── 沖の屋
ダンジョンにて
ゲートを潜るとそこは今まで入ったことのあるどのダンジョンとも違っていた。
入る直前に感じた異質な空間は、以前あったレッドゲートの時と同じく、青白く発光していた空間を突如として不吉な血のような、身体に纏わり付く紅い光を辺りに放電していた。
空間の歪みを感じ、回る視界を正常に戻す為、一呼吸の後瞬き一つで正面を見据えた時には既に歪みは消え、全くの異空間がそこには広がっていた。
前回は極寒の吹雪の中に放り出されていた。
今回も纏う環境はあまり宜しくはなかったが、前に比べれば許容できる範囲であった。
自分たちのいる世界の所謂熱帯気候辺りに位置付けられるのだろうか、頭上には鬱蒼とした木々が覆い尽くし、足下は絡み付くような草が降り頻る雨の中生い茂っていた。
気温はそこまで高くない。せいぜい日本の猛暑と呼ばれる位の暑さだろう。但し、雨が降っていることもあり、息苦しい程の湿気が旬の不快指数を上げていた。
今の自分は黒のスーツにネクタイをきっちり締めており、横殴りに降る雨が否応なしにスーツに染み込み、べったりと肌に張り付いてくるのも拍車をかける。
戻ろうにも既にゲートは閉じてしまい、ここのボスを倒さなければ外に出ることもできない。
レッドゲートの中はゲート外よりもずっと時間が経つのが早い。此方で何日も過ごしたとしても外では数時間しか経っていない。
少しくらいのんびり狩ったとしても外での影響は酷くなることはないだろう。
「それでも」
今までとは違う。
家では母が帰りを待ってくれているのだ。
いくらハンターを続けることに反対されなかったとしても心配はかけさせたくない。
ここのボスが一体何処にいるか今の時点では全く分かりもしないが、何もせずとも向こうから何かしらの動きは見せてくれる筈だ。
「来たか」
そんなことを考えていると目の前に広がる樹々の間から異質な気配を感じ、それと同時に呪術めいた面を付けた巨大なモンスターが現れる。
紅く異様に光る目は、的確に旬を捉え、速度を上げて此方に迫ってきた。後ろには同じ様な紅い光が無数に見える。
「さて、今回のゲートはどのくらいのモノか」
言い終わらない内に自分の影から伸びた刃が目の前のモンスターを貫いていく。
どうやら今見えている敵が自分に回ってくる事は無さそうだ。
自分の横を通り過ぎていく影たちを眺めながら、きっちりと締められているネクタイの結目をゆっくりと緩めたのだった。
いつの間にか雨は止んでいた。
此方の時間にして数時間、現実世界では数分くらいだろう、襲ってくるモンスターを粗方片付け、今は小休止といったところか、一旦は襲撃の波が引いたところだった。
「うえっ、あのスライム、最期に妙なモン飛ばして来やがって」
熱帯性の世界だけあり襲ってくるモンスターは昆虫、爬虫類系が多く、その殆どが即死級の毒性を持っていた。ただ、旬はカンディアルの祝福を受けている為、一瞬の内に死に至らしめる毒であっても瞬時に解毒され身体に残ることはない。しかし、物理的に被ったものについてはその限りではなく、防具で幾らか軽減されているとはいえ付着した体液は衣服を汚すし、切り裂かれた部分は修復されることもない。
先程も不定形流動体、所謂スライムからの粘液性の毒攻撃により頭から諸にそれを被ってしまい、只今全身べったりと貼り付く体液で不快指数が最高潮まで達していた。
「次出てきたら瞬殺する」
油断していたわけではなかったが、無機質故か気配が全く無く、複数の巨大な蛟からの攻撃を躱し、跳躍と共に自分の周りにいた全ての敵に急所を突き、そのまま着地したと同時に前述の通り、頭からスライムが覆い被さってきたのであった。
「取り敢えず、この粘液だけでも如何にかしてえ」
周りは生茂る樹海。これだけの樹が育つのであれば、何処かに水源がある筈だ。
ボスを探すついでに水のある場所も探してみる。見つからなければ見つからないで水属性の扱える影に一発当ててもらえればいい。
「探すよりもそっちの方が手っ取り早いか?」
今まで火炎属性の魔法しか扱っているところを見たことがないから、果たして水属性の扱える魔法使いがいるかは分からないが、最終、キバならどんな魔法でも扱えそうだし、キバに任せてもいいか、と半ば影を喚び出す方向へと考えていたところ、急に視界が開け目の前には樹々の色を映したかのような深い翠と吸い込まれそうな蒼が広がる泉のような場所に出た。
泉の大きさは然程大きくはない。但しその大きさに比べて中心はどのくらいの深さがあるか分からない程深い蒼色をしており、ひと度深みに入ってしまえば容易に抜け出せそうにはなかった。それでも自分の立っている場所は泉の際である為、精々膝の上辺りの深さのようだ。
見た限り毒素は含んで無さそうだし、モンスターの気配も今のところこの辺りではしない。
「って事で、取り敢えず」
着ていたスーツの上着を剥ぐようにして脱いでいく。べったりと付いた粘液は思った以上に粘着力があり、袖を抜くのにも一苦労する。
「このスーツはもう使えないな」
然程高いものではない為、処分することには躊躇いは無いが、果たして着替える服があるかどうかだ。
「インベントリ」
空間に向かって声に出すと、無機質なパネルが宙に現れる。そこから衣類に関する項目を選択し、適当なものがないか探していく。
「シャツとパンツさえあればいいか」
全身雨水と粘液とでどこもかしこもずぶ濡れ状態で、本音を言えば下着から何から替えたいが、流石にショップに下着までは置いてない。
適当なモノを選びながらネクタイを取り、Yシャツのボタンに指をかけていく。
上半身の衣類を全て脱ぎ捨て、パンツのベルトに指をかけたところで少し躊躇する。
今この瞬間は敵の気配を感じはしないが、流石に裸同然の時に襲撃されるのは色々と困る。
そう思ったら、自然と声に出していた。
イグリット
タンク
考えてこの二体にした訳では無い。
ただ何となく、アイアンは元人間で、ベルは人語を操る。そこに引っかかるものがあったのかもしれない。
キバの炎は、火力が強過ぎて森を焼き尽くしてしまうかもしれず、実際先程の戦闘でも、雨が抑止力になってくれただけで、そこら中が炭化していたことには変わりなかった。その辺りの懸念があって、イグリットとタンクを喚び出したのかもしれない。
喚び出しながら残りの衣服を脱ぎ捨てると多少なりとも気持ち悪さも軽減される。
「タンクは周辺から敵が出てこないか見廻ってて。特にスライム要注意」
気配がない分、旬自身も近距離にならないと気付けない。二度もあの粘液を被るのは勘弁願いたい。
旬の傍で跪く影に下命すると、大柄な方の影が音も無く姿を消す。
「イグリットはそうだな……」
残ったもう一体の影にそう言い差し置くと、脱いだ衣服もそのままにザブザブと泉の中に入って行く。
水は思った程冷たくはなく、水底が見えるくらいには透明度があった。足裏に伝わる感触に掌くらいの大きさの石が敷き詰められているようで、表面には水苔が生えているのか、所々深く淡く苔生していた。
身体に纏わり付く粘液を洗い流し、序でにまた身に付けなければいけないであろう下着類も適当に洗っておく。ギュッと絞り余分な水気を払うと岸辺の濡れていない場所で一旦乾かしておく。
乾かなくても後でキバの魔法で水気を払ってもらえればいいだろう。
そんなことをつらつら考えていたら、未だ自分の命が下るのを静かに待つイグリットの姿が目に入る。
「イグリット」
探索はタンクだけでも事足りそうだったが、喚び出した手前やっぱり戻っていいと言うのも気が引け、取り敢えず跪くイグリットの傍まで近付いて行く。
主に呼ばれたイグリットは、恭しく頭を上げようとして目の前の旬を見上げた途端、一瞬肩が揺れる。
ほんの一瞬のことでよく見ていなければ分からないくらいの動きであったが、旬にはイグリットの異変が目に見えて分かった。ただ、自分の何を見て動揺しているのかまでは定かではない。
疑問に思いながらも、インベントリから出した大判のタオルで身体を拭きながら足を踏み出した時、苔に濡れた石に足を取られ、そのまま後ろ向きに身体が倒れていく。
咄嗟のことで反射的に滑った足とは反対側の足で踏み止まろうとしたが、其方の足下の石にも苔が生えており、同じく足を取られてしまう。
そうなれば、後は重力に従って倒れるしかなく、まあ水の中だし酷く打つこともないだろうと、他人事のように自分の身体を冷静に見ていた旬であったが、何時まで経っても痛みがくることも水中に沈むこともないので、不思議に思い顔を上げてみると、そこには先程まで岸辺で自分が来るのを恭しく待っていたイグリットの顔が見えた。
命令を出してもいない、意識もしていなかった筈なのに影自らが動いたことが予想外で思わずきょとんとした顔を向けてしまうが、数瞬後には自然と笑みが浮かんだ。
そう言えば、悪魔城でのダンジョンの時も何も言っていないのに悪魔の首を自分の前に差し出してきたかな。
あれは本当に勘弁してほしかったが。
それを思うと影たちには意思があり、自らで行動することもできるということなんだろう。
何時までも動かない訳にもいかず、イグリットの手を借りながら体勢を整え、改めて正面にいる自分の影を見上げる。
自分より頭一つ分以上背の高い影は、自分の行動が主の癇に触っていないか気になるようで、表情はなくてもソワソワした気配を感じる。
敵として合い見えた時は、騎士道精神と容赦のない冷徹なイメージが強かったが、使役するようになってから実はとても思慮深い性格ではないかと密かに思っている。アイアンにはない細やかさがある。
「折角身体を拭き終わったところなのに、また水濡れになるところだった。ありがとう」
見上げるように視線を合わせ、助けてくれたことに感謝を述べると、不安そうな気配が一瞬にして払拭され、嬉しそうな気配に変わる。相変わらず、表情はないのにイグリットの心情が分かってしまうことが可笑しくて、ついつい笑みが浮かんでしまう。
そこでふと、影たちの感情の気配がわかるのだったら、先程のイグリットの見せた動揺は何だったのだろうと気になり、序でとばかり聞いてみることにした。
「そういや、さっき何で俺を見て動揺したんだ?」
純粋な好奇心だった。何せ何時も冷静なイグリットが一瞬であっても動揺を見せたのだ。気になり出したら聞かずにはおられなかった。
だからまさかその問い掛けに再度固まるイグリットを見るとは思わなかったし、そんなイグリットを見て不自然に自分の鼓動が跳ねたことにも驚いた。
だが、跳ねた鼓動の理由を深く掘り下げるのは何となく良くない気がして──。
結果、気付かないフリをした。
「イグリット? ──っって?!」
何時までも動かない影に、覗き込むようにして名を呼んでみた。その途端、弾けたように自分から距離を置いたイグリットに益々意味が分からなくなる。
「おい、イグリッ──」
尚も問い掛けようと名を呼ぼうとしたが、それよりも鋭く敵の気配を感じ、反射的に気配のした方へ意識を向ける。距離はまだ大分ありそうだが、確実に此方に近付いて来てることがわかる。
イグリットに聞きたいことはどうやらできそうにないと判断した旬は、一つ嘆息すると岸辺に足を向かわせる。
イグリットは既に臨戦態勢に入っている。
主を衛る為に盾となるべく気配を探知している。
その切り替えの早さに苦笑を滲ませるが、自分もこの状況で話を蒸し返そうとは思わないし、さっさと身支度をして敵を迎え打てる状態にしないと今の格好では様にならない。
「タンク、戻って来い」
新しくインベントリから出した衣類に素早く着替え、濡れた髪を掻き上げながら、邪魔な前髪を後ろに流す。
喚ぶと同時に戻ってきたタンクは、同じく喚び出した他の影たちと合流し、主の背後で臨戦態勢をとっている。
敵の気配はもう目の前だ。
一時の休息に心が安らいだが、ここはレッドゲートの中。ボスを倒すかダンジョンブレイクが起きない限り現実世界へは永遠に帰ることができない。
倒せない不安はない。
それよりも自分を満足させてくれる程の敵が現れるか。
ふと視線を感じ隣を見ると、物言いたそうなイグリットの目と合う。
「分かっている。今回は早々にボスを倒すさ」
何せ主要道のど真ん中にできたゲートだ。
此方で何日か経っていたとしてもゲート外では数時間しか経っていない。それでも、人の多い場所で数時間も封鎖すれば色々と支障をきたす。
何時もみたいにレベルを上げる為に敵を狩り尽くしていたらどれだけ時間がかかるか分からない。
そろそろここのボスにもご登場願おうと、目前の茂みから飛び出してきたモンスターを一瞬にして葬ると、冷たく光る瞳を樹海向こうの空に向けたのだった。
薄暗い空からはまた大粒の雨が降りだし、旬の姿を周りから烟らせていった────。
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初俺レベSS。
リハビリがてらに書いたものなので、いろいろと居たたまれないところがあって読み返せない。
描写が古臭くて恥ずかしい。
初出:2020.04.11