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143話 ─ 中段 ─

 その瞬間、膨れ上がる魔力の大きさに目を細めた。
 イグリットとの時ともベルの時とも違う、明らかに強大すぎる魔力量。これが魔物の中でも頂点に立つ竜族の力の一部でしかないことに戦慄する。
 しかし、その強大な力が旬の力によって影の君主のものとして甦る。屍となった骸から立ち昇る黒い影が見る間に巨大な竜の姿を象る。そのまま激しい熱量が影竜の正面に凝縮され、施設全体がその力に大きく震動する。生前の指令を思い出した影竜がその熱を今まさに放出しようとした。
「やめろ!」
 しかし旬の一声で全てを焼き尽くそうとしたエネルギーが見る間に収束し、その後には君主に絶対的服従を誓う影の従者の姿だけが残った。
 先程の怒りが嘘のように旬へと寄せる忠誠と敬愛。そして静かに流れ込んでくる柔らかな思慕の念。影に触れたその場所から旬を包み込む圧倒的な魔力。けれどもそれは同時に安心させるように労わる力でもって、旬の頬に髪にと優しく撫ぜていく。
『新たな君主にご挨拶申し上げます』
 低く響く竜の声がここに来るまでのピリピリとした旬の感情を和らげてくれる。見つめてくる熱を持った視線が何を物語っているのか、速る心が竜へと近付く為に旬の足を一歩前に近付けさせる。
 竜帝に仕えていたという言葉に、この竜なら先の二重ダンジョンで得た記録とは別の、支配者と君主の情報を知っているかもしれない。そんな淡い期待を持った。
 直接触れる竜の躰は大きく、鼻頭に触れた旬の手は竜の牙よりも小さい程だった。あまりの大きさに、いくら仲間になったからといっても常人ならば尻込みしてしまうところだが、旬にはその圧倒的な竜の存在感が寧ろ心地良かった。
 そっと目を閉じ、意識を交わせようと身体ごと竜に身を寄せると、今までの影たちには感じることのなかった安心感が芽生える。
 しかし、そんな安らかな時間を嘲笑うかのように次の瞬間、抽出した影の姿が砂城が崩れるが如く目の前で形を失っていく。
 もっと早くに会いたかったと言う竜の寂寥と無念が伝わってくる。どうにかして消失を食い止めようと、忌々しい設計者が構築したシステムにさえ縋り付く思いで無意識に呼びかけてしまう。しかし旬の切なる叫びも甲斐なく竜は自身の最後となる主に別れの言葉を伝える。
『王と永遠の時を過ごし貴方様にお仕えしたかったです』
 敬愛というよりも愛念を込められたその声は、しかし主君へ想いを伝え切る前に大気に溶けるように消えてしまう。最後に竜の名を呼んだ旬の声が虚しく響く。
「───ッ!」
 影は跡形もなく消えてしまっているのに、影の本体は今もまだ旬の目の前で静かに横たわった状態でそこにある。それが一層に寂寞感を呼び起こし、旬の心に鋭い棘を刺してくる。
 どうしようもなく心に吹き荒ぶ悔しさに、拳を壁を打ち付けることで落ち着かせようとするも、そんなことでは到底誤魔化せることもなく、旬はアダムとハンター管理局の局長へと一言かけるとそのまま施設をあとにしたのだった。
 外に出ればあれだけ快晴だった空が今は旬の心に呼応するように、どんよりとした雲間を広がらせている。
 分かっている。竜が倒されたのはもう何年も前のことだ。影抽出は時間が経てば経つ程成功率が低くなる。ウインドウメッセージの表示の通り、死後の経過時間が長過ぎたのだ。それは旬のレベルであってもどうすることもできない現実なのだ。
「だけどっ」
 それでも自分は高を括っていたのかもしれない。最近では影抽出に失敗することなど皆無だった。だから竜の抽出も自分の今のレベルであれば易いことだと自惚れていたのかもしれない。否、実際自惚れていたのだろう。
 そう、自惚れていたのだ。圧倒的な力と旬が未だ知ることのない情報。それらが竜を影にすれば手に入ると無意識に打算的な考えでスキル使ってしまっていたのだろう。だから、そんな旬の驕った考えを天は見逃さなかったのだ。その結果、二度も竜に喪失感を与えてしまった。
 竜帝と己と。
 二人の主君との別離。
 消えゆく竜の姿は主との絆を断ち切られることへの悲しみに覆われていた。そんな顔をさせてしまったのは他でもない自分だということに旬は歯噛みする。自分が竜を欲しなければ彼は眠りを妨げられることもなく、この地で静かに骸を埋めることができていた。永遠の無に還ることもなかったのだ。
 無に還るということ。
 彼らにとってそれがどんな意味を為すのか旬は知らない。安寧の地に向かうことへの至福の時なのか、仕える主との絆を断ち切られる絶望の時なのか。
 ただ一つ言えることは、竜を失くした己の心が空虚感に襲われているということ。そして、その矛先が考えたくもない未来を思い起こさせようとしているということ。
 ピタリ───。
 人目を避けて、ビルの屋上へと来ていた足を止める。アダムには少し一人にさせてほしいと伝えてある。
 影を失う。
 今までも何度か抽出に失敗したことはあった。抽出した影を己の意思で解除したこともあった。しかし今回のように一度は抽出できたにもかかわらず、旬の意思とは関係なく解除されてしまうことが、これからもあり得るかもしれないということに、今更ながら思い至り寒慄する。
 勿論一つの仮定でしかない。
 けれども、システムにより得た力が何かの拍子になかったことになってしまい、今まで得た影たちが消えてしまったとしたら。もしくは影を消失する程の力があったとしたら。
 そう考えた途端、旬の口から咄嗟に声が出た。
 性急に喚ばれた影はいつもの如く旬の目の前で傅きながら現れる。
 いつもと変わらない姿。けれどもその姿がもしかすれば、永遠に自分の前から消えてしまうかもしれないことに恐れを抱いた。
 そんなことは有り得ないかもしれない。今までも戦闘時では影よりもレベルの高いモンスターもいた。そんなモンスターと対峙すれば何度も彼らは倒され、その都度旬のマナが尽きるまで復活を繰り返していた。仮にマナが尽きたとしても再び補えば変わることなく召喚できた。だから、抽出に成功した影は旬が解除しなければ永遠に自分の側で仕えてくれる。そう思っていた。そうであると信じていた。
 それなのに漠然とした不安が旬の中で広がる。目の前にいる影を失うという恐怖。
「お前は俺の前から消えるな」
 口を衝いて出た言葉は命令であったにもかかわらず、悲痛な叫びでもあった。
 声を押し殺した旬の震える声音に影が伏せていた面を上げる。
 見下ろす視線と見上げる視線が絡み合う。
 影へと伸ばした腕は優しく捕らえられ、そのまま手の甲に口付けられる。けれどもそれだけでは今のこの不安を消すことはできず、感情を抑える為に今一度きつく瞼を閉じる。迫り上がる感情を大きく息を吸い込むことで、どうにか抑えようとする。
 ふわりと何かが旬を覆う気配がした。
 閉じていた瞼を上げれば、そこには見慣れた闇が広がり、慰めるように背中を抱かれた。それが何なのかは旬が一番よく知っている。
 影が自分の意思で主である旬に触れることは殆どない。それが旬が何も言わずとも触れてくるということは、彼なりの応えなのかもしれない。
「もう誰も失いたくない……」
 影の腕の中で呟く旬の言葉は小さく、ともすれば空気の中に溶けてしまう程であったが、背を抱く腕がほんの少し強くなったことに安心する。
 見上げた先には今もまだ曇天の空が広がっている。
 己を抱く影の腕は心地良く、もうあと少しだけこのままでいさせて欲しいと願う。
 来てもいない未来を恐れるよりも今目の前のこの腕の強さを信じたい。
 それなのに漠然とした不安が身の内に墨を落としたような染みを残していく。

「消えないで」

 落ちた言葉は、今度こそ何処にも留まることなく空気中へと溶けていった────。


初出:2022.05.06

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