── 沖の屋
たまにはいちゃいちゃしてもいいじゃない
ようやく寒さが和らぎだした季節。穏やかな陽射しが訪れたことを窓辺からも知れる。
ぴちぴちと部屋から見える木の枝で戯れるスズメの可愛らしい声を聞きながら、旬は久し振りに何もない時間を過ごしていた。
今はまだ正午にもならない時間。
妹は学校。ギルドからゲート落札の連絡も今のところはない。洗濯物も家の中の掃除も終わらせ、インターネットからの情報も特に目新しいものを見つけることはできなかった。
やるべきことはほぼ終わらせてしまっては、あとは何もすることがない。特段趣味があるわけでもないし、暇だからと付き合ってくれるような友人もいない。
「こんなに時間を持て余すことってなかったなあ」
今まで家族のためにがむしゃらに働いていた。
母の治療費、妹の学費。何も持っていない自分が稼げる額なんてたかがしれていた。
それでも立ち止まるわけにはいかなかった。這いつくばってでも家族を守らなければならなかった。
だから今の旬を取り巻くこの状況にはいまだ信じられなかった。
絶えず成長し続けるハンターとしての力。聞いたこともないようなスキルと自分だけに傅く影の兵士たち。そのどれもが朝起きたらすべてが夢で、自分はやっぱり人類最弱兵器と呼ばれていた頃のままで、手の中に入れたものはなかったことになっているかもしれなかった。
こんなことを考えるなんて、強くなった分だけ臆病にもなってしまったのだと思う。
今までは家族だけがいればいいと思っていた。
大切なのは母と妹。そして、いまだ行方不明なままの父。
家族がいれば失うものがあっても恐れはなかった。
それ以外は自分の人生の中には必要のないものだと言い聞かせていた。そうでもしなければ、なんの能力もないちっぽけな自分がこんな弱肉強食の世の中で大切なものを守りながら生きられるわけがなかったから。
それなのに。
必要のないものだと排除していたものだったのに。
心の片隅に家族以外を想う場所を作ってしまった。
ただし、相手が守るべき対象ではないことが唯一の救いと言えたのか。自分の方が守られる対象で、彼にとっては唯一無二の存在で。
だからこその悩みもあったし、苦労もあった。後悔だっていっぱいした。心の中に場所なんて作らなければよかったと思ったこともあった。
でも、それらすべてを乗り越えて、ようやく終着点に辿り着けたし、新たな出発点に立つことができた。
「やらなければならないことは、まだまだ山積みではあるけれど」
母の病を治す糸口が見つかった。ゲート攻略をすることで報酬が入るようになった。
少しずつ、取り巻く環境が変わってきている。その変化に飲まれないようにしなければ、少しでも隙を見せてしまえば大型の肉食獣に食われかねない。
だけど、ぽっかりと時間ができてしまった今日みたいな日くらいは、本来の自分に戻っても罰は当たらないと思う。思いたい。
「それこそ好きな人に甘えたっていいよな」
ぽそり、と呟いた言葉は、この部屋にいるもうひとりの人物に向かって言った言葉で。
自分の言葉の同意を求めようと視線を向けるのと、相手の腕が旬を抱き寄せるのとが同時になる。
自室のフローリングに敷かれたラグの上に座っていた旬を背中から抱き締めて、襟足が少しだけ長くなった後ろ毛の隙間から見える首元に、柔らかなものが押し当てられる。
「くすぐったい」
そこからいくつものキスが首筋から頬に瞼にとまわってくる。触れては離れ、離れては触れてと、まるでふわふわと花の上を舞う、白い小さな蝶のように。
「イグリットは俺を甘やかすのが好きだよな」
旬がくすぐったさに笑いながら首を竦めれば、頬に触れていた唇を離し今度は髪に触れてくる。さらさらと流れる黒髪をゆっくりと梳き、時々髪の生え際辺りを指の腹で撫でていくのが気持ちいい。もっと触っていてほしくて甘えるように背中をイグリットに預ければ、頭の上にキスが降りてくる。
「どうした?」
何か言いたそうな雰囲気を察して、そのまま上を向けば重力で流れた前髪から見えた額にもキスをされる。そしてまた顔中に小さな蝶々が舞い降りてくるのに、とうとう笑い声を上げてしまった。
「いいよ、お前も甘えて」
先の旬の言葉にイグリット自身にも思うことがあったのか、しかし、それを本気で受け止めていいのか分からなくて、旬の反応を気にしながらのキスをしてくる。彼の姿からは似つかわしくない可愛らしく柔らかいキスが何度も何度も少しの躊躇いを見せながらされるのに、そのキスの意味をされた本人が気づかないわけがない。
今ここにいるのは彼らの影の君主ではなく、恋人とのひと時を満喫している二十三歳のただの青年である水篠旬なのだ。
預けていた背中を浮かせ、くるりと体ごとうしろを振り向く。膝立ちをしても目線が上になるイグリットの顔を両手で挟み、さっきまで自分がされていたように顔中にキスを降らせていく。
「おかえし」
どの順番でキスをされたか覚えている。順番の意味も。
言葉が喋れない分、イグリットは行動で示してくれる。何を想っているか。何を考えているか。
そして、そのキスよりも彼の想いを雄弁に語ってくるのが冑の奥から見つめてくる瞳だった。
慈愛を込めた柔らかな時もあれば、激情を抑えたように荒々しい想いを見せてくる時もある。その度に胸が温かくなったり、苦しくなったり、今まで湧き上がったことのない感情の波が旬の体の中に押し寄せてくる。
だから押し寄せる波を共有したくて、イグリットからもらったキスを同じように返せば、その意味を知る彼の瞳が細められる。
(飲み込まれそう)
淡く優しく緩められた眼差しの筈なのに、旬の心の奥底まで見通す光に差されたようにも思えてしまい、思わずふるりと背中が震える。でもそれは恐れからではなく、イグリットの意識が自分にだけ向けられていると思わせてくれる高揚感からで。
「今日ずっとこのままでも?」
自室の床の上で恋人に体も心も何もかも預けてくっついて座って。読みかけの本をパラパラと捲り、時折り砂糖とミルク多めのカフェオレに口をつける。
唇に付いたその甘いカフェオレに誘われて、時々白い蝶々が一匹止まっては戯れていく。その児戯めいた遊びが楽しくて、さっきまで暇を持て余していたのが嘘のように時間が流れていった。
「たまにはこんな時間の過ごし方もいいな」
目まぐるしく過ぎ去っていく日々のほんのひと時。
きっと次にこんな時間を取ることができるのは当分先のような気がする。
だから今だけ。
イグリットと二人だけの空間で、互いに誰にも見せたことのない甘えたがりな姿を見せ合って、二人だけの時間を満喫する。しかし──、
ピロン。
そろそろ夕方に入ろうとする頃。旬の携帯電話にメールの受信音がひとつ鳴る。
それは、恋人たちの時間の終わりを告げる音でもあり。
「ゲートが開いた」
旬の言葉にイグリットの瞳から甘やかな色が消え、清廉とした湖畔の静けさを湛えた色に戻っていく。旬の体に触れていた手がそっと外され、いつもの忠臣としての距離になる。
「待って」
傅き首を垂れたまま影の中に戻ろうとするイグリットを呼び止める。
「今からゲートに行くんだぞ?」
名残惜しむことなく影の中へと消えていこうとする恋人に少しだけ非難めいた口調と視線を送る。切り替えの早さは戦場においては称賛されるかもしれないが、恋人との別れ際ではまったく無粋でしかない。
傅くイグリットの正面に立ったままでいると、ようやく旬の言いたいことに気づいたのか、イグリットが戸惑うように見上げてくる。しかし、その瞳はすでに従者としての色しかない。
こうなればもう恋人としてのイグリットを求めることはできない。仕方がないと吐息を洩らして影に戻るようにと手を振り、旬はゲートの詳細な場所を確認するために携帯電話へと視線を向けた。
その手を取られたのはすぐ後だった。
掬い取られた手に驚いて咄嗟に振り向けば、影の中へと戻ったはずのイグリットがそこにいる。
「どうし……」
言葉は最後まで言えなかった。
旬の手を取っていない方の手指が顎に添えられる。あ、っと思った時にはイグリットの顔が目の前にあり、次いで唇を柔らかく塞いでくるものがあった。
「んっ」
何が起きたのか分からず驚いて動けないでいると、触れていたものは頬に移り、そのまま指の上にも触れてきた。
まさか従者の時にイグリットが触れてくるとは思わなかった旬は、完全に油断していた。真っ赤になった顔を隠すこともできず、潤みそうになった目でイグリットを睨み付ければ、その瞳が意図的に細められる。
「ずるい」
拗ねた口調でそれだけを言うと、旬からもイグリットの唇へとキスをする。
「行くぞ」
甘やかさも可愛げもない、ただ触れるだけの拙いキスだった。
自分が描いていたキスと違うことに一気に恥ずかしくなって、イグリットから顔を背ける。携帯電話だけをポケットに突っ込み、玄関へと急いで向かう。頬から耳までが熱を持ったようにじんじんとした。
靴を履き玄関の扉を開ける。一度だけうしろを振り返れば、そこにはすでにイグリットの姿はなかった。
そのことに少しだけ寂しく思いはしたけれど、同時にほっとする。そして、心はそれよりもずっと満たされていた。
世間一般の恋人同士とは違う形だけれど、今の自分たちはこれでいいと思った。
旬にはやらなければならないことがある。それには騎士であるイグリットを筆頭に彼ら影の兵士たちの力が必要なのだ。
絶対的な服従と主従関係。
しかし、その関係のほんの少しの間だけ、一瞬でもいい。今日みたいに心を重ねることのできた相手と過ごすことを許してほしい。
ずっとひとりで何もかもを背負うことになった自分が家族以外に心を許すことのできた相手、唯一甘えることのできる場所。
「行ってきます」
そっと呟けば、風に流れた一条の紅が頬を掠めていくのが見えた気がした。
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Xで旬とイグリットのいちゃ甘なんて想像つかない~、って呟いたところ、反応をいただきましたので、想像がつかない二人のいちゃ甘を書いてみました^^;
私の中ではイグリットがどうにも恋人として積極的に動く性格をしておりませんで。
別に旬に関心がないとかでなく、激重感情を持っているけど、従者としての自分と恋人としての自分に折り合いがつけられないというか、不器用というか。主君に性的な欲求を覚えるなんて臣下としてあるまじき所業! とか思っているタイプでして……。
取り敢えず、普通の恋人同士でもしなさそうな砂糖吐くくらいの余暇の過ごし方と、行ってきますのチュウが書けたので、今回はミッション達成ということで^^
2025.04.21