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141話 ─ 中段 ─

 きっと日本に帰国する機内であんなことを聞かされてしまったからなんだと思う。
 ずっと気にしないようにしていた。
 それでも心の何処かでずっと探し続けていた。
 ハンターになった理由。
 それは、母の病を治したいこと。
 それと────、


 DFCで起こったダンジョンブレイクを攻略し、実質共に未曾有の窮地からDFN全体を救った。彼らは旬の功績を称え、賞賛を惜しむことなく贈ったが、今後の復興は彼ら自身で乗り越えていかなければならなかった。しかも復興をしている傍らでは新たなゲートが容赦なく発生していく。疲弊したDFNではゲート攻略に携われるギルドもほぼ機能しなくなっている。
 それを見越していたわけではなかったが、旬はゲート攻略ができなくなったDFNを新たな拠点として目を付けた。日本では首都だけでも幾つものギルドが乱立している。ゲート獲得も競争率が激しい。しかし、今のDFNであればほぼ独占状態でゲートに進入することができる。しかも旬には影交換のスキルがある為、DFNを我進ギルドの攻略領域にしたとしても、一瞬にて日本と行き来ができる。レベルを上げるには打ってつけの場所だった。勿論、日本、DFN両国のハンター協会の了解は得ている。
 そして、そんな日々を何日か送っていた時に進入したゲート内でのことだった。

 以前よりもずっとダンジョンの難易度が上がっていた。
 今まで見たことのなかったモンスターも見かけるようになり、しかもその大半が上位種に位置付けられる程のランクのものだった。
 今、旬が相手をしているモンスターも今まで出会ったことのない粘液体の躰を持っていた。自由に姿形を変えることができ、しかもその躰は高濃度の酸性でできている。少し触れただけでも、服も肌も溶けてしまう。体の損傷は旬のバフ効果により、直ぐに回復することができるが、衣服に関してはそれもできない。極力近付かないようにスキルを使いながら相手をしていたが、それでも斬撃の反動で飛び散る体液が付着することがある。気が付けば二の腕、二の足、上着の裾辺りを酸で溶けたような歪な穴が数カ所開いていた。
 「面倒だな」
 お気に入りの服だったわけではないが、それでも使い物にならなくなってしまったら残念な気持ちになる。ここを出た後、そのまま家に戻らず一度事務所で着替えた方が良いかもしれないと、モンスターの攻撃を避けながらそんなことを考えていた。
 自由に姿を変えるその粘液体は、本当に自由自在だった。始めの内は球体や立方体で飛んだり跳ねたりしていたが、それが段々と獣型に変形したものや人型に変形したものまで現れてくる。
 成形するものは遭遇したことのある他のモンスターを真似ているようで、旬も見たことのあるモンスターがチラホラ見られた。しかも戦闘中であっても見たものを真似ているらしく、気が付けば旬の影を象ったものも現れるようになった。
 知能があるようには見えないが、自分たちを象ったモンスターの出現で、困惑している影もいるようだ。
 「小賢しいな」
 動揺を誘うように、目の前に影を象ったモンスターが現れるが、生憎、旬には通用しない。自分の影とモンスターを間違えることなど絶対に有り得ない。それよりも、自分の大事な影を模倣された怒りの方が先立ち、容赦なく弱点である仮面に刃を振り下ろしていく。
 仮面が割れ瓦解していくモンスターを一瞥することもなく捨て置き、更に内部へと進入していく。
 粘液体の無形モンスターが為に上下左右にと四方から攻撃を受けるが、そのどれも今の旬の能力の足元にも及ばない。的確に短刀を急所に投げ付け、一撃で殺傷していく。
 「それにしても───、」
 奥に進むにつれて一つ気掛かりなことがあった。
 先程から徐々に視界が靄のようなものに覆われてきている気がするのだ。
 感覚値を上げている為、モンスターの位置は視覚で見えなくても把握できていたから気にしていなかったが、確実に視界が悪くなってきている。しかもどうやら白く霞掛かるそれには毒素のようなものが含まれているのか、ウインドウパネルから警告メッセージがしきりに表示されていた。
 旬には状態異常を無効化するバフが常時発動している為、たとえフィールド全てに毒や麻痺の掛かるものが張り巡らされていても影響されることはない。しかし、ダンジョン内に発生している靄による視界不良はバフ効果ではどうすることもできず、一寸先を感覚値のみで進んでいくしかなかった。
 幸い道はそれ程複雑ではなく、偶に分岐点があるくらいで、最奥まで辿り着くのにそれ程時間は掛からなかった。
 相変わらず視界は白い靄に覆われている。
 「もうそろそろダンジョンのボスがいる場所まで来ていてもおかしくない筈なんだけど」
 周りを見渡しても動くものは見えない。モンスターの気配も今のところ大きなものは見当たらない。ウロウロと部屋の周りを歩いてみたが、ボスはおろか先程まで相手をしていた粘液体のモンスターの姿も一切見えなくなってしまった。
 もしかして、ボスの部屋はここではなかったのかと今来た道を戻ろうとした時だった。
 「え……?」
 まさかと思った。
 こんな場所であり得ないと思ったが、いなくなった場所について思い出せば、それもあり得るかもしれないとも思った。
 視界を覆う白く濃い靄の先、暗く陰鬱なダンジョンの石畳に佇む一人の男性。
 「と…う、さん…」
 口から出た言葉は搾り出すような己のものとは思えない程掠れた声になっていた。
 それでも、目の前の男性には聞こえたのか、旬の発した声に反応してゆっくりと確かめるように此方に視線を向けてきた。
 見間違う筈もない。
 行方不明になった後も、母は子供たちが父親を忘れないようにと家の至る所に家族の写真を飾っていた。その中で穏やかに笑んでいる父と同じ姿が目の前にある。
 十年もの月日が経っている筈なのに老けたところもなく、写真と同じ若々しいままだった。もしかしたら、ゲート内では時間の経過が外界とは違うのかもしれない。
 旬の姿を確認した父親と思わしき男性は、驚いたように目を見開き旬を凝視してくる。
 「旬、なのか……?」
 囁くような声は音としては捉えられなかったが、唇の動きで何と言ったのかが分かる。
 此方に一歩近付いたことにより、旬の方も一歩前に足が出る。互いに近付くにつれ、靄で見え辛かった顔もより鮮明に確認できるようになる。自分と良く似た父の顔がクシャリと歪み、泣き出しそうな表情の中に家に飾られていた写真と同じ笑みで旬を見つめてくる。
 「旬」
 今一度、名前を呼ばれる。
 記憶の中の父の声を思い出そうとしたが、あまりにも長い年月が経ってしまい、朧げでしか思い出せなかった。けれども優しく名を呼ぶその眼差しは確かに旬の記憶の中にあるそれと同じだった。
 「父さん…っ」
 視界が白く霞む中、早く父の元へ行かなければ、また何処かへ行ってしまいそうで。けれどもそれとは反対に近付けば砂漠のオアシスのように父の姿が跡形もなく消えてしまうのではないかと、怖くて踏み出そうとした足が竦んで動かすことができなかった。
 早く、と急く心が視界を歪ませていく。
 どうしようもなくて、手を伸ばした先にいる父に縋るように目を向けると、優しく笑んだ瞳とぶつかる。手を広げられ、唇が名前を呼ぶ形に動かされる。
 「おいで」
 長い間会えなかった為か、父にはまだ旬は十年前のままのように見えているらしく、小さな子供を呼ぶように両手を軽く広げて旬を呼び寄せる。
 本来なら、そんなことをされると気恥ずかしくて素直になれないのに、父に再会できた嬉しさの方が今は勝っているからなのか、そんな仕草も気にならなかった。
 広げられた腕に躊躇うことなく手を伸ばす。
 優しい父の顔。
 漸く会えた。
 早く、母さんや葵に教えてあげなければ。
 伸ばした手が父に触れる。

 筈だった。

 グイッ、と伸ばした腕が漆黒の手に掴まれ、身体にも同じように腕が回され、無情にもあと少しで触れられた父と引き剥がされる。
 強く引かれた反動で、自分の腕を掴む者の身体にぶつかる。咄嗟に離れようとしたが、抱き込むように身体を捕らえられ身動きができない。
 「離せ!」
 影の中で自分にこんなことをする者なんて確かめるまでもない。
 抱え込むようにされた腕の中から首を上げると、思った通りそこにはイグリットの姿があった。
 「聞こえないのか!」
 僭越を冒してまで旬の身体に触れる唯一の存在とはいっても、常に無遠慮な態度を取っているわけではない。どちらかと言えば従者としての態度を崩すことは稀で、どんな時でも一歩下がったところで旬に仕えていた。出過ぎず、それでいて何が旬にとって一番正しいことなのか教えてくれる存在。
 だから、何の意味もなく自分と父とを引き剥がしたことが不思議で仕方なかった。
 「イグリット!」
 だが、何度旬が命令してもイグリットは頑なに旬を離そうとしなかった。旬の方もそんなイグリットに焦れて、段々と感情が昂ぶってくる。靄が未だ周囲を覆っていて、目の前の父の姿も隠す程の濃度で充満する。靄で見えなくなってしまったら、また父の行方も分からなくなるのではないかと焦る。
 「父さんが、そこにいるんだ!」
 今度こそイグリットの腕を跳ね除け、拘束されていた身体を捩り、再び父へと手を伸ばす。まだ父は手を広げて旬を待ってくれている。
 イグリットの腕から脱け出せたと思った。
 「っ?!」
 瞬間、強い力で顎を掴まれ上を向かされる。そのまま呼吸まで奪う勢いで唇を何かに塞がれた。
 「んぅっ」
 口内の奥まで入り込んできたそれは、いつもは翻弄されはするが旬を優しく包み込むだけのものなのに、今はただ旬の意識を自分の方へと向けさせる為に触れているようにしか思えなかった。けれども、その中には常にないイグリットからの必死さが感じられ、咄嗟に歯を立てそうになったところを寸でのところで止める。そうなるとさっきまでの焦りも少しは落ち着き、抵抗していた身体から力を抜いていく。
 イグリットも旬の変化を感じ取り、きつく掴んでいた指から力を緩め、塞いでいた唇もゆっくりと離していく。しかし、旬の腰に回っている腕は未だ拘束したままで、旬が父親の方へ行かないように束縛していた。
 「離してはくれないのか?」
 今度は幾分落ち着いた面持ちでイグリットに問う。本当は早く父のところに行きたいのだが、今のイグリットを刺激するのは良くないような気がしたのだ。
 視線をイグリットに向けるが、イグリットの視線は旬ではなく、その後ろに注がれている。
 ゾクリとした。
 睨み付けるなんて生温いものではない。相手を殺さんとする程の強い怒りと殺気を纏った視線が旬の後ろにいる父親に向けられていたのだった。
 勿論、そんな視線を自分の父親に向けられた旬は困惑しか湧かない。何故そんな目をするのかと、問いかけようとしたところにイグリットが持っていた長剣に白雷を纏わせ一閃した。
 手加減なしの一振りにダンジョン内に雷が幾重にも降り注ぎ、振り払われた風圧で一帯を覆っていた靄さえも掻き消していく。あまりの眩さで一瞬目を瞑ってしまった旬だったが、次に目を開いた時には雷は止み、元の薄暗いダンジョンに戻っていた。ただ、辺り一面に広がっていた靄は綺麗に霧散していて、先程まで視界不良で見えなかったダンジョン内が見渡せるようになっていた。
 だから父親の安否を咄嗟に確認した。
 片手で未だ旬を拘束するイグリットの胸から身体を捩り、漸く後ろを振り向く。
 と、同時に視界に映ったものに驚愕する。
 「な…、どう…いう…」
 そこには父親の姿など何処にもなく、醜悪な姿をした巨大な粘液体のモンスターが被食物を取り込まんとするように躰を広げ粘液を滴らせていた。その粘液が落ちる度にシュウシュウと不快な音と白い靄が発生する。
 霧散していた靄がまたダンジョン内に広がりつつあった。
 そして、その靄を吸い込んでしまった途端、目の前にいるモンスターの姿がノイズのようにぶれていき、信じられないことに父親の姿を形成していく。
 「な、んで…」
 俄かには信じられなかった。
 ここに来るまでに遭遇したモンスターも確かに姿を変化させることはできた。しかし、それはそのモンスターが遭遇したことのある他のモンスターの姿に他ならなかった。遭遇したものにしか変化できない。そう思っていたから、ありえないとは思ったが目の前のモンスターは父に遭遇したことがあるというのだろうか。そして同じ人間だから偶々自分の前で変化したのだろうか。
 しかし、それでは旬の名前を呼んだ理由が付けられない。何故記憶と同じ父の姿を再現することができたのか。優しく微笑む父の姿をあのモンスターが知っているわけがない。
 と、そこまで考えて、一つ思い当たる節があった。
 以前聞いたことがある。
 相手の精神意識に感応して、その者の意識を占めているものに変化するモンスターがいると。それが何に変化するかは分からない。幸福を与えるものなのか、恐怖を与えるものなのか。その時自分の意識下で占めている対象に変化するのだ。
 旬の場合、それが父親だったのだ。
 DFNから日本へ帰国する際に知らされた父親のこと。ダンジョンで発見され、アメリカのS級ハンターに攻撃を加え、そのまままた姿を消したと。
 漸く父親の情報が入ってきたと思えば、国際手配にされると。
 動揺せずにはいられなかった。
 数日後に開かれる国際ギルドカンファレンスで自分の耳で父親のことを聴くまでは、きっとこの不安定な気持ちが落ち着くことはない。
 そんな心の隙を突いて、モンスターの罠に嵌るところだった。否、イグリットがいなければ、今頃あの醜悪なモンスターの腹の中に取り込まれていただろう。
 未だ旬を離そうとせず、目の前のモンスターに剣を向けているイグリット。自分に意識を向けさせたくて、兜の頬の辺りに指を添える。ピクリと揺れた指先に、旬に意識を向けたことを確認する。視線を上げてイグリットの瞳に合わせる。
 「大丈夫だ」
 その一言でモンスターの罠から抜け出せたことをイグリットにも伝わっただろう。
 きっとあの靄に何かしら精神を混濁させる作用が含まれていたのだろうと推測する。ダンジョンに入った時から薄らと漂っていた靄。分からないように精神を徐々に侵されていたのだろう。
 イグリットに効かなかったのは、召喚獣だからだろうか。周りを見渡してみても他の影の姿は見えない。召喚を解除した覚えはなかったのだが、これも靄の影響なんだろうか。
 色々と気になるところはあったが、今は目の前のモンスターを倒すことに集中する。
 旬が一歩前に出た。
 しかし、それをそっと遮り、イグリットが旬より前に出る。右手に持つ剣からは凄まじい白雷がバチバチと音を立てて今か今かと放出されるのを待っている。思わずイグリットを伺い見れば見たこともない程の殺気を纏い、モンスターを凝視していた。
 ああ、あのモンスターはイグリットの逆鱗に触れてしまったのだ。
 常にない怒りのオーラに、旬さえもたじろぐ程であったが、自分に対してあのモンスターがやってしまった行為に同情の余地はなかった。旬さえも自分の深層心理の奥を無遠慮に覗き込まれた不快さに、直ぐにでも切り刻んでやりたい気持ちでいっぱいだったのだ。主君命のイグリットが大人しく待つことなどできる筈がない。旬以上に怒りが爆発したのだ。
 それでも旬が命令していない為、勝手に飛び出していくようなことはしない。こんなにも隠すことのない殺気を撒き散らしているのに、旬が言わない限りじっと待っているのだ。
 堪らない気持ちになる。
 「殺れ」
 その一言だけでよかった。
 旬が命令した途端、辺り一面が目を開けられないくらいに閃光で真っ白になる。続いて大気さえも震える程の轟音が鳴り響き、視界が晴れて前方が確認できるようになった時には、既にモンスターは核を壊され、その身を維持できず崩れ落ちていた。
 ───ピロン。
 馴染みのある電子音が鳴り、ダンジョンの主が倒されたことを表示する。
 イグリットが剣を鞘に戻し、旬の前で傅く。あれだけ纏っていた殺気はなかったかのように、既にイグリットの躰の中に収められていた。きっとまだ怒りはある筈なのに、騎士として、従者として、綺麗に抑え込まれ旬に見せないようにする。
 だからこんな時は旬から手を伸ばす。
 「よくやった」
 跪くイグリットに屈み、顔を持ち上げ、躊躇わず兜越しに唇を寄せる。
 旬の行動を予測できなかったのだろう、あからさまに動揺したイグリットに笑みを浮かべる。
 「敵は倒した。もう怒りを鎮めるんだ」
 本音を言えば、いつも冷静で殆ど感情を外に出さないイグリットがここまで自分の為に感情を露にしてくれたことが嬉しかった。モンスターに向ける殺気が強ければ強い程、己に対してのイグリットの想いの強さを見せられているようで、不謹慎にも心が歓喜した。
 「父の姿をしていたんだ。十年前、ゲートに入ったっきり戻って来なかった。どこかで生きていてくれているって信じてたけど、行方が全く分からなかったんだ。そんな時にあんなことを聞かされたから」
 父がアメリカで見つかったと。しかもモンスターと同じ魔力を持ち、S級ハンターを襲ったと。
 動揺した旬の心に付け込んで見せた幻影。
 だがそれは旬の心に感応して見せた幻だった。
 それならば、と思う。
 イグリットには別の何かが見えたのだろうか。
 ただ、旬がモンスターに襲われ掛けただけで、あんなにも激昂するだろうかと。
 「お前にも何か見えたのか?」
 実体があるようでない召喚獣に精神感応というものが効くのか分からないが、旬の影は他の召喚獣とは違う。自我を持ち、考え行動する。まるで生ある者と同じような振る舞いをする彼らには、精神という曖昧なものであっても存在するのではないかと思う。
 だから、旬が見せられたようにイグリットも何かしら、あのモンスターの罠に掛かってしまったのではないだろうか。それが逆鱗に触れる程の何かに。
 旬が問い質したところで、イグリットから応えが返ってくることはない。それは言葉を紡ぐことができないという理由だけでなく、旬に理由を話すつもりがないからだ。それはイグリットの目を見れば分かる。
 「言うつもりはないか」
 言えば、静かに首を垂れてくるので、溜息一つで許してやることにする。旬自身もそこまで聞き出したいわけではなかったから、この話は今はここまでにする。それにイグリットが感情を露にすることなど旬のこと以外ないだろうから。
 『───、王よ…っ』
 そんな二人の甘やかだか曖昧な雰囲気の中に切羽詰まった声が挟んでくる。至近距離でいた二人は慌てて少し距離を離し、辺りを見回してみると、旬の影の端からか細く一体の影が伸びていることに気付く。よく見ると頭の辺りから触覚のようなものが出ている。
 「ベルか?」
 『お、王っ!王でございますか!!漸く!漸く参ずること相成りましたっ!べ、ベルは!ベルはっ!!』
 旬が声をかけた途端、か細かった影が膨らみ、怒涛の勢いで捲し立て始めたと思えば、その場に蹲り号泣し始める。
 「何をそんなに泣いている?」
 あまりにも急な展開にいまいち状況を把握しきれていない旬は、ベルの尋常ではない様子に若干引きつつも問い掛ける。既にイグリットは旬の側から離れ、ダンジョン内の様子を確認する為にその場を離れている。その際、小さく溜息を吐いたことは誰にも気付かれることはなかったが。
 また、旬の方もそっと離れていくイグリットの姿を無意識に追ってしまう。離れる必要はないのにと、不満が口を衝きそうになるのを唇を噛むことでやり過ごす。
 ベルはその間も泣きながら、今までの経緯を話している。
 『決して王に不埒な想いを持ったわけではないのです!!ただ、王があまりにも優しく声をお掛け下さり、ベルの手を取り、微笑んで下さるものですからっ、舞い上がってしまい、あのような暴挙に出てしまったのですっ!!け、決して御身を汚そうなどとは───っ』
 「ストップ、ストップだ、ベル。一体何の話をしている?俺はずっとここでイグリットと一緒にいたんだけど」
 興奮しすぎて可笑しな言葉遣いになっているベルの言葉を遮り、どういうことだと問い掛ける。しかも何だか不穏なことを言っていたような気もして、早々にベルの口を止めなければならないと直感的に思った。ちらりと気付かれないようにイグリットの方へと視線を向ける。
 ”遅かった…”
 しかし案の定、ベルの懺悔が聞こえたのだろう、踵を返したイグリットが腕を組みつつベルの後ろに立つ。
 そんな禍々しいオーラを出さんとするイグリットには気付かず、此方は此方で旬の言葉に信じられないと言わんばかりに焦り出す。
 『で、では、今までの労を労い、脇息に凭れつつ扇子でベルを呼び寄せ、大儀であったと仰られたのは王ではなかったというのですかっ!』
 「うん。それ俺じゃない。幻だ」
 だれがどう聞いてもベルのそれは自分ではない。
 最近、家でこっそり観ているテレビの影響だろうとは思ったが、大分感化され過ぎていて頭を抱えたくなった。イグリットも先程までの禍々しいオーラが一転、呆れかえっている。
 「て、ことはそのどこぞの将軍のような俺に現を抜かして、こちらに出て来られなかったということだな」
 額を押さえつつベルに問うと、更に泣きそうな声でブルブルと震えだす。
 『ち、違うのです!ただ、王が何でも一つ報奨を与えて下さると仰られたので、感激してしまい思わず御手を取り、その滑らかな甲に口付けを落とし咽び泣いていたのです!』
 現を抜かしていたようだ。
 ということは、ベルもあのモンスターが出していた靄の罠に掛かっていたといえる。ベルが掛かっていたということは。
 チラリと地面にできた自分の影を見た旬は、そこで無数の目が此方を伺うようにプルプル震えているのに気付く。
 「お前たち、明日から特訓だな」
 まったく、どんなものを見せられたのか。
 全員が罠に掛かっていたとは、ある意味ここのボスは最凶だったのかもしれない。
 旬自身もイグリットがいなければ危なかったから、あまり影たちに強くは言えないが、自分が少し褒めただけで舞い上がるようでは困る。
 「もう少し褒めて慣れさせた方がいいのか…?」
 何気に呟いた旬の言葉だったが、途端に影たちがソワソワしだす。視線を感じ、そちらを向けば期待に満ちた目が一斉に旬に注がれる。
 「…お前たち……いや…何でもない……」
 ベルは元より、イグリットさえも見た目は冷静さを保っているが、落ち着かない様子でいるのを見て、自分があまり影たちを労っていなかったのかと、内心落ち込む旬だった。
 「それにしても」
 居た堪れなさはこの際置いておき、思考を切り替える。
 ベルさえも脱出することが困難だった罠に何故イグリットだけは掛かることがなかったのだろう。元々罠が発動しなかったのか、それとも見せられたものが偽物だと分かっていたからなのか。
 何となく後者のような気がして、そうなれば先程は絶対に聞き出したいとは思わなかったが、やはり何を見たのか気になってくる。
 だからちょっとした余興を思い付いた。
 「明日は俺が相手をする。お前たち全員で一斉に掛かってくればいい。勿論、戦略を練ってもいいし、正面突破でもいい。俺はお前たちに触れないから、もし少しでも俺に触れることができた者は、お前たちが見たものを実現してやる」
 そう言い終わるやいなや、一気に大気が熱気で膨れ上がった気がした。勿論、旬に爪の先程も触れられるなど万が一にも有り得ないと分かっていても、期待に胸が躍るのは仕方がないことなのだろう。
 もしかすれば何かの拍子で、それこそ宇宙規模の確率で幸運が訪れるかもしれない。
 先程の騒めきなど比にならないくらい、ザワザワと影が蠢くのを靴の爪先一つ鳴らすことで静める。
 「その代わり、どんなものを見たのか言わないと褒美はやれないからな。俺に伝わるにはどうすればいいかも考えておくように」
 イグリットに視線を向けながら意味深に言う。果たして旬の言いたいことはイグリットに伝わったかどうか。
 影たちに気付かれないように、小さく笑みを浮かべると、そのまま「戻れ」と一声出して、影を戻す。
 「あ、明日はアメリカに行く予定だったけ?」
 言ってから明日のスケジュールを思い出したが、時既に遅し。影たちは既にその気になっているようで、ベルを筆頭に旬の影に戻っていても高揚した雰囲気が漏れ出ていた。
 「まあ、出国する前に一汗かくくらいならいいか」
 アメリカに行けば、当分ダンジョンに入ることができない。だから、その前に身体を動かしておくのもいいだろう。
 但し、どこか人の目のない広い場所を探さないと大変なことになるだろうが。
 それと、
 「イグリット」
 他の影と同じく既に向こう側に戻っているイグリットを再度喚び出す。当たり前のように旬の前に姿を現し、跪くイグリットに明日のことで先手を打っておく。
 「話したくないからと手を抜いたり、誰かに花を持たせようなんて考えるなよ」
 旬が聞いた時にどんな罠に掛かったのか話す気はないと態度で示したイグリット。他の影たちは旬が聞けば素直に教えてくれるだろうが、イグリットだけは今でもきっと言うつもりはないだろう。だから余興と託けて聞き出してみる。勿論、相手をするのに手加減はしない。影たちが自分に触れることができるとは思ってはいないが、絶対とは言えない。それに彼らの実力を直接肌で感じるのも悪くないと思ったのもある。
 今後、支配者や他の君主と一戦を交えることも出てくるだろう。今の実力では彼らには敵わないと警告された。それは自分でも感じていたことだったから、更にレベルを上げ、いつか対峙した時に対抗できるようにしておかなければならない。
 「お前の今の実力を俺に見せてみろ」
 こう言えば絶対に手加減してこないことは分かっている。それにイグリットとは約束をしていた。手合わせの際、手心を加えるなと。もう大分前のことで、今は旬の方が遥かに強くなっているから、そんなことはないとは思っている。けれども、イグリットのことだ。変なところで従者然な面を出してくるから、こうやって先に釘を打っておかなければ、きっとどこかで剣を退くだろう。だから約束の上から更に言葉で逃げられないようにしていく。
 「そう言えば、ベルの見た幻は滑稽だったな。あいつは時代劇に感化され過ぎだ」
 先程のベルの嘆きを思い出し、呆れながらも苦笑する。
 くすくすと旬は笑っていたが、ふとイグリットの方を見れば、面白くなさそうな表情をしているように見えた。
 「ベルが勝者となったら、あいつの見たものを褒美とするのか。てことは、もしかして殿様の格好をしないといけないのか?扇子を振って呼び寄せて」
 蹲って号泣しながら話していた内容を思い出す。
 「あいつの深層心理は俺に触れたいということなのか?」
 手の甲にキスをしただけで御身を汚したなどと、咽び泣きながら大層なことを言って謝っていたが、そこまで畏まる必要はあるのか、いまいち旬には理解し難かった。
 しかし、イグリットはベルの言わんとしていることが分かるのか、イライラとした仕草で額に指を当てていた。そんなイグリットの態度は、旬から見れば嫉妬しているようにしか見えないのだが、まだ旬を縛り付けるような素振りを見せない。曲がりなりにも想いを重ねた仲なのに、束縛もしてくれないのかと自分が蒔いた種なのに理不尽にも不満に思う。だからイグリットをその気にさせる後一歩の言葉を旬は唱えた。
 「勝者には褒美を。俺に触れたいと言うのであれば、約束だからそれも仕方がないな。何を要求されるのか分からないが、いつも俺に尽くしてくれてるんだ、もしキスをしろと言われてもそのくらいは甘受しなければな」
 言葉は効果覿面だった。
 自分にそんなことを言ってくる者はいないと思って言う旬だったが、その評価が間違っていることはイグリットには身を持って分かっている。自分を過小評価し過ぎる無自覚な主のあからさまな挑発に、本来ならば諌めなければならない立場なのだが、結局のところイグリットの本音も誰にも旬に触れさせたくないということだ。だから、それを実行するには圧倒的な力で旬が全ての影を倒すか、誰よりも先にイグリットが旬に触れるしかないのだ。当然、予想外な出来事がない限り旬に触れることなど万に一つもないだろう。しかし、その確率はゼロではない。そうなれば、やはり当初の通り全力で旬に向かうしか方法はなかった。
 「明日が楽しみだ。精々励んで、お前の見たものを俺に教えろよ」
 暗に自分に誰も触れさすな、と言う主に嘆息する。しかもそう言われて喜んでいる自分にも呆れる。だが身の内に巣食うのは喜びだけではない。
 ダンジョンの主が見せた幻影。
 自分が何を見せられたか知らない主。きっと、ベルが言ったようなことに近いものとしか思っていないのだろう。そうでなければ、興味本位に自分に教えろとは言ってこない筈だ。
 自分の深層心理に感応して具現化されたものが映し出される。
 イグリットの前に現れたものは勿論、旬であった。
 しかし、映し出されたものはおおよそ人には言えるものではなかった。ましてや当事者である旬には絶対に知られてはならないものだ。
 自分の心の奥底にこんなおぞましいものが巣食っているとは思いたくなかったが、見せられた時に認めたくはなかったが、意外にも不思議と腑に落ちた。
 そんなものを旬は見せろと言ってくる。
 いっそのこと全てを晒して、旬のものも全て奪ってみせようかと、昏い想いが擡げたが即座に打ち消す。きっとそんなことをしてしまったら後悔しか残らない。
 「時間だ。出るぞ」
 自分の思考に陥っていたイグリットに何も知らない旬が声を掛ける。
 既に旬の思考は切り替わっている。
 ダンジョンから出れば、影交換の使用可能時間になる。今日は既にここを合わせて三つのゲートを攻略していた。そろそろ日本に帰る時間だ。
 出口に向かって歩いていく旬にイグリットもまた後ろに控える。
 明日のことはまた明日その時になってから考えればいい。思い浮かべた昏い考えは今は心の奥へと沈ませておく。
 それよりも旬に触れようとする不埒者を一掃することが先決だ。
 そう心の中で呟くと、イグリットは明日の排除対象者を頭の中でリストアップしていった。

 さあ、結果は如何に─────。


初出:2021.05.27

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