいなと。
イグリットなら慰める言葉をかけず、ただ旬の傍を離れることなく、旬が憚らず泣くことを許される場所となってくれると思うのです。
タイトルは三国志の一節から。
相手を置いて先に死ぬことは許さない。命尽きる時は同じであってほしい。相手を束縛する呪いのような願い、想いを込めて付けました。
2025.03.02