top of page

133話 ─ 中段 ─

 遠くで扉の開閉する音とお母さんの声がした。お兄ちゃんが帰ってきたんだ。低い声だからここまでは話している内容までは聞こえてこなかったけど、帰ってきてくれただけでホッとしてしまう。
 だけど私の身体はベッドから動かないまま。
 お帰りって言ってあげないといけないのに、どうしても起き上がることができなくて。薄いシーツでも身体に纏うことで安心している自分が嫌になる。
 学校が襲われてもう何日も経つのに、未だにあの時の惨状が瞼に焼き付いて離れてくれない。
 オークに掴まれた感覚が消えなくて、目を閉じればあの時の光景が甦り、眠ることさえできない。
 お母さんもお兄ちゃんも気遣ってくれるから、それが更に申し訳なくて。こんなことなら、しっかりしろと怒ってくれた方が良かった。
 二人の優しさに甘えてる自覚はある。
 でも、目の前でクラスメイトや友達が殺されていく光景を忘れることなんて絶対できなかった。
 目の前が真っ赤に染まり、鼻の奥にずっと残る血の匂い。

 コンコン────。

 ドアがノックされる音がする。
 入ってきたのはお兄ちゃんだった。
 外は既に暗くなっていた。
 話をしようと言われたけど、お兄ちゃんが話すことなんて分かってる。
 聞きたくなくて理由をつけて断っているのに、お構いなしに入ってくる。電気が消えたままの部屋。私を驚かさないようにそっとベッドの脇に腰を下ろしてくる。
 いつもの粗野な素振りはなくて、私を気遣う優しい空気。耳に心地良い低い声がゆっくり暗闇の中を流れていく。
 思い出す。
 今までも私が辛い時、悲しい時、不安になった時、いつも側にいてくれた。お父さんが行方不明になって、お母さんまで倒れてしまって、きっと私一人だったら途方に暮れていたと思う。
 でも、お兄ちゃんがずっと側にいてくれた。
 喧嘩もするし、腹が立つことだっていっぱいあった。ハンターになるって言った時は、お父さんのことを思い出して絶対にやめてって大反対した。だけど、お母さんの医療費や私の学費が必要だからって、これだけは絶対に譲ってくれなかった。
 初めてダンジョンに行った日。朝から大喧嘩した。
 行かないでって言ってるのに、お兄ちゃんは私を振り切ってダンジョンに入っていった。
 その日は丁度学校が休みの日だったけど、何も手に付かず、お兄ちゃんが帰って来るまで家でずっと泣いてた。
 帰って来た時はほっとしたのと、あまりにもボロボロの姿にショックでまた泣いてしまった。それなのにこのくらい何でもないって平気な顔をして、無理した笑顔を見せてくる。
 今までだってそう。
 私の前では絶対に弱音を吐かない。ダンジョンから帰って来る度にボロボロになって、時には意識不明で出てきたことだってある。
 その度に心臓が張り裂けそうに痛んだし、生きて帰ってきてくれたことに安堵して泣きじゃくっていた。
 何度ももう辞めてって言いたかったけど、最初の時に私が何を言っても絶対にハンターを辞める気はないんだって分かってからは、辞めてって言うのは諦めた。
 その代わりに怪我をして帰ってきたら、何度だってどんな小さな傷だったとしても怒ることにした。怪我をすることに慣れてほしくない、お兄ちゃんがいなくなったら私が一人ぼっちになるって思わせたかった。でないと、家族の為に命を省みないお兄ちゃんは、その内本当に帰って来なくなりそうだったから。私がお兄ちゃんの生への執着の為の枷になりたかった。
 お兄ちゃんは言う。
 もう以前みたいに弱くない。お母さんや私を守るくらいの力はあるって。
 でも家族を守るって言うんだったら、じゃあ何で家族を置いて向こうに行っちゃうの?知らない人のことなのに何で私を置いて行っちゃうの?
 今回のことでゲートは何処にでも出現するんだって、目の当たりにさせられた。少し前までゲートなんてハンターたちだけに関係することで、私みたいな一般人にはニュースの中だけの出来事だと思ってた。勿論、お兄ちゃんが毎回ボロボロになって帰ってくるから、危ない場所だってことは分かってたけど、それでもやっぱり壁一枚隔てた現実味のない場所だった。
 でも学校が襲撃されたあの時から、私の中で何かが変わった。何処にでも出現するってことは、もしかしたらこの場所にも出現する可能性だってあることで。そう考えたらもうダメだった。実際にはダンジョンブレイクはゲート出現から一週間経過しないと起きないから、今ここに現れたって直ちに危険だってことはなくて。迅速に対処すればダンジョンブレイクなんてほぼ起こらないことは誰でも知っていることだった。
 頭では分かっているのに、あの時の恐怖と不安が払拭できないでいる。お兄ちゃんが家にいてくれないと不安で堪らなくなる。
 でも、それを言ったところで結局お兄ちゃんは行っちゃう。だって困った人を放っておけないのがお兄ちゃんだったから。


 優しく優しく撫でてくれる手は四年前からずっと変わらない。
 必ず帰って来るからと言った言葉は今まで破られたことがなくて、そしてこれからだって破られない。そうやって信じさせてくれる。
 私が恐怖と不安に押し潰されないようにって、大事な召喚獣を置いていってくれる。
 あの時も私を助けてくれたお兄ちゃんの召喚獣。あれから一度も姿を見たことはないけれど、助けてくれたお礼がしたかった。ただの召喚獣にって言われるかもしれないけど、私が教室の扉に近付こうとした時に行っちゃダメだと止めてくれた。自分たちが何度も何度もオークに斬られても、私を護ってくれた彼らをただの召喚獣だとは思えなかった。勿論お兄ちゃんからの命令で護ってくれてたんだとは思うけど、そこには一つの意思が見えて、どうしてももう一度会って感謝を伝えたかった。


 お兄ちゃんは既に出立する準備の為、お母さんに呼ばれて部屋を出て行っていた。ゆっくり休むようにと頭を撫でていってくれたのに、何も言葉を返せなかった。明日は早くに家を出るって言ってた。このまま次に家に帰って来るまでお兄ちゃんの顔を見ずにいてもいいのかって自分に問う。
 必ず戻ってくるって言ってくれた。
 遠くからでもお前を護ってるって言って召喚獣を置いていってくれる。
 それに対して私はお兄ちゃんに何も言ってない。
 本当にそれでいいのか、って自問したら自然とベッドから起き上がっていた。
 そっとベッドから足を下ろし、扉の前まで歩いて行く。一瞬躊躇したけど、ゆっくりとドアノブを回し扉を開ける。リビングではお母さんとお兄ちゃんが荷物の準備をしていた。
 私のことには気付いていなかったけど構わず二人の下へと足を向ける。
「私も手伝う」
 声にした言葉は小さかったけど、二人とも此方に顔を向けて、それから優しく微笑んで手招いてくれた。目尻に滲んだ涙は気付かない振りをする。
 パスポートの写真が全然違うって苦笑するお兄ちゃんに、ぎこちないけど笑い返すことができた。穏やかに流れていく時間。こんな風に少しずつでも元の自分を取り戻していければいいなって思った。
「お願いがあるんだけど」
 お兄ちゃんの隣で荷物の整理をしながら言う。
「学校で私を護ってくれた召喚獣もつけてもらってもいい?」
 顔は少し怖いけど、お兄ちゃんがいない間、何となく彼らが私を護ってくれると思ったら待つことができる気がした。
 お兄ちゃんは、私がそんなことを言ってくるとは思わなかったみたいで、少し驚いた顔をしていた。
「まだ助けてくれたお礼も言えてないから」
 ちょっと恥ずかしくて、ぽそぽそした喋りにしかならなかったけど、俯いた頭を撫でてくれたから、きっと願いは聞き入れてくれたんだと思う。
「葵が呼べば姿を現すように言っておくよ」
 そうお兄ちゃんが言うと、照明の灯りでできた影がほんの少し揺れたように見えた。
「明日は一緒に朝ごはん食べるよ」
 朝起きたらずっと締め切っていたカーテンも少し開けてみる。
 お母さんを手伝って、朝ごはんを作って久し振りに一緒にご飯が食べたいと思った────。


初出:2021.03.05

bottom of page