── 沖の屋
145話 ─ 中段 ─
── side.旬 ──
漸く助け出すことができた賢太だったが、その体力は既に事切れる寸前であった。
瀕死の状態ではポーションで回復するすることもできず、頼みの綱である回復魔法が使えるベルは家族を護る為に日本に置いてきている。
早急に治療を受けなければ命に係わる事態に、旬は己の影に賢太を病院に運ばせることにする。人成らざる者が突如現れれば現地が狂乱状態に陥ってしまう恐れもあったが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
影の中で最速のカイセルを喚び出し、それに続いてイグリットの名を喚ぶ。
間を置かずして二体の影が旬の下へと参じ、主の命令を待つ。イグリットに賢太を託し、一番近い病院へと運ぶように伝える。彼であれば人外であっても人間たちに上手く賢太を治療させることができるだろう。
そう思って喚び出した筈だったが、どうしてだかイグリットの顔を見ることができなかった。
自分を見つめるイグリットの視線。この視線は以前にも寄越されたことがある。あの時は高校で起こったダンジョンブレイクで葵がハイオークに襲われた時だった。
葵を襲ったハイオークに対する怒りが理性を凌駕し、周囲の全ての音が聞こえなくなっていた。意識が全てハイオークへと向き、あらゆる感覚が殺意へと変換された。外部からの刺激もシャットダウンしていた己は、あの時イグリットが何を思って触れてきたのか気にすることもできなかった。
そして今回の襲撃も。
自分の中で抑え切れない殺意が渦巻いていることを自覚している。自覚してはいるがそれを収めるつもりも毛頭なかった。
それなのにそんな姿をどうしてかイグリットには見せたくなかった。
理性を失い殺意だけが渦巻いた己の姿を見たイグリットが何を思うのか。どんな目で自分を見ているのか。
自分が巻いた種であるのに、イグリットが自分を見る目が怖くて堪らなくなる。殺意の赴くままに復讐に目が眩んでいる自分に対し、見上げた先にある瞳が嫌悪の色に染まっていたとしたら。
だからあの時もそう。そして今回も。
醜い感情に支配された己を見られたくなくてイグリットを自分の下から外した。勿論、身内にも近しくなっている賢太を何の憂いもなく手放しで任せられるのがイグリットだからというのもある。しかしそれは言い訳に過ぎないと分かっている。
そんなことをしても己と影とは繋がっている。殺意の纏った感情を隠し通せる筈もないのに、無駄な悪あがきをしてしまう。
けれども、あの時気付けなかったイグリットから伸ばされた手を今回も同じように差し出されたのなら、或いは自分は少しでも理性を取り戻せるのかもしれない。
そんなことを考えながら、賢太を手渡す時に少しの期待を込めてイグリットを見上げた。
しかし返された視線は、どの影が寄越すものと同じ、主へと絶対的な忠誠を誓う感情のない瞳だった。
どくり、と鳩尾におもりを落とされたような痛みが走る。
賢太を受け取り腕に抱いたイグリットはそのままマントを翻し、呆然としたままの旬に目を呉れることなく背を向ける。指先は一度も触れ合うことなく、カイセルに飛び乗った彼は、そのまま曇天の空へと飛び去っていった。
空を切った指先は小さく震えていたが、それを振り払うように固く握り締める。
そして胸に走る痛みも感情も全て殺して、同じく自分へと殺意を向けてくる相手に向き直ったのだった。
── side.イグリット ──
主君に名を喚ばれた時、ああ…、と諦観にも似た思いが心の内に吹き荒れた。
またしても自分は主君の大事の時に、側に侍ることすら許されないのだと、込み上げる感情を必死の思いで深く深くどうにかして抑え込ませる。
状況はあの時、主君の妹御がダンジョンブレイクによって魔物に襲われたときと酷似している。違いがあるとすれば、今回の方がより深刻な状況下にあるということ。
我々影が主君の従者として仕える前から主君と親交のある人間 ─ 諸菱賢太 ─ が拉致され、命に関わる程の深い傷を負わされた。一目見ただけでも早急に処置をしなければならない状況下であり、主君は直ちにポーションを賢太に飲まそうとした。しかし賢太の体力は深刻なほどに低下していた。
通常余程のことがない限り傷付いた身体はポーションで回復できるが、賢太の負った損傷はポーションでは補えない程に深かった。それ故にポーション以外の、それこそ治癒魔法で一刻も早い治療を受けさせなければならない。
しかし本来であれば主君が適切な施設へと連れて行くところが、今は状況が状況である。賢太を瀕死に追いやった男は主君の足元にも及ばなかったが、先程現れた男はそれよりもいくらか大きな魔力を有していた。恐らく主君を除けば人間界では最上位に位置される力の持ち主であろう。しかし、それでも対峙した瞬間に分かる。この男も主君には絶対に敵わないと。
しかし、主君は噴き出した怒りを収めることなく、今度はその男へと憎悪にも似た怒気を向けられる。最早、先の男など眼中にもないと言わんばかりに無造作に投げ捨て、今は眼前の男が主君へと向ける殺気を正面から受け止められている。そして自身も同じく男へと殺気を向けていく主君に咄嗟に駄目だと叫ぶも、未だベルのように声を出すことのできない己の言葉は主君へ届く筈もなかった。
そう、あの時と同じ。
己の想いも願いも、もう主君には一切届かない。主君の視線は目の前の男だけを映している。
伸ばしかけた腕は途中で止まり、そのまま勢いを失い空を切り、躰の横で虚しく拳を握った。
自分は何をしようとした?触れたところで先の襲撃時の二の舞になるだけ。それに僭越を侵してまで主君に触れて一体何を期待していたのか。あの時でさえ己の存在など見向きもされなかったくせに、性懲りも無く自分の存在が主君の琴線に触れるのではと自惚れそうになった。自分など主君の駒の一つでしかない、唯の従者に他ならないというのに。
『っ』
改めてそのことを自覚した心が分不相応にも痛みを感じたが、振り払うようにマントを翻す。心を持った駒の行く末など奈落の底でしかない。永遠に光など見ることもできない場所で生き地獄を味わうだけだ。誰が好き好んでそんな苦行を強いられたいと思うだろうか。
しかしそう思う感情とは裏腹に、そんな苦しみを味わいながらも失いたくない想いではないのかと、もう一人の自分が唆してくる。大いなる力によって作用されることのない、主君を一途に全てを捧げることのできる想い。影の君主と従者という関係から生まれた幸福感とも言える感情ではなく、それよりも深く重く主君を想う気持ち。
もしも今、影の君主との契約の鎖が切れてしまったとしても、己の意志で主君の側に侍り、己が消えるその時まで主君を想い慕えるのであれば、それはどんなにも甘い誘惑だろうかと思う。けれども現実には決してそんなことは起こりようもない。影の君主との契約が切れてしまえば霊体である己の躰は形を保つことができず、無の世界へと帰してしまう。一切の例外などない。それは何ものにも代え難い程の絶望であり恐怖だ。
だからそんな事態にならぬように、影の君主の従者として徹する。
忠誠と崇拝。
それ以外の感情は全て心の奥底、二度と浮上してくることのないように深淵へと沈めてしまう。
身内とも呼べる程心を砕いた者が傷付けられたことで、主君の怒りが頂点に達してしまっている。
理性を手放した状態の主君が闇へとまた一歩足を進めていくことに言いようのない恐れが胸の中に広がるが、もうそれを諌めることも手を取り留まらせることもせずにいる。それは一従者がするには余りにも不遜で逸脱する行為に他ならないから。影は主君の命令を忠実に遂行するだけでいい。先日のように許しもなく触れるなど以っての外なのだ。
意識のない賢太を抱き抱えた主君が己に彼を預けてくる。直ぐに近くの病院へと連れて行き治療を受けさせるようにとの命を忠実にこなす為に、彼を主君から受け取る。
きっと先の自分であれば、腕を伸ばした際に主君の指先に触れて怒りを鎮めてもらおうとしていただろう。
しかし、この場に留まることを許されなかった己が何をしたところで、主君の怒りが解かれることはないと分かった今では、それよりも影としての使命を果たすべく、一切の感情を捨てることに集中する。
触れそうになった指を避けるように賢太の身体を受け取り、そのままカイセルの背に飛び乗る。
振り向いてしまえば、この場に未練が残る恐れがあった為、主君を窺い見ることなく曇天の空へとカイセルを飛翔させた。
この場は自分がいなくても主君が勝利を収められるだろう。
だから己が今するべきことは主君の命に従うこと。そして次に主君の御前に拝謁する時には私情を捨て、忠誠心のみを主君へと捧げる従者となっていること。
それだけでいい。
それだけが感情を殺した己を唯一の救いだった────。
伸ばした指と伸ばされなかった指。
その指先が次に触れ合える時が来ることは────。
初出:2022.05.15