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三月八日の祝福

 その日は朝からばたばたと慌ただしい一日だった。
 前日の夕食時に母から「明日は朝からお出かけしてね」と伝えられた旬は、最初来客があるのかと思った。しかし、その次に葵からお願いされた言葉で、誰かが家に来るわけではないと分かる。
「あと、お兄ちゃんの黒い兵士たちを何人か貸してほしいんだけど、明日ってお仕事入ってる?」
「明日は何もない予定だけど、なんで影たちがいるんだ?」
「明日のことでちょっと手伝ってほしいんだ。できれば家事が得意な兵士たちがいいんだけど、そんな人たちいるかな?」
「明日?」
 いったい明日何があるのだろうか?
 葵の言葉の意味が分からず首を傾げていると、そんな旬の態度に信じられないと言わんばかりに驚かれる。
「え!? お兄ちゃん、明日何の日か覚えてないの?!」
 あまりに驚いた顔をされるから、何か大事なことを忘れているのかと焦る。だが、それなら母が旬に対して出かけるように言うのはおかしい。
「いったい明日は何があるんだ?」
 何か言われていただろうかと、思い出そうとしても全く記憶の片隅にもなく、結局両手を上げて降参する。
「明日はお兄ちゃんの誕生日じゃない! だから、お母さんは料理を作って、私はケーキを作ろうと思ったの。それで二人で作るのも大変だから、お兄ちゃんの黒い兵士たちにお手伝いしてもらえないかなって思って」
 大事な用ではなかったことにほっとしたが、自分の誕生日だと言われ幾分拍子抜けする。
「この歳になったら自分の誕生日なんて……」
 関心がないと続けようとしたところで、葵が何かを訴えるように睨み付けてくる。なんだ、と言いそうになったところで、隣に座っている母の表情にはっとした。
「あー……やっぱり誰かに祝ってもらえるのは嬉しいな。料理もケーキも楽しみにしてるよ。あとは手伝いのできそうな奴らか」
 溺睡症により四年もの間眠っていた母は、家族とのひと時を埋め合わせようとするかのように、何かのイベントがあれば率先して声をかけてくる。特に旬には苦労をかけたと気に病んでいるようで、母が病に倒れる前にはなかった怪我や手荒れを旬の体に見つけるたびに、密かに心苦しそうな表情で見ているのを知っている。まるで罪を犯したような表情をする母に、何度も大切な家族を失いたくなかった、ハンターになったことは自分の意思だと伝えて、母が罪悪感を感じる必要はないのだと訴えた。だから、もう二十歳も過ぎた大の大人である自分の誕生日を祝いたいと思ってくれる母の気持ちを蔑ろにすることはできない。
「誰かに手伝わせるのはいいけど、母さんは大丈夫?」
 葵は何度か見たことはあるだろうが、母はきっとテレビで映っている影たちしか見たことはない筈だ。お世辞にも可愛いとは言い難い彼らを果たして母の前に出しても大丈夫なのか心配だった。
 しかし、旬の懸念は杞憂に過ぎず、母は旬の方へと視線を向けるとにこりと微笑んでくる。
「旬のことをいつも守ってくれている兵士さんたちでしょ? 怖い筈ないじゃない。一度は皆さんにお会いしてお礼を言いたかったの」
 母がそう言葉にした途端、食卓の下にできた足元の影が落ち着かなく揺れ動く。何やら中で咽び泣く声が聞こえたような気がしたが気付かないふりをする。それより明日のメンバーを選抜するが先だ。
 器用な影と言えばアリたちだが、アイツらは知能が低いから作った先から料理を食べてしまいかねない。二足歩行のアリたちもいるにはいるが、アイツらも基本的には六足歩行のアリたちと変わらない。そうなると知能が高いベルが適任ではあるが。
『ベル、明日母さんと葵の手伝いをできるか?』
『勿論でございます!! 御母堂様、妹御様の足手まといにならぬよう、精一杯務めさせていただく所存でございます!』
 心の中で言い終わるやいなや食卓の下の影から頭を出して、相変わらずどこで覚えてきたのか珍妙な喋り方で猛烈な勢いで捲し立てるベルの声が響く。慌てて二人の方を見るが、どうやら今は姿を消しているらしく、旬が急に食卓の下を見つめているのを不思議そうに見てくる。
「お兄ちゃん?」
「なんでもない。手伝いは二人いればいいか? それとも三人?」
「二人で大丈夫」
「それならベルと……キバがいいか」
 人間界のことだから一瞬アイアンをと思ったが、あまり器用そうには見えなかったからキバを指名する。生前は人語を操っていたし、魔法も使っているから知能は高そうだ。二人の言うことも理解できるだろう。
 そう結論付けて足元を見れば、ベルほどではないが影が嬉しそうに揺れているのが見て取れ満足する。
『明日はよろしく』
『御意に』
 声はベルだけだったが、キバからも畏まった気配が感じられて、二人して影の中で跪いている姿が容易に想像できた。
「それじゃあ、お兄ちゃんは明日一日外出ね!」
「因みにこういうのってサプライズで開くもんじゃないのか?」
 堂々と誕生日の準備をするから準備が終わるまで帰ってくるなと言ってくる葵に呆れたように言うが、本人は気にした風もない。
「サプライズで何も言わなかったら、仕事で何日も帰って来ないかもしれないじゃん。現に明日誕生日だってことも忘れてたし」
 その言葉に思い当たる節が幾つかある旬は、葵の言葉に反論する余地もなく苦笑いで誤魔化す。
「明日は楽しみにしてるよ」
 母もいるとはいえ、料理なんて殆ど作ったことのない葵のケーキが、いったいどんな風にできあがるのか一抹の不安が頭を過ぎるが、自分の為に何かを作ろうとしてくれる気持ちが嬉しい。
「任せて!!」
 胸の上で拳を作り自信満々で応える葵の姿に、心の中でベルとキバに明日の手伝いをもう一度しっかりと頼む旬だった。


 次の日。
 宣言通り、朝から追われるように家から出された旬は、取り敢えず我進ギルドの事務所へと向う。特に何かあるわけではないが、これといった趣味のない旬にとって部屋でごろごろとする以外に時間を潰すいい案がなく、事務所へ行けば何かあるかもしれないと深く考えてのことではなかった。しかし、事務所に着いて早々、来なければよかったと後悔する。
「何コレ……」
「み、水篠さんっ!」
 事務所の扉を開けた途端、中から賢太の悲痛な声と共に大量の段ボールが視界に入ってくる。足の踏み場もないくらいの段ボールの数に事務所の前で佇立したままになる。
「諸菱君、何頼んだの?」
 諸菱建設の子息だからか、賢太は一般人よりも金銭感覚がずれているところがある。だから今回も大量に何かを頼んだのかと思ったのだが、どうやらそういうわけではなさそうで。
「僕じゃないです! これ全部水篠さん宛てのお届け物ですよ!」
 聞けば、どれも誕生日祝いの贈り物だと言う。
「個人情報は非公開にしている筈だけど」
「ハンター協会のハンター情報はそうなってますが、人の口に戸は立てられませんから。昔の水篠さんのことを知っている人から広まったんじゃないでしょうか」
 架南島レイド以降、一躍名を知られることになった旬は、早々に自身の個人情報を非公開にするようにハンター協会に要請した。それは周りからの煩わしい雑音を入れない為でもあり、家族のことを嗅ぎまわられないようにする為でもあった。しかし、学生時代に旬と関わったことのある者であれば、誕生日を知っていても不思議ではない。そんな彼らにパパラッチ紛いのマスメディアが接触して、旬の情報を流しているのも知っている。見つけ次第、賢太が潰しているらしいが、ネット以外で広がった情報はどうすることもできないのが現状だ。
「これはこちらで大丈夫なものかどうか確認して仕分けをしますので、水篠さんはお気になさらず! あとこれを!」
 早速スタッフ一同が手際よく段ボールを奥の部屋へと運び込み作業を始めだしたので、旬も手伝おうとするも、賢太から手出し無用と待ったをかけられる。影たちを使えばすぐに終わらせることができるだろうに、旬の手を煩わせるわけにはいかないとでも思っているようだ。
 旬が持ち上げようとした段ボールを一礼をしつつサッと他のスタッフが持ち去っていってしまったので、事務所の入り口付近で佇むことになってしまう。そんな旬に賢太が一声かけて、そのまま一度奥の部屋へと慌てて入っていった。
 何があるのかと賢太が戻ってくるのを所在なさげに待っていると、ばたばたと他のスタッフを引き連れて旬の前に戻ってくる。
「水篠さんがこういうのあまり好きではないのは知っているのですが、やっぱり一年に一回のことなんで」
 そう言ってうしろにいるスタッフが賢太に手渡したものを旬の前に差し出してくる。
「お誕生日おめでとうございます!」
 言葉と共に視界に広がる鮮やかな色彩。
 この時期に咲く赤や黄色、薄紅色の可愛らしい花と小さく可憐な白い花が柔らかな色合いの薄葉紙で包まれ、同じ色彩のリボンで結ばれている。
 まさかギルドのスタッフたちから誕生日を祝われるとは思いもしなかった為、驚きに目をぱちぱちとさせてしまう。
「あ……やっぱり嫌でしたか……」
 何も反応を示さない旬に、やはり嫌だったのかと、賢太が不安そうに声をかけてくるから慌てて表情を取り繕う。
「ううん、まさかみんなが祝ってくれるとは思わなかったから、びっくりしただけ」
「それじゃあ……」
「嫌じゃない。ありがとう嬉しいよ」
 少し照れくさそうにはにかみつつ、賢太から花束を受け取る。
 旬の言葉に賢太と彼のうしろにいるスタッフもほっとした表情を浮かべた。
「でも、よく俺の誕生日を知っていたな」
「あ、それはギルドの申請をする時に書類にギルドマスターの名前とか書く欄があったので、それで知りました」
 勝手に見てすみません、と謝る賢太に首を緩く横に振る。
「別に怒ってるわけじゃない。諸菱君はもう身内みたいなもんだし、個人情報を知られたからって怒ったりしないよ」
 花束なんて初めて貰った旬は、興味深げに上へ下へと花を見ていたから、自分が発した言葉に賢太が感激しているとは気付きもしない。それから滂沱の涙を流している賢太にスタッフたちが「副マスター、頑張って!」と声援を送っているのが聞こえ、漸く花束から視線を外し正面へと向ければ、賢太が涙を流しながら旬へともうひとつ何かを差し出していた。
「これは?」
「最近忙しくされていたので、よかったらご家族と温泉にでも行って疲れを癒してもらえたらと思って。お母様もお元気になられたと言っても、まだまだ無理はできないかと思いますし」
 取り敢えず、いつの間にか目の前で大量の涙を流している賢太についてはツッコまない方がいいのだろうと察し、そこはスルーすることにして、差し出された封筒を受け取り、促されるままに中に入っている紙切れを出してみた。
「チケット?」
「はい! 諸菱建設のグループ会社が手掛けた旅館ですが、静かで落ち着ける場所なので、気に入っていただけると思います」
 指に触れた紙の表面はするりと手触りがよく、紙面には旅館のロゴが落ち着いた色合いの金箔で押され、旅館の名前を知らなくても一目で高級な旅館の招待券だと分かる。
「諸菱君は行ったことのある場所なの?」
「はい。僕も何度か利用したことがありますが、本当にいいところなので、是非ご家族でゆっくりしてきてください」
 賢太がはっきりとそう言うのだから本当に良い旅館なのだろう。
 まっすぐに旬を見つめながら揺るぎない声で言ってくる賢太に頷き、ジャケットの胸の内ポケットに大切にしまう。
「ありがとう」
 旬の言葉に賢太だけでなくギルドのスタッフたちも嬉しそうにはにかんだ表情を見せてくる。彼らのそんな顔を見れば、旬もまた胸の辺りが温かくなるのを感じたのだった。


 その後、旬に届いたプレゼントを仕分けるということで、
事務所内が足の踏み場もなくなってしまった為、事務所に留まることができなくなってしまった旬は、それならばとどこからも申請の入っていないゲートはないかと賢太に調べてもらう。
「ご自宅に戻らなくてもいいのですか?」
 賢太は旬が家族思いなのを知っている。だから家に戻らずダンジョンに入ろうとする旬を不思議に思い聞いてくる。
「今、母さんと葵が色々準備してるから、終わるまで戻って来るなって言われてる」
 パソコンの画面に映るゲート情報に今から入るゲートの指示を賢太にしながら伝えれば、納得したのか大きく首を振ってくる。
「それは楽しみですね」
 自分のことのように嬉しそうに笑う賢太に、旬も釣られて口元に笑みが浮かぶ。張り切ってケーキを作ると言っていた葵だが、料理など殆どしたことがない。ベルとキバがついているといってもはてさて、いったいどんなケーキが出てくるのか。
「それじゃあ、あとは頼むよ」
「はい! 水篠さんもお気をつけて行ってください!」
 元気よく送り出してくれる賢太とスタッフに手を上げ、事務所を後にする。
 申請したゲートは我進ギルドの事務所より車で一時間ほど離れた場所にあるらしい。いつもであれば賢太が同行することが多い為、車で移動をしていたが、今日は旬一人でゲートへ入る。それに夕方には帰宅していなければならないだろうから、久しぶりに自分の足で駆けていくことにした。
 時刻はまだ朝から昼に差しかかり始めた辺り。
 旬は夕方までの少々長い時間をいつもよりゆっくりと時間をかけてダンジョンを攻略することにしたのだった。


 数刻後、何の問題もなくダンジョンを攻略し終わり、ゲートから出てきた旬の携帯電話に今まで溜まっていたメールがいくつも受信されてくる。協会からの業務連絡にプレゼントの仕分けが終わったと賢太からの連絡など、特に返信のいらないものはそのままにして、今は肝心の葵からのメールを確認する。
 送信されてから既に半時間は経っていたようで、今から帰宅する旨の返信をすれば、間を置かずして待っていたかのように返信がくる。その際に連絡が遅いとの愚痴も忘れず書かれていたのは、見なかったことにする。
 空は夕闇の色を濃くしており、これ以上葵の機嫌を下げない為にもカイセルを喚び出して帰宅する。以前、夜にもかかわらず街中でカイセルを飛ばして、SNSを騒がしてしまったことがあった為、今回は視認されるよりも高度をとって飛行する。
 ものの数分で自宅上空まで戻ってきた旬は、そのまま上空でカイセルから飛び降り、マンションの屋上へと降り立つ。そこから階段を伝い自宅のドアを開ければ、旬が帰宅の声を上げるよりも先に葵の声がリビングから聞こえてきた。
「もお! 出かけててって言ったけど、こんな日にゲートに入るとかあり得ない!」
 パタパタとスリッパを鳴らしながら玄関まで走ってきた葵に両手を上げて謝罪する。思っていた以上にダンジョン内で時間を潰してしまっていたらしい。
「悪かったって。ギルドの事務所に行ったけど、なんか立て込んでいて、あっちでも追い出されちゃってさ」
 することがなくて、時間を潰す為にゲートに入ったと、遅くなった言い訳とも言えない理由を伝える。
「お兄ちゃん、ギルドマスターなのに追い出されたりするの?!」
 すると冗談めかして言った旬の言葉に、さっきまで憤慨していた葵が呆気に取られたように目を丸くして声を出す。
「まあ、運営は殆ど諸菱君に任せてるから」
 追い出されたわけではなく、一緒に手伝おうとしたけれどギルドマスターにそんなことはさせられないと、断られただけなのだが、まあそれを説明する必要もないかと、葵の言葉に曖昧の言葉を返すに留めた。
「そりゃあね、お兄ちゃんがマスターとか似合わなすぎだし、他に運営してくれてる人がいるってことの方がしっくりくる」
 旬の言葉に納得する葵にそれはそれで複雑な心境になるが、事実であるには変わりないから苦笑するしかない。
「ほら、そんなことより早くリビングに来てよ! お母さんも待ってるんだから」
 靴を脱ぎ終わらないうちに腕を引かれるが、今は大人しく葵に従ってリビングへと入っていく。
「おかえりなさい、旬」
「ただいま」
 母の声に応えると共に視線を向ければ、食卓の上には既に料理が所狭しと並べられていた。
「なんか凄いことになってるんだけど」
 いくつもの大皿に肉料理や揚げ物、サラダが盛られ、その中央には存在を主張するように鎮座したケーキが置かれている。
「旬の兵士さんが手伝ってくれたから、いっぱい作っちゃったの。せっかくだから兵士さんも一緒に食べてもらったらいいと思うのだけど、どうかしら?」
 明らかに三人で食べるには多すぎる量に呆気にとられていると、母がにこりと笑いながら量の多くなった理由とそんな提案をしてくる。余らすのも勿体ないから旬としても母の提案に否はなかったのだが、旬が言葉を返すよりも先にベルの焦った声が二人の会話の間に入ってくる。
『主君と一緒になど、とんでもないことでござるっ! 更に御母堂様、妹御様もいらっしゃる席になど、我々には畏れ多いことにございます! どうぞ我々のことはお気になさらず、家族水入らずで主君の生誕を祝ってくださいませ!』
 何故か平伏しながら相変わらず奇妙珍妙な言葉遣いで提案を断るベルに、母は残念そうな顔をして旬の方を見てくる。
「みんなで食べると思ったのだけど。お料理余っちゃうわね」
 一瞬、旬が全部食べてくれるかしら? と言った視線を送られ、食卓の料理をじっと見つめてみたが、どう考えてもこの量を全部食べ切るのは無理がある。
「母さんがお前たちの分も作ってくれてるみたいだから。一緒が無理だっていうなら向こうでみんなで食べてくれ」
『王よ……』
 母を落胆させたくなくて折衷案を出せば、ほっとした表情を見せる母と、大仰に跪き滂沱の涙を流すベルがいた。
 ベルの姿に辟易としながらも、母に容器を準備してもらい自分たちが食べられる分を残して料理を詰めていく。量が量なだけに、母と二人で重箱に料理を詰めていたところで、食卓の中央にあるケーキにも目を向ける。
「これ葵が作ったのか?」
 ケーキを作ると言っていた葵の言葉に、せいぜいスポンジ生地に生クリームを塗って飾り付けたホールケーキくらいだと思っていたのだが、想像以上のものが出来上がっていて、
実を言うと驚き感心している。
「勿論! と言いたいところだけど、私だけじゃなくてベル君とキバさんにも大分手伝ってもらっちゃった」
 自信満々に言いつつもベルとキバに手伝ってもらったことを正直に伝えてくる。二人を振り返れば、さっき跪いた体勢のまま葵の言葉に恐縮したように今一度頭を深く下げている。
「ここの飴細工はキバさんの魔法で作って、このマジパンはベル君が作ってくれたの! どう? 凄いでしょう!」
 葵の言う通りケーキの装飾はどこかの一流パティシエが作ったかのように美しく精巧に作られていた。
 チョコレートクリームで少し歪にコーティングされたスポンジは二段重ね。多分ここは葵が作ったのだろう。その上にはキバが作ったらしい紫紺色の飴細工が柔らかく舞い上がる風を可視化させたように幾重にも螺旋を描いている。生地の半分を三色のベリーがバランスよく配置され、その間を縫うように艶のあるチョコレートでラインを引き、反対側にはベルが作ったらしいマジパンがいくつか飾られている。
「これってベルたちか?」
「当たり! ベル君、お兄ちゃんの銅像とか作ったことがあるらしくて、それじゃあケーキの上に乗せるマジパンも作ってもらえるかもって思って聞いたら、余裕で作れるって言うから作ってもらったんだ」
「へえ」
 旬の言葉に自分が作ったわけでもないのに葵が得意げに話してくるのに呆れつつも、ベルが作ったと言う飾りをまじまじと見てみる。
 黒い形はケーキの飾りとしては異色かもしれないが、そこにあるのはどう見ても彼ら影たちを小さくデフォルメされたものだった。ベルにキバ、それにイグリットとアイアンにタンクとカイセルがずらりと並び、その中央には人型をしたマジパンが置かれている。その姿はどう見ても旬にしか見えなくて。
「この真ん中のって……」
「勿論お兄ちゃんだよ!」
 旬の問いに思った通りの答えを返される。すると、うしろで控えていたベルが勢いよく顔を上げ、何やら口上を捲し立てるように述べだした。
『畏れ多くも王の麗しいお姿をこのようなもので表現できるとは思ってはおりません! しかしながら妹御様が絶賛してくださり、こちらの“けーき"とやらに飾ってもよいとの御言葉に厚かしくも甘えさせていただいた次第でございます!」
「言葉遣い……」
 物凄い勢いで捲し立てるベルの喋り方に思わず心の声が漏れてしまう。何度言ってもベルの喋り方が直らないのはもう諦めるしかないのか。
 ベルの言葉に呆れつつも三人で作ったケーキは本当によくできていて、切り分けるのが勿体ないと思ってしまうほどだった。
「ケーキは後で。先にお母さんの料理を食べよう。私もうおなか空いちゃった」
 丁度ベルたちに渡す分の料理を詰め終わり、母が旬に渡してきたところで葵の腹の虫が鳴きだした。
「じゃあ、ご飯にするか。ベルたちも今日は葵に付き合ってくれてありがとう。全員には当たらないと思うけど、みんなで食べてくれ」
『ありがたき幸せ』
 そう言って恭しく料理の入った包みを両手で受け取ったベルは、それから少し居住まいを正したかと思うと旬へと頭を垂れる。キバも同じくベルの背後で跪き頭を下げている。
『改めまして、王よ本日はお誕生おめでとうございます。影一同心よりお慶び申し上げます。これからも王の更なる飛躍を期待しますと共に、幸多き一年となられますようお祈り申し上げます』
「うん……ありがとう」
「……お兄ちゃんが偉い人みたい」
 家族の前での口上はさすがに気恥ずかしさを感じた旬だったが、彼らが心から祝ってくれていることに対して無碍にすることもできず、言葉少なにだがそれでも謝意を伝えれば、二人はもとより足元の影からも旬を尊崇する感情のような気配が流れ込んでくる。
 だから、そんなやり取りを見ていた葵の言葉は聞かなかったことにした。
『ご家族でごゆるりをお過ごしくださいませ』
 その言葉を後にベルとキバはそのまま旬の影の中へと戻っていく。
「なんだか急に寂しくなっちゃったね」
 二人がいなくなったことで途端に部屋が広く感じ、寂寥が湧き上がりそうになるが、それを表に出す前に葵がぽつりと呟く。
「葵が望むならまた喚び出してやるよ」
 思った以上にあの二人と仲良くしていたようだと和らいだ気持ちで伝えれば、葵も嬉しそうに頷いてくる。
「今度はお母さんの誕生日の時に手伝ってもらいたいな」
 そんなことを言いつつ、二人を呼ぶ母の声に兄妹は仲良く食卓へと足を向けたのだった。


 深夜。
 あと少しで日付が変わる頃。
 旬はいつものように自宅のマンションの屋上でひとり夜の街並みを眺めていた。
 マンション付近は住宅街でもある為、この時間はひっそりとしていたが、目線を視界の彼方へと向ければ都心の不夜城が星空よりも明るく広がっていた。
 母と葵と囲んだ夕食は最近の忙しさを癒してくれるほど、穏やに過ごすことができた。母の料理はいつもと変わらず美味しかったし、食後に食べた葵とベルとキバのケーキも予想以上の美味しさだった。
 ケーキの上に飾られたマジパンは葵がそれぞれに配り、旬の皿には旬とイグリットが切り分けられたケーキの上に飾られた。旬を模したマジパンを渡されるのは分かったが、残りが何故イグリットだったのか理由が分からなかった。だから葵に聞いてみた。
 そして返ってきた答えが、

「だってお兄ちゃん、イグリットさんが一番なんでしょ?」

「っ」
 思い出しただけでも心臓がおかしな音を立てそうになり、慌てて深呼吸をする。
 葵がいったいどういう意図でそう言ったのか。初めて召喚した影という意味なのか、一番頼りにしているという意味なのか……。理由を聞くのが怖くて曖昧に頷いたのだったが、そんな旬を一瞥した葵は何故か食卓にある残りのケーキの上に旬に渡した二つのマジパンを乗せ替える。そしてそれを皿ごと旬に持たせてくる。
「あとは全部お兄ちゃんが食べてね」
「これを全部か?!」
 甘いものが好きな旬であったが、まだ半分も残っているケーキを一人で食べるのはさすがに無理がある。
 それなのににっこりと有無を言わさない笑顔で葵はケーキを旬の手に押し付けたあとは、そのままリビングから追い出そうとしてくる。意味が分からず葵の顔を見つめれば呆れたような顔を向けられた。
「食べきれないなら誰かと一緒に食べればいいじゃん。それにこのあと会うんでしょ」
 それだけを言うと本当にリビングのドアをぱたりと閉められてしまい、ぽつんとひとり取り残された様子で廊下に佇むことになってしまった。
「誰かと一緒にって……」
 こんな状態で外に出るわけにもいかないし、ましてや家に呼ぶような親しい者もいない。仕方なくケーキの皿を持ったまま自室へと戻ろうとしたのだが、ふと頭に浮かんだ相手の顔に玄関の方へと足を向け、そのまま外へ出た。
 マンションの他の住人会うかもしれないといった懸念はあったが、幸い時間も遅かった為か、誰にも会わずに屋上へと上がることができた。
 屋上は基本的には立ち入り禁止。立ち入りたい場合は管理会社へ日時と理由を事前に申請しなければならない。安全面からそういった手続きを取らされるのであろうが、そうでなくても無許可で屋上へ行こうにも鍵がかかっているし、最上階から外壁を伝って登れるような構造もしていない為、一般人では勝手に屋上へ立ち入ることは不可能だった。
 しかし、旬には勝手に入る手段がある。
 最上階の階段の踊り場の壁に足をかけ、そこから特に危ぶむことなくマンションの外側へと出ると、驚異的な跳躍で一気に屋上の笠木の部分へと手をかけ、そのまま平場へと降り立った。
 着地と同時に左手のひらに乗せたままの皿を見たが、振動で崩れることもなく葵に渡された状態のままだったことにほっとする。
 屋上へはよく来ている。朝は陽が昇る頃にマンションの前にある公園で毎日実施されているラジオ体操の音楽に合わせて体を動かし、夜になれば近隣の防犯の為に影たちをこの場所から街を廻らせていた。
 足は屋上内でも一番高くなっているところへと進んでいき、そこで暫し煌びやかな夜景を眺める。
 腰を下ろした横には、葵に渡されたまま手を付けていない皿がある。それを膝の上に乗せると、改めてベルが作った二つの飾りをじっくりと眺める。
 旬を模したマジパンは、常日頃から旬を崇拝しているベルだけあり、デフォルメされてるとはいえ気合の入った作りになっているのだが、意外にもイグリットのマジパンについてもなかなか完成度の高いものになっている。
 目元の傷もちゃんと付いているしイグリットの象徴ともいえる紅いプルームも風に靡いたように綺麗な流線形を描いていた。
「ふ……」
 何かと張り合っているように見えても、こういうところは律儀に作るところがベルらしい。きっと心中では旬だけ、もしくは旬と自分たちアリ軍団を並べたかっただろう。だけど葵の要望と旬が喜ぶだろうと思い、我慢しながら自分以外の影たちの可愛らしいマジパンを苦々しく思いながらもきっちりと作っていたのかと思うと、可笑しくて旬の口元に自然と笑みが浮かぶ。
「本当に可愛いと思わないか?」
 誰に言うでもなく夜の闇に向かい声を出す。
 誰もいない場所で紡がれた言葉は、一見独り言のようであったが、旬の問いかけとともに月明かりでできた足元の影が揺れると、闇が現れ人の型を成していく。
 そのまま傍に跪いた影は、ケーキの上に飾られているマジパンと同じ姿形をしており、彼の特徴でもある兜の紅いラインが夜風に合わせて緩やかにたなびいていく。
 旬の問いかけに影は答えない。
 否、答えることができない。何故なら旬の影はベル以外言葉を発することができないから。といっても、人語を操るベルの方が特異な召喚獣なのではあるのだが。
 だから、問いかけた言葉も答えを求めて発したわけではなかった。それは別に相手が喋ることができないからというわけではなく、旬の言葉を聞いた影を見れば何を思っているのか分かるからであり、物言わぬ影相手にも旬は人と話す時と変わらず言葉をかけただけに他ならなかったからだ。
 旬の言葉に一瞬影の瞳が揺れる。兜を被っている為、他の影たちのように表情で見ることは難しいが、相手もそれは承知しているのか、できるだけ旬に分かるように態度を見せてくる。二人きりの時は特にその傾向が顕著だった。
「あんな厳ついナリをしながら、こんな可愛いものを作るんだから。しかも俺の為に大きな指で一生懸命作ったなんて言われたら、それが女の子が喜びそうなものであっても、嬉しいものだろ?」
 こう言えば相手がどういった態度を取るのか分かっていての言葉。
 案の定、旬の言葉にむっとした感情が旬に向かって流れてくる。従者として仕えている間は、誰よりも感情を表に出すことなく、常に冷静沈着な態度で旬の側で控えている。そんな影が旬と二人きりになった時にだけ感情を見せてくる。
 それが旬の恋人であるイグリットという影なのだ。
 さしずめ今は同じ影であるベルのことを可愛いと言ったことが気に入らないのだろう。しかし、これをもし二人きりでない時に言ったとしたら、素知らぬふりで旬の背後で控えるのだ。内心は今と変わらぬままで。
(まったくどっちが可愛いんだか)
 態度にこそ出すことはなかったが、そんなイグリットに旬は小さく吹き出す。
「今日は久しぶりに楽しかった」
 かけ値なしに心の底からそう思えた。
 朝早くから家を追い出されはしたが、賢太たちギルドの仲間からも誕生日を祝われ、家では温かな料理を作ってくれた家族と揃って夕食を楽しむことができた。
 そして今日の終わりは恋人と共に過ごすことができるのだ。本音を言えば、誰よりも早く一番にイグリットから祝ってほしかったのだが、旬の家族を差し置いて自分が旬を祝うことは恐れ多いと、結局最後の最後に旬を独り占めすることを選んだ恋人は、無欲なのか、それとも誰よりも強欲なのか。
 そんなことを旬が考えていると、目の前にイグリットの大きな手が差し出される。
 姿勢は跪いたまま。
 王に何かを献上するように恭しく出された手には花束が握られている。花の種類なんて知らない旬でも知っている、春の花の代表ともいえるそれは、さっき葵から聞いて初めて知った旬の生まれた日の誕生花。
「これは?」
 イグリットが花屋で直接選んだわけではないだろう。誰かに頼んだのか、それともどこかから摘んできたのか。
 そこで葵が言っていた言葉を思い出す。このあと会うのだろうと言っていた。あれはイグリットと会うことを知っていたのだ。
「協力者は葵か」
 旬の言葉に、花束を持つイグリットの手がわずかに震える。見上げる瞳が心配げに見つめてくるから、イグリットの中では葵を利用したことで旬の怒りを買ったのではないかと思っているのかもしれない。しかし、旬にはイグリットが利用したのではなく、葵が自らお節介を焼いたのだろうと察しがついていた。だから詮索するつもりもないし、イグリットの気持ちを量ることもしない。純粋に自分の誕生日を祝ってくれるイグリットの心を嬉しく思う。
 差し出された花束を受け取ると同時に、その首元へと腕を回して抱きつく。花束を持ったままぎゅっと強く抱きついたから、二人の間でチューリップの甘い香りが鼻腔を擽っていく。
「ありがとう」
 誕生日という特別な日だからか、いつもより大胆な行動を取っている自覚はある。だけど、今日だけは特別だと自分に言い訳をして、イグリットを自分の方へと引き寄せ、その大きな体躯の間に座り込む。
「ひとりで食べきれないからイグリットも一緒に食べないか」
 そのまま、さっきまで手元に置いてあった皿を手に取り、フォークで程よい大きさに切ったケーキを刺してイグリットの返事を聞く前に口元へと持っていく。
「あ」
 しかし、兜をしたままだったことを失念していた為に、ぺたりと口元の兜にクリームが付いてしまう。ほんの少しではあったのだが、黒い部分が汚れてしまったのだ。
「ごめん」
『!』
 だから慌てて取った行動は無意識だった。
 ぺろりと兜に付いたクリームを舐めたのだ。
 咄嗟に出る仕草や態度というものは、その人の素の部分だと言われているが、旬にとってもそれは例外ではなく。旬としては自分の指にクリームが付いたのを舐めとる感覚と同じだった。勿論、行儀が良いとは言えない仕草ではあるが、大抵の人間であれば誰かしら経験のあることだろう。しかし、それは自身の指や唇に付いたものに限る。他人に付いたものを舐める者など、そうそういないだろう。旬もそうだ。常であれば家族であっても、そんな行動を取ることなどありえないのだが、今夜はやはり箍が外れてしまっているのかもしれない。
 しかし、だからといって羞恥心の箍も外れたわけではない。
 舌先にクリームの甘味が広がった瞬間、自分のしでかした行動を脳が理解する。と同時に一瞬で頬は真っ赤に染まりゆでだこ状態、目は見開き息を呑む。密着していた体も咄嗟に離そうとしたが、それはいつの間にか背中に添えられていたイグリットの手によって阻まれ成すことはできなかったが。
「あ、これはっ」
 それでも言い訳をと、言葉を紡ごうとした。しかし、慌てる旬をよそにイグリットが取った行動は、出かかった言葉をそのまま旬の口内で留まらせた。
 兜のヒンジに指をかけたイグリットは、そのまま面頬の部分を上げ、いつもは隠れた口元を躊躇うことなく旬の前に晒す。人のように血の通った質感的なものはないが、兜を被っていない他の影たちと同様の口が見える。そのままフォークを持った旬の手を取ったかと思えば、ぱくりと存外男らしく口を大きく開けて中へと入れたのだ。
「えっ?」
 あまりにも自然すぎて、何が起こったのか分からなかった。けれども、今度はそのフォークをイグリットが驚いたままの旬の手から取ると、残りのケーキを切り分け、同じようにフォークに刺して旬の口元へと運んできたところで漸く我に返る。
「ちょっと待って……っ」
 確かにひとりで食べるには大きすぎるケーキだし、葵が言ったように誰かと共に食べるとしたら、イグリットの顔を思い浮かべ、実際に彼を喚びはした。
 しかし、だからといってこんな状況になるとは思いもしていない。
 目の前に差し出されたフォークをそのまま口に入れていいものか逡巡する旬をイグリットは急かすことなく待っている。
「自分で食べるから」
 誰も見ていないとはいえ、さすがに羞恥心がそのまま口に入れることを躊躇わせる。自分がするのと相手にされるのとはわけが違う。
 だからイグリットの持つフォークを手に取り、自分で食べようとした。しかし、それは許してくれないらしく、フォークを旬に渡すことなくじっと待っている。
 どうやらそのまま食べない限り、イグリットは梃でも動かないみたいで、観念した旬は差し出されたフォークのままケーキを口の中へと入れた。
「甘い……」
 家で食べた時はそこまで甘く感じることはなかったのに、今食べたケーキは今まで食べたケーキの中で一番甘く感じたのはただの気のせいだろうか。
 そんなことを考えている間も、イグリットは切り分けたケーキをフォークに刺して再び旬の口元へと持ってくる。それを口の中へ入れると、ケーキをフォークに刺してまた旬へと差し出してくる。
「俺ばかりじゃなくてイグリットも食べるんだ」
 親鳥のように旬の口元へとせっせとケーキを差し出してくるイグリットに、少しだけ気持ちに余裕ができてくる。そうなれば、イグリットにも食べるようにと促す。旬の言葉に一瞬考え込んだイグリットだったが、差し出したフォークを自分の方へと向け、口を開けてケーキを食べた。
 普段見ることのないイグリットの口元も珍しいが、食べる行為自身が珍しくてどうしても視線はイグリットの口元へと吸い寄せられてしまう。そして、また旬へとフォークを向けてくるので、それを何げなく口に入れたところで気付いてしまった。
(これって間接キ……っ!)
 認識した瞬間、ぶわりと顔全体に熱が広がり、頭から湯気が出るくらいに真っ赤に染め上がる。しかもイグリットは気付いていないのか、旬が食べたあとにケーキを刺して今度は自身の口元へと運んでいく。
「イグリット、それっ……!」
 声に出したはいいが、言うべきか迷う。同じフォークを使っているのにイグリットは平然としているのを見るに、もしかして意識しているのは自分だけかもしれないと、そのあとの言葉が続かなかった。
 しかし、中途半端に途切れた言葉だったにもかかわらず、僅かにイグリットの口角が上がったのを見てしまったことで、彼は既に気付いていたのだと察した。分かっていて素知らぬふりをしていたのだ。それはただ単に意識されていないのか、そもそも気にすることでもないのか。そう思ったら頬に広がった熱がさっと引いていく。自分だけが意識していたことが恥ずかしい。
 居たたまれなくて密着していた体を離そうと退いた旬の態度に、イグリットはそうではないと言わんばかりに離れようとした旬の体を引き戻す。その力が思った以上に力強くてどきりとする。旬が何を考えたのかイグリットにはお見通しなのだろう。
「……知っていたのか……?」
 旬の言葉に申し訳なさそうにしながらも首肯される。しかし、そのあとに何を思ったのかイグリットはまだ皿に少しだけ残っているケーキから生クリームを指で掬い、それを旬の唇へと付けてきたのだ。
「……ぁ……っ」
 旬が反応するよりもイグリットの方が早かった。クリームの付いた旬の唇をイグリットがはむりと喰んできたのだ。ゆっくりと味わうように、舌先でも舐め取られ、クリームがなくなってもイグリットの唇は旬の唇を何度も啄んでは塞いでくる。
「な、んで……」
 いつもと違うイグリットの行動に旬の頭の中は大混乱だ。常であれば旬が許可しなければ絶対に僭越を侵すことのないイグリットからまさかこんな大胆な行動を取られるとは思いもしない。しかし、だからといってそれが嫌だったかといえば、そんなことは全くなくて。ただ先より続く羞恥と相まって些か精神がキャパオーバーになりかけている。
「教えてくれなかったんだ?」
 そう言うと、イグリットは少しだけ瞳を揺らし、困った顔を見せる。それで彼は旬に意識してほしくなかったのだと気付いた。
 ひとつのフォークで一緒にケーキを食べる行為。
 間接的にキスをしているようで、どきどきしてしまう旬と、フォークを介したキスではなく、恋人同士で旬が願えばいつでもキスなんてできると言いたいイグリット。
 双方の認識に隔たりがあるのは経験値の差なのか。
 間接キスくらいで動揺する自分が子供っぽく思えてしまい、少しだけ拗ねた感情が湧き上がってくる。しかし、それさえも子供っぽい感情なのだろう。
「意識するなって方が無理だよ」
 イグリットにしてみれば、なんでもないことかもしれないが、旬にとっては好きな人と二人きりでいること自体が意識せずにはいられないことなのだ。それをイグリットの腕の中で抱き締められながら、このケーキのように甘くて柔らかな扱いをされる。
 再びケーキを差し出された旬は、もう本当にいろいろと無理だった。だから──、
「ちゃんと……してほしい……」
 フォークを持ったイグリットの指に自分の指を添えて、頭ひとつ分以上上にある隻眼の瞳に視線を合わせながら、戦慄く唇からはしたなくもねだる言葉を紡いでしまう。
 下げた手に持っていたフォークがカチリ、と陶器と当たる耳障りな音をさせたが、既にそれを気にする余裕はもう旬にはなかった。代わりにイグリットが旬の膝から手の届かない屋上のコンクリート地の上に皿を下げる。
 その間も視線が逸らされることはなく、皿が割れる心配がなくなったことと、両手が漸く空いたことで二人の距離が更に近くなる。
「……ん」
 寄せた唇が不自然なく重ねられるようになったのはいつからだろう。戦闘時で喚ぶ時とは違う、イグリットとの逢瀬は何度重ねてもどきどきしてしまう。今も密着した状態では、早鐘を打ったように心臓の音が酷くて、絶対にイグリットには気付かれているんだと思っている。
 柔らかく触れた唇に熱を感じることはないけれど、自分の熱がイグリットに伝わればいい。冷たい唇が徐々に自分と同じ熱を持つことに、密かに喜びを感じていることなんて知らないだろう。
 三月とはいえ、夜はまだ寒い。高層マンションの屋上に吹く夜風が二人の間を無粋に通り抜けていく。ふるりと反射的の肩を震わせた旬にすぐさま気付いたイグリットがキスを終わらせ、部屋に戻るように促してくる。
 いつもであれば、あと一度だけキスをせがんだら素直に部屋に戻っただろう。けれど、今日は一年に一度の特別な日。既にプレゼントは貰ったけれど、それはそれ。今夜は恋人の可愛い我儘くらいは多めにみてほしい。
「まだ戻りたくない」
 とん、と目の前にあるイグリットの胸に額をくっ付け、躰を離そうとした彼のマントを握り締める。まだこの場所に一緒にいたいと意思を見せれば、離れかけた躰がぴたりと止まる。そのまま動かなくなったイグリットに、やっぱり困らせてしまったのだろうかと、そろりと上目遣いで彼の顔を伺い見ようとした。
「わっ」
 突然、体がふわりと浮かんだかと思えば、次の瞬間にはイグリットの膝の上に横抱きで座らされていた。更に体が密着して視線の距離が近くなる。
「イグリッ……」
 どうしたのかと、呼んだ名前は最後まで言わせてくれなかった。視界いっぱいに広がる闇色が旬の体を包み込んでくる。
 さっきまでの表皮に触れるだけだった優しいキスが、今度は深く唇を塞いでくる。名前を呼ぶ為に開いた唇からイグリットの舌が入り込み、旬の舌先に触れる。しかし、少しだけしか開いていない唇からは、それ以上の進入ができなくて。だからイグリットの指が促すように顎を擽り、触れたままの舌先で旬の舌をノックしてくる。
「ぁ……」
 促されるままに口を開くと、よくできましたと褒めるように頬を撫でられ、先端しか触れていなかった舌がゆっくりと口内へと入ってきた。
 体温のない無機質な舌なのに、熱を感じずにはいられないのは、イグリットの想いが流れ込んできているからなのか。
 強引なところはないのに、唇を離されることなく口内をイグリットの舌が優しく翻弄していく。どうにか鼻で呼吸をして必死についていこうとするも、まだまだ恋愛ごとには慣れない旬が、旬よりもずっと長く生きてきただろうイグリットについていけるわけもなく。翻弄されたまま舌を吸われ上顎を擽られてしまえば、覚えのある熱が徐々に下腹部に集まってくるのが分かり狼狽える。
「も……、っ」
 弱々しくてもどうにか首を振って唇を離すように伝える。旬が意思を伝えれば、それに従い唇を離してはくれたが、さっきまで冷たかったイグリットの舌には既に旬の熱が移っていて、それが口内からいなくなった途端に喪失感が生まれてしまう。
 結局、名残り惜しくて旬から再び唇を寄せてキスをした。その時に伸び上がらないとイグリットの唇まで届かないから、首元へと腕を回して引き寄せるようなキスになったことも、それが勢いすぎてバランスを崩した旬がイグリットの膝から落ち、背中を地面に打ちそうになったところで、それをイグリットが支えて二人して倒れたことは不可抗力だった。
 それでもイグリットが咄嗟に手を回してくれたおかげで、背中に痛みはない。しかし、支える為とはいえ、背中に回した腕とは反対側の手が旬の顔の横に突かれ、覆い被さるような体勢になってしまっているのは予想だにしていなかった状況で。
 時が止まったかのように二人して見つめ合うこと数秒。
 先に我に返ったのはイグリットの方で、すぐさま旬の上から退こうと上体を起こそうとした。
 しかし、旬がそれを止める。
「このままで」
 イグリットの首に回したままだった腕に力を入れて引き寄せ、至近距離にあった唇の端にキスをした。
 旬の背中を支えている手に一瞬、力が入った気がしたが、再び塞がれた唇の熱に意識はそちらへと奪われていく。
 閉じていた瞼を薄っすらと開ければ、イグリットも旬を見つめていた。自分だけを見つめてくる瞳が嬉しくて、安心して再び瞼を閉じ、彼が与えてくれる情に身を任せた。
 ふと夜風に紛れて柔らかな甘い香りが近くから流れてくる。唇は触れたままに息を継いだ間で香りがする方へと顔を横に向けると、そこにはイグリットから贈られたチューリップの花束があった。そっと手を伸ばす。
 旬の意識が花へと移ったことに気が付いたイグリットが唇を離したタイミングで旬の手は花へと伸ばされ、二人の間に引き寄せる。
「あとで母さんに花瓶を出してもらわないとな」
 誕生日だからイグリットにも祝ってほしいとは思っていた。言葉を介しては無理でも抱き締められてキスをしてくれたらいいなとも。それなのにまさか花なんて用意してくれているとは思わなかった。それも旬の誕生日の花を。
「嬉しかった」
 一日の最後に恋人と二人きり。
 一つのケーキを二人で食べて、キスをして抱き締めてもらえた。
 来年もイグリットと共にいたいと思う反面、それが叶うかどうか、旬が置かれている今の状況を思えば断言できるほどの確信が持てないのも事実だった。
 ゲートのこと、支配者のこと、君主のこと。
 何も分からないことだらけで、明日の自分の行く末さえ不明瞭なのだ。イグリットと共にいられるかなんて旬にも分からない。
 それでも願わずにはいられない。
 それに言葉には魂が宿るという。叶えたい願い事は声に出した方がいい。
「来年もイグリットとこうして誕生日を過ごしたい」
 “過ごせればいいな”ではなく“過ごしたい”。
 こう言えばイグリットは必ず叶えてくれる。彼は従者としての時も恋人としての時も絶対に旬の願いを違えることはないから。
 隻眼をしっかりと見つめながら伝えれば、ほんの僅かだがイグリットの目が見開かれたのが分かった。本当に些細なほどの変化ではあったが。
「イグリット、どう……」
 どうしたのかと問いかけようとした言葉は、彼の唇が額に触れたことで途中で消える。
 このキスの意味は知っている。物言わぬ彼が触れた場所で何を伝えようか分かるから。
 額へのキスは“祝福”。
 旬が生まれてきたことへの祝辞。
 柔らかく触れた唇から伝わる感情が旬の心を暖かく満たしていく。
「イグリット、大好きだよ」
 瞼を閉じて祝福を受け入れていると、自然と言葉が出てくる。
 旬の言葉に、額に触れていたイグリットの唇が離れ、再び唇へとキスが落ちてくる。
 今度のキスは“愛情”。
 自分も旬のことを愛していると伝えてくる。
 だけど、その愛には続きがあって。
「んっ……」
 触れるだけの優しいキスから、段々と深くて欲を誘うキスへと変化する。
 それに抗う術など旬にはなく。
 冷たいコンクリートに横たわる旬の体をふわりと抱き上げられても、そのまま再びイグリットの膝の上に座らされても身を任せるまま。
 二人の間にあった花束はいつの間にかケーキの乗った皿の近くに置かれている。
(一緒だな)
 皿の上には二人を模したマジパンが寄り添うように乗っている。それは今までとこれからの自分たちの姿にも見えて、自然と笑みが浮かんだ。
『?』
「あとで残ったケーキ、食べような」
 どちらがどちらのマジパンを食べるのか。
 勿論イグリットの返事は聞かなくても分かる。
 だけど、それを敢えて食べさせてもいいな、なんて少しだけ意地悪なことを考えてしまう。
 それが顔に出てしまっていたのか、それとも旬の意識が他へと移ったことを咎めたのか、その後、他に意識を向ける余裕なんてないくらいにイグリットに翻弄されたのは言うまでもなく。そして、その意趣返しにと、やっぱりイグリットには己のマジパンを食べさせようと心に決めた旬であった。

 上着のポケットの中で携帯電話の画面が灯る。
 スケジュールのメッセージが日付が変わったことを静かに教えていった────。

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 旬のお誕生日SS。二か月遅れで漸く完成させることができましたーっっ。
 当初はイグリットに誕生日を祝ってもらって、いちゃいちゃするだけの話だったのですが、ママと葵ちゃんにも祝ってもらいたいし、やっぱり賢太たち我進ギルドのメンバーにも祝ってもらいたい、。ってことで、こんな長々とした話になってしまいました。
 作中にも書いてますが、三月八日の誕生花はチューリップです。
 チューリップの花言葉は「博愛」「思いやり」。だけど色によって花言葉は変わってきます。また、花束にする本数にもメッセージがあるそうです。
 イグリットが旬に贈ったのは三本のピンクのチューリップ。
 葵ちゃんに調べてもらったのか、イグリットが知っていたのかはご想像にお任せします。
 因みにチューリップのお代はダンジョンで見つけた珍しい鉱石。葵ちゃんに渡して、どうにかこうにか説明して、花束を買ってきてもらったというところです。
 その後、花瓶を発見した葵ちゃんにチューリップの花言葉や花束の意味を聞いて、顔を真っ赤にする旬がいますが、それはまあ割愛です。
 そして今回は私が書くにしては非常に珍しく積極的なイグリットでした。

2024.05.11

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