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142話 ─ 中段 ─

「犬飼さんは何しに来たんですか?」
 空港のロビーで揶揄うように賢太に問われ、返答に窮している犬飼を援護しようと一歩前に出たところを賢太から見えないように指で合図される。手出し無用と。
 犬飼はそのまま、ハンター協会から旬の護衛を任されたことを素直に話し、困ったような笑みを浮かべていた。その表情を見た途端、旬に少しの罪悪感が芽生える。何故なら、犬飼のアメリカ同行を願ったのは他でもない旬だったからだ。
 ことは数日前に遡る────。


「国際ギルドカンファレンスに出席されるのですね」
 DFNから漸く帰国した旬は、久し振りに犬飼の自宅へ訪れていた。日本から出国する時に帰国後は直ぐに犬飼の元に戻ると約束していたから、一にも二にもなく彼の元へ訪れた。
 旬が帰国する日は予め協会には報告していたから、アポイントせずに扉を開けても犬飼は驚くことなく旬を迎え入れてくれた。
「おかえりなさい」と、柔らかく言われた言葉に安堵する。
 今回、巨人討伐のみであればここまで旬が疲れることはなかった。それなのに思った以上に心身共に疲弊しているのは、やはり向こうでのことが旬にとって予想外の出来事だった為、無意識ではあるが緊張していたのだろう。それに帰国時の機内でのアメリカハンター管理局のアダム・ホワイトとの遣り取りも精神的疲労に拍車をかけた。真偽の程は未だ不透明だったが、旬がカンファレンスに出席する決定打となった事案だった。
「はい、あちらから招待を受けましたから出席しないわけにはいかないでしょう」
 部屋の中へ促され、定位置の二人掛けのソファへと腰を下ろす。馴染みのある、程よく身体が沈む感覚に、ホッと小さく息を吐いた。身体に溜まった緊張が解れていく。
 犬飼は旬の為にキッチンで温かいココアを淹れている。程なくして部屋に甘い匂いが漂いだす。
 リビングの暖かい柔らかな照明、馴染みのあるソファとお気に入りのクッション。キッチンから流れてくるケトルの音。見る間の内に疲れが取れてくる。そうなれば自ずと睡魔が訪れ、犬飼のたてる音を聞きながらうつらうつらと思考が曖昧になってきた。
「お疲れでしたらベッドで寝て下さい」
 コトリ、とソファの前にあるローテーブルにカップの置かれる音がして、微睡みかけた瞼を上げる。
 自分の隣に犬飼が座り、心配そうに顔を覗き込まれる。
「いえ、久し振りに会えたのに、このまま眠ってしまうのは勿体ないです」
 目元に頬にと優しく触れてくる恋人の指に甘えるように自分からも頬を寄せていく。猫のような仕草に犬飼の口元に笑みが浮かぶ。
「DFNでの討伐、お疲れ様でした。旬さんの活躍は此方のニュースでも大々的に流されてましたよ」
「ええ、空港に降りた時も凄い記者の数で驚きました。でもハンター協会のスタッフの皆さんが牽制してくれてましたので、質問攻めになることはありませんでした。あれって犬飼さんの采配ですよね」
 犬飼に寄せた頭をそのまま肩口へと凭れさせると、今度は優しく髪を梳かれる。
「記者会見は別途、協会側で設けると各メディアには通達しています。討伐後直ぐに此方に帰国された水篠ハンターをロビーで捕まえて取材をしようとする方が非常識です」
 淡々と旬の質問に答えてくれているが、犬飼があの場面を不愉快に思っていることは告げる口調で感じることができた。
「俺は大丈夫ですよ。空港から出たら直ぐに気配を消してあの人たちのことは撒いてきましたから」
 だからここに来ていることも誰にも知られていない。ただ、家の方には記者たちがたむろしていそうで事前に知り合いのところに寄ってから帰るとメールをしてはいたが、母と葵には申し訳ないとは思った。自分が有名になるにしたがって家族の生活が脅かされるのではないかと危惧している。協会を通じて各方面には脅しのような牽制をやんわりとはしているが、どの界隈にも例外というものはある。その為に二人にはそれ相応の影を護衛に付かせてはいるが、本来ならばそんな煩わしい思いを一切させたくなかった。
「ご自宅の方にも協会も警察も動いてますから、じきにメディアも撤退させられるでしょう」
「何だか協会の方には職権濫用させているようで申し訳ないです」
「そんなことはありませんよ。それに旬さんはハンターですが、ご家族は一般人です。不用意にメディア等で姿を晒して良いものではありません」
 メディアは何でも知る権利がー、と言ってくるが、有名人であっても個人情報や肖像権は保護されて然るべきものである。有名税なんて言葉はメディアが自分たちの活動を都合が良いように言い換えただけのまやかしに過ぎない。
 そう言って、旬以上に不愉快さを感情に乗せる犬飼を見て、不謹慎だと思っても口元に笑みが浮かぶ。犬飼も自分の家族を大事に思ってくれてるのが純粋に嬉しい。
「ありがとうございます」
 自然と笑みが浮かび、素直に犬飼に礼を述べる。
 テーブルに置かれた陶器製のカップに手を伸ばし、そのまま口を付ければ、何時もと変わらない自分好みの甘いココアの香りが口内に広がる。
 ここに来れば外であったことを忘れさせてくれる穏やかさがある。
 一旦心が落ち着いてくれば、ソファに身体を預けながら、日本に帰ってくる機内での遣り取りを再び思い出していた。
 アメリカハンター管理局は、旬とは諍いを起こしたくないと明言した。その証拠にカンファレンスで挙がる父親の国際手配の事案を事前に教えてくれたのだ。
 アメリカの判断は正しい。
 仮にもし事前に父親の事を聞かされていなければ、国際会議と言われようが、先の機内でのアダム・ホワイトのように会議の壇上で発した者に、それこそ後先考えず力を使ってしまっていただろう。そして、世界中を敵に回すことになっても父親を捜し出し、この手で守り通すことになっただろう。
 事前に教えてくれたアメリカ側の良心には感謝するが、だからといって会議に出席することに対して不安がないわけではない。特に自分がどういう行動を起こしてしまうか予測が付かないからだ。
 一口飲んだココアのカップを両手で持ったまま思案に更けていると、横から気遣うように頬に触れてくる指に意識を浮上させる。
「晃さん?」
「何か気掛かりなことがあるのですか」
 心を見透かされたように旬に問い掛ける犬飼の言葉にパチパチと瞬きをした視線を合わせると、節のある長い指が下瞼に気遣うようにそっと触れてくる。
「目の奥が沈んでいるように見えたので」
 心配気に旬を見つめてくる瞳と優しく触れる指に不安だった心が溶けてくる。
「少し…」
 犬飼になら日本に帰ってくる時に何があったのか打ち明けてもいいのかもしれないと思った。それに、黙っていたとしても数日後には世界中に発信されることだ。それならば、この不安定な気持ちを聞いてもらうだけでも心が少しは晴れるのかもしれない。
 いつも何も言わない自分に犬飼は決して声を荒げたり追及したりすることはなかった。何も聞かず、自分の隣で優しく包み込んでくれていた。だけど偶に寂し気な顔をしていることを知っている。何も話さない旬に旬を責めるのではなく、話してくれる程の資格が自分にはない、自分では旬を助けてやることができないと思っている、そんな顔をしていた。
 そんなことはないと言いたかったが、それなら何故話してくれないのかと言われてしまえば黙するしかなく、結局見て見ぬ振りをしてしまうのだった。犬飼の優しさに付け込んだ、どうしようもなく狡い人間なのだ。自分は。
「父のことが会議で上がるそうです」
 結局、アメリカ側が事前に報告してきたことだけしか話すことはできず、罪悪感でいっぱいになる。
「十年前に行方不明になったと仰ってた御父様ですか?」
「はい。先日、アメリカであったS級ハンター襲撃に関与しているかもしれないとのことで、国際手配されるそうです」
 隣にいる犬飼の肩口に額を寄せ、事務的に話そうとしたが、沈んだ声はきっと気付かれているだろう。
 案の定、寄せた頭部を安心させるようにそっと撫でられる。子供のようにあやされているみたいで気恥ずかしい筈が、犬飼の長い指に髪を梳かれ、撫でられると安心感しか湧いてこなかった。
「日本に戻ってくる機内で聞かされました。あまりに突然のことで感情をコントロールすることができず、ハンターでもないアメリカ管理局の方に力を使ってしまったんです」
 後から思えば、なんてことをしてしまったんだと自己嫌悪に陥った。彼はアメリカ政府の決定を旬に伝えただけに過ぎないのだ。それなのに感情的に力を使ってしまった。しかも手を上げた此方に非があったにも関わらず、あの後相手から謝罪された。旬も力を使ってしまったことに謝りはしたが、どうにも居心地が悪い思いをしながら彼らとは別れたのだった。
「会議でいきなり父のことを聞かされるよりかは、先に内容を知っていた方が良いのではとのアメリカ側の判断で教えてもらえたのですが、正直先に知ったからと言って、会議で冷静にいられるか分からないです」
 会議の場で公式に国際手配され晒された父親の姿を見て、何もせずにいられるのか。もし、各国の誰かが父親を貶す言葉を旬に浴びせた時、自分はその者を殺さないでいられることはできるだろうか。そんな不安が纏わり付いて離れなかった。
「家族のことになると感情が上手くコントロールできません」
 葵がオークに襲撃された時も気が付けば自分の周りは血の海だった。家族が自分の人としての繋がりであると確かめられるものであると同時に、もし母や葵、それに父に何かあれば容易く自分は人ではなくなってしまうのではないだろうかと危惧してしまう。
「会議に行かなければならないのに、出席するのが怖い…です…」
 誰かに手を繋いで貰っていなければ闇に囚われてしまいそうだった。
「旬さんの不安を軽くするのに僕では役に立ちませんか?」
 そんな自分の気持ちを読み取ったかのように、髪を梳いていた犬飼の指がいつの間にか旬の手を掬い取っていた。指と指の間に自分の体温よりも高い指が絡まり優しく握ってくる。犬飼の視線は真っ直ぐに旬を見つめ穏やかに微笑んではいるが、その瞳の奥は旬への気遣いが怖い程真剣に見えた。
「だ…めです…。晃さんは、此方でやらなければならない仕事がたくさんあるでしょう」
 言われた言葉が何よりも嬉しいのに素直に頷くことができない。犬飼が誰よりも多忙だということは他の誰よりも自分が一番知っている。
「優秀な職員は他にもいます。僕の代わりなど、誰にでもできますよ。でも、旬さんの不安を拭い、側にいる役は僕でなければ嫌です」
 それとも他の誰かにその役を任せますか?
 そう言って握る指に力を込めてくる犬飼に反射的に首を振る。そんな人間がいるわけないと、旬からも指を握り返す。
「嫌です。俺の側にいるのは晃さんじゃなければ嫌です」
「では、旬さんの為のエージェントとしてアメリカ行きに同行する許可を下さい」
 犬飼がアメリカ行きに同行してくれたらどんなに安心できるだろうと思っていた。だけど、多忙な犬飼に自分の内面的な不安だけで我侭を言うわけにもいかず諦めていたところだったのに、まさかの提案をされ、それを許可しないなんてことがある筈がなかった。
 でも、自分が犬飼を許可するのではなく、
「俺がお願いしたいんです。どうか向こうにいる間は俺の側でいて下さい」
 ここでは二人ともが多忙で、毎日会えるわけではなかった。しかしそれが会議の為にアメリカに行くのであれば、その間は少なくとも日本にいる時のような雑多な仕事を犬飼はしなくてもいい筈だし、旬自身もあちらでゲートを探さなければ予定という予定は入れるつもりはなかった。
 アメリカのハンター管理局が接触してくる可能性はあるかもしれないが、それ以外は向こうで何か予定外のことが起こることはないと思いたい。
「分かりました。貴方の側でこうやってずっと手を握っていますね」
「絶対ですよ」
 先程から二人で握り合っている手を持ち上げると、どちらともなく互いの手に唇を当ててクスクスと笑い合う。
 気が付けば、不安と緊張で固まっていた心が柔らかく溶け、胸に温かな感情だけが広がっている。そうなれば、今まで来なかった睡魔が程よく身体を包み込んできて、うつらうつらと瞼が下がってきてしまう。
「今夜はもう、ゆっくりと休んで下さい」
 犬飼が旬の頭を自分の方へと寄せる。
 隣に置きっぱなしになっていたお気に入りのクッションを渡され、そのまま犬飼の太腿に頭を乗せると、もう眠気はそこまできていた。
「あとで、ベッドに運びますから安心して寝てくださいね」
 そう言った犬飼は、テーブルに置いていたココアを片手で取り、もう片方の手を旬の髪に絡ませ、あやすようにゆっくりと撫ぜていった。

 時計の時刻はまだ宵の口を指したばかり。
 静かな部屋の中で照明の暖かな明かりが柔らかく二人を包み込んでいた────。


初出:2021.06.19

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