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144話 ─ 中段 ─

 ホテルへ戻った時に犬飼から聞かされた内容は、旬の中に潜んでいる影たちにも聞こえていた。それは旬の従者として長く携わっている者程、最悪の事態を思い浮かべた内容だった。
 そう、あの時。
 旬の妹の学校でダンジョンブレイクが発生し、彼女がモンスターに襲撃された時と同じことが再び起こるのではないかと。
 主君の張り詰めた空気と抑え切れない怒りのオーラ。
 旬の怒りを直接知っている者といえば、あの時召喚されたイグリットとカイセル。そして数名の影だけだった。
 しかし、今回は違う。
 賢太の捜索の為に稼働させることのできる全ての影が召喚された。放たれる影は、さながら旬の抑え切れない感情の爆発の如く彼の身体から大きく膨れ上がり、四方へと拡散していく。
 今はまだ押し止められている旬の感情。けれども着実に極限点へと上り詰めている負のオーラ。影たちはそれを恐ろしい程に感じ取っていた。特に旬の真の怒りを知っている影たちは、これ以上主君の怒りが膨れ上がることがないことを祈り、何としても早く賢太を見つける為に誰よりも速く駆け抜けていく。
 拡散された影たちは旬の元を離れた瞬間から自分の周りで起きている全ての情報を送ってくる。人の話し声はもとより街の通りを流れる音楽から車のエンジン音。小鳥の鳴き声、飼われている犬の鳴き声等、あらゆるノイズを拾ってくる。
 千体以上もいる影からの情報が旬の脳へと一気に押し寄せてくるが、それを凄まじい集中力で処理をしていく。しかし賢太に関する情報は未だ入って来ることなく、旬の中で焦燥感だけが募っていく。
「まさか…この街の外に出たのか?」
 捜索範囲はこの街周辺としていた。いくら大きな街だったとしても今の影たちの能力であれば、人を一人探すだけならば難しくはない筈だ。
 焦りを押し殺しながら入ってくる情報に耳をそばだてていれば、丁度先程までいたハンター管理局からの声を拾う。これはアダムに付けていた影からの交信だ。
『スカベンジャーギルドのメンバーが全員移動し始めました!』
 局内の慌しい音と共にアダムの焦った声が聞こえる。そしてそれに続き、さっきは聞くことのなかった声が彼に問い掛ける。
『百人全員がか?!』
 スカベンジャーギルドはアメリカ内、否、世界でも一二を争う程のギルドだ。それが、ハンター管理局で監視しているハンターフォンから送られてくるGPSのデータがメンバー全てがこの街の一点に向かって移動していると示しているのだ。戦争でも起こすのではないかと局内に緊張が走るのも無理のない話だ。
 そしてそこに加えて、
『トーマス・アンドレも動き始めました』
 アダムの震える声が慌しく動く局内に一瞬、恐ろしい静寂をもたらしたのだった。
 旬はそこまで聞いて影たちへ新たな命令を下す。眼前には影が送ってきたハンター管理局の壁一面に映し出されている地図の電子信号が見える。スカベンジャーギルドのメンバーと思しき信号が、ある一点に向かって続々と移動している。そこは街外れにある大型の建物のようだった。
「街外れにある廃工場へ」
 鋭く発した声は誰にも聞かれることはなかったが、旬の命令を受けた影たちは瞬時に目的地を定める。
 どうか何事もなく済んでほしいと願っていたが、向かう場所の不穏さに自分で願いながらも最悪の事態を想定してもいた。
 右京将人という名を聞いた時から、男の狙いが自分であることに薄々感付いている。あの男の目的は自身の兄を殺害した犯人が誰なのかを見付けることなのだろう。そしてその犯人が誰なのか十中八九分かっている。その上で、賢太を囮にして自分を誘き寄せようとしているのだ。どこまでも卑劣なやり方だと、旬は握る拳に力を入れる。
 プツリ───。
 皮膚が裂ける感覚が指に伝わる。拳から赤い鮮血が滴り落ちていくが、それを気にすることなく影たちから送られてくる映像と音声に意識を集中する。
 時間にして数秒のこと。しかしそれさえも長く感じてしまうくらいに緊迫した空気が流れていたところに、一体の影から映像が送られてきた。
「っ!」
 今まさに賢太が右京の豪腕により鉄でできた柱に頭部を打ち付けられたところだった。頑丈な鉄骨が無惨にも折れ曲がる程の力。意識のない賢太。
 旬の中で抑えていた怒りが爆発する。もう自分でも止めることができないと、最後の理性が虚しく音を立てて崩れた。



 最初に賢太を発見した影は自分が両足で立っていることが不思議なくらい恐慌をきたしていた。己に向かって発せられた怒りでないと分かっていても、主君から噴出する凄まじい魔力にそこから一歩も動くことができなかった。躰中の震えが止まらず、さながら生前敵として対峙した時の、影の君主としての主君の殺気が全身を襲っていた。
 勿論、それはその影だけではなく全ての影が旬の怒りに身を震わせていた。自分に向けられたものではない。そうと分かっていても主君の怒りを前に彼らには為す術がなく、今自分たちにできることは一刻も早く主の下へと参じることだけだった。
 そして、かの怒りを以前にも知っている影は思った。
 あの時とは比べ物にならないくらい主君の周りに負のオーラが漂っていると。それが更に主君を人成らざる者へと変貌させる一端として担ってしまったのではないかと、参じた場所に佇む己の主の姿を見つけ恐ろしくなった。
 何故なら、もう主にはどんな声も届かないのだろうと知ってしまっているから。
 あの時も主君の理性を取り戻そうと伸ばした腕に気付かれることはなかった。
 そして、全てが終わった後に主は後悔されていた。己の中に巣食う狂気と自分の過ちに。
 今度もきっと後悔される。
 それが分かっているのに、影はどうすることもできない。ただ、苛烈に燃える主の瞳がどうかこれ以上闇へと沈み込むことだけはないようにと願う。
 朽ちた建物の入り口で震える影から現れた主君が躊躇することなく拳を振り上げたところで、影は己の思考を遮断した。
 これから起こることに感情は必要ない。必要なのは、主君の命令を忠実に従う影としての己だけだ。
 己が本分を再度身の内に刻んだ影は、剣の柄を握り締めると雑念を振り払うように鞘から剣身を抜いたのだった────。


初出:2022.05.08

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