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131話 ─ 中段 ─

 この場所に訪れたのはこれで二度目だった。
 一度目は、主命により主の妹御の護衛の為に。
 そして二度目の今回は、主を護る為に───。


 設計者との最終試練を終えた。
 だが試練の報酬として与えられた記録は、確かに影の君主の存在についての情報ではあったが、旬の知り得たかったものではなかった。しかもそれとは別に体内に現れた心の核という新たな疑問も出てきた。
 水篠旬と影の君主の関係、存在。
 設計者に問い詰めたいことは多々あったが、記録から目覚めたと同時に目の前に広がる惨状を目の当たりにしてしまっては、そんな余裕はなくなってしまった。
 人間に向けて振り下ろされる設計者の凶刃。危機一髪のところで攻撃を回避させ、設計者を倒すことはできたが、その犠牲は少なくなかった。
 ダンジョンに入る前、協会に連絡を入れるように頼んだのは旬だった。それがこんな惨劇を生み出してしまったことに、旬の顔に苦悶の表情が浮かぶ。
 ダンジョンは攻略できた。だが、あまりにも犠牲を出し過ぎてしまった。
 自分の判断の過ちによって出してしまった惨劇に、旬はゲート外に運び出された犠牲者を前に悼むことしかできなかった。勿論、自分にそんな資格はないことも重々承知している。
 きっと、今回のこの惨劇はメディアによって有ること無いことを世間の同情を引くように報道されるだろう。ある程度の情報規制はされるだろうが、それでもその中には少なからず、旬や協会側を非難する内容も出てくる筈だ。
 旬自身は何を言われても気にすることはなかった。だが協会への批判、ひいては家族に批判の攻撃が及ぶ可能性もなきにしも非ずで。もしそうなってしまったらきっと自分は悔やんでも悔やみきれなくなるだろう。
 後悔の念を押し殺し、犬飼の言葉を聞いていた旬だったが、自分の身体に不調が出てきていることに気付く。
 ふらつく身体に耐えることもできず、咄嗟に抱き留めてくれた犬飼に申し訳なく思いながら旬はそのまま意識を失ってしまった。
「……ット…」
 意識を失う前に旬の口から出た言葉は、周りの喧騒に掻き消され誰にも聞き留められる事はなかった。
 だが、ただ一人だけその声に反応した者がいた。
 旬が倒れた瞬間、彼の影から突如として現れた一体の魔物。知らなければダンジョンから出てきたモンスターと間違えられるところだったが、旬の近くにいた犬飼と向坂は、この魔物が何者か分かっていた。
 それでもなんの前触れもなく、人ではないものが目の前に現れては、ハンターだとしても驚きを隠しきれない。犬飼は思わず腰を浮かしかけ、しかし腕の中に旬を抱き留めていたことを思い出し、慌てて再び抱え直す。正面には魔物─ 旬の召喚獣 ─が無言で立っている。
 何を伝えようとしているのか分からず、見上げた顔を凝視していると更にもう一体、その召喚獣の横に並び立った。
 ブワリと全身が総毛立つ。
 見間違う筈がない。
 架南島で何人ものS級ハンターを手にかけたモンスターだ。
 旬が架南島にいたアリを自分の召喚獣にしていたことは、犬飼も人伝てに聞いていた。更に以前、旬と一緒にダンジョンに入った時もアリの存在は確認していた。だが、距離があったことでそこまでの意識はしていなかった。
 そんな曰く付きの召喚獣だ。いくら旬の召喚獣であったとしても、今は主である旬の意識がない。そんな状況で果たしてこの召喚獣たちは何の為に現れたのか。
『王を返せ』
「っ!」
 アリの姿をした方の召喚獣が突如人語で話し掛けてきた。と、同時に凄まじい気を犬飼に向けてくる。殺気にも似たオーラが辺りに広がり、作業をしていた他の職員は元より、勇気ギルドのハンターや更には最上、向坂さえその強大な力に身体が固まってしまう。
 正面から敵意を向けられた犬飼は動くこともできず、旬を抱き落とさなかっただけでも奇跡と言えた。
 スパーンッ!
 と、一触即発のような空気の中、その場に似つかわしくない妙に軽快な音が辺りに響いた。
 何が起きたのか分からず、目の前の召喚獣を見ると、もう一体の騎士の姿をした方がアリの姿をした召喚獣の後頭部を下から上へとスナップを思い切り利かせた張り手を見舞わせていた。
 衝撃でアリが前方につんのめった。
 勿論、そんなことをされれば、相手に怒りを向けるのは当然で、案の定、叩いた張本人に猛抗議をしていた。
『貴様!何をする!』
『……、………』
『しかし、王が…っ』
『……!』
『くっ!分かった』
 犬飼の目の前で召喚獣同士が何やら言い争っているようだった。
 人語を話せるのはどうやらアリの方だけのようで、騎士の話す言葉は音としても認識することはできなかった。
 固唾を飲んで彼らの動向を見守っていると、話は付いたのか騎士が此方に向き直り恭しく礼をしてくる。
 反対にアリの方はそっぽを向いたまま踏ん反り返って何やら不貞腐れた様子だった。
 状況がイマイチ上手く飲み込めない犬飼に騎士 ─ イグリット ─ は右手を差し出してくる。
 その意図を汲み取れずにいるとイグリットの隣から声があった。
『人よ、我らの主を助けて頂き感謝します。だが、これ以降は我らで主をみますので、主をお返し頂きたい』
 どうやら騎士の言っていることを代弁しているらしい。
 棒読みとも取れるその言葉に犬飼は困惑する。
 旬が彼らの主であることは既に周知の事実ではあったが、だからと言って意識を失うように倒れた旬をこのまま彼らに渡すのは得策ではないように思えた。
 ゴクリと緊張から出る唾を嚥下する。
「言わんとすることは分かった。しかし、こんな状態の水篠ハンターを渡すことはできない。此方としては今すぐ病院へ連れて行きたい。適切な処置をしなければ、いくらハンターと言えども危険な状態だ」
 理解してもらえるのか不安ではあった。思った通り、アリ ─ ベル ─ からは猛反発を喰らい、ビリビリと周りの空気が震えていく。
 ガンッ
 しかしベルはまたしてもイグリットから今度は頭頂部に拳骨を貰い、その痛みで地面にしゃがみ込んだ。
 殴った本人はベルの方を見向きもせず、視線は変わらず犬飼に向けたままだった。
 “何か…想像していた感じとは大分違うな……”
 何度か旬の戦い方は見てきた犬飼だが、その度に召喚獣たちは彼からの命令を忠実に遂行していた。そこには一切の感情はなく、主の命令だけを利く兵士のようにしか見えなかった。
 しかし、今目の前にいるこの召喚獣たちは旬の命令でここにいるわけではない。自分たちの意思で主を護ろうとしている。しかも、手段を選ばずと言った傍若無人な振る舞いをするわけでなく、少なくとも片方の召喚獣は此方と対話で話を進めようとしていた。
『ここで私たちに主を引き渡すよりも、病院にお連れする方が良いと貴方は仰るのですね』
 後頭部を押さえながらも律儀にイグリットの言葉を代弁するベル。紳士的な話し方に、気持ちが幾分落ち着いてきた犬飼は、感情を入れることなく論理的な側面からイグリットの説得を試みてみる。
「ハンターは一般人よりも遥かに回復力があります。水篠ハンター程の方なら回復も他のハンターよりも早いでしょう。しかし、今回の騒ぎは直ぐにマスコミの元にも届きます。加えて水篠ハンターは今や世界からも注目されているハンターです。貴方方が何処に彼を連れて行こうとしているかは知りませんが、病院であればマスコミも入ってくることはできません。また協会が情報を封鎖すれば、今回の水篠ハンターに関する情報は遮断することができます」
 ここまで一気に説明するとイグリットの出方を待った。
 此方の言いたいことはきっと彼になら届く筈だ。そう願い、見下ろしてくる人成らざる瞳を逸らすことなく受け止める。
 数十秒。周りが固唾を飲む中、イグリットは言葉なく片膝を付く。犬飼が反応するよりも早く旬の身体を腕に抱き、音もなく立ち上がった。
「何を!」
『貴方の言い分は分かりました。病院へは行きましょう。但し、主の身は私が運びま…っ、はぁ?!何で貴様が、いったぁっ!!』
 ベルがイグリットの言葉を話していたが、イグリットが旬を連れて行くと言ったところで通訳から抗議の声が途中で入る。しかし、やはり今回も有無を言わせず足蹴にされ、敢えなく地面に撃沈させられてしまう。こうなると些かベルが不憫に思う周囲であったが、余計なことは口走らない方がいいと,結局誰もが口を閉し、ベルに若干の同情と憐憫の視線を向けるに留められた。
「……では此方の車両に水篠ハンターを連れてきて下さい」
 召喚獣同士が何やら揉めているようではあったが、結局何を言っても旬の側を離れるつもりはなさそうだと判断した犬飼は、一つ嘆息すると気持ちを切り替え、呼んでいた救急車両に彼らを案内する。
「但し、貴方方の姿は一般人には見慣れないものです。無用の混乱を避ける為、車両に水篠ハンターを運ばれた後は、姿を消して頂けると此方としても有難いのですが」
 特にベルの姿は架南島での悪夢を再び呼び起こされる可能性が大きい。病院内をパニックに陥らせぬ為にも、病室に入るまでは姿を現せないで欲しいのが、犬飼としての本音だった。
『………』
『何で?!』
『…………、……』
『貴様ばかり…っ』
『………』
『っ!その言葉忘れるな!』
 そうこうしている内に彼らの間でも話が纏まったみたいで、ベルが悔しそうな声音を吐くと共に、現れた時と同じく音もなく地面にできた影の中へと還っていった。
 ベルがいなくなっただけでも、随分と周りの空気が軽くなった気がする。
 改めて犬飼はイグリットの前を歩いて行く。
 その際、チラリと横目で旬の様子を窺った時に見えた、彼らの姿に少なからず疑問を抱いた。何故なら、まるで壊れ物を扱うかのように旬の身体を横に抱くイグリットの手が、人ではないものなのに人よりも優しく繊細に犬飼には見えたからだ。
 上司と部下という上下関係しか知らない犬飼にとって、旬とイグリットの主従関係は不可思議なものに見えた。と、共に何故だかとても羨ましく思えた。



 あの後、旬は都内の病院へと搬送され、今は要人用の病室のベッドの上で眠っていた。
 イグリットは犬飼に言われた通り、一般人がいる場所では姿を見せることもなく、旬が病室に運び込まれた後、姿を現し犬飼に向かって恭しく礼をしてきた。
 犬飼としては、旬が目覚めるまで留まっておきたい気持ちもあったが、ゲートの事後処理など火急の要件が残っている。病院スタッフに旬が目覚めたら必ず協会に連絡をするよう依頼して、後ろ髪を引かれながらも帰っていった。
 空調が静かに動く音が聞こえる。
 ユラリと照明の光によってできた影が動く。
 眠っている旬の側に静かに跪いたイグリットは、そっと主の容態を窺い見ていた。
 旬の身体の傷は既にバフ効果により痕もなく治癒されていた。顔色も悪くなく、医師の見立てでは過労による衰弱と判断されたと犬飼伝てに聞いた。
 最近休みなく動きまわっていた旬に懸念を抱いてはいたが、やはり無理をされる前に諫言しておけばよかったとイグリットは後悔する。
 加えて設計者によって過去の影の君主の記憶を強制的に見せられていたのだ。それにより更に身体への負荷が蓄積された結果だったのだろう。
 未だ起きる気配のない旬の手をそっと取り、祈るように自分の額に押し付ける。じんわりと感じる旬の体温の温かさに、彼が生きていることを実感できる。
 試練を突破し、設計者をも打ち倒した旬だったが、ゲートから出た後、昏倒するように意識を手放した。
 あの時の身を潰すような戦慄は今でも身体が震える程覚えている。それ程イグリットにとって旬は何者にも替え難い存在となっていたのだ。
 それは主である以上に。
 いつから旬に対して主以上の想いを抱いていたかなんて、イグリットにももう分からなかった。ただ、自覚してしまえばそれはずっと己の心の奥底に燻っていた想いであり、気付かないように主従というベールで覆い隠していた禁忌の扉でもあった。それを己の手で開いてしまったのだ。
 眠っている旬を伺い見る。
 今はいつもの意志の強さを思わせる瞳が閉じられている所為か、年相応の青年の面差しに見える。
 きっともう後少しすれば旬の意識も戻るだろう。それまでには自覚したこの想いを今までのようにまた心の奥底へと封印しなければならない。これは絶対に表に出てはいけない想いだ。
 それなのに、

「イグ……ット…」

 意識のない旬の口から漏れた言葉が、閉まりかけた扉をこじ開ける。
 駄目だ、聞くな。
 警告を唱える心が、開く扉に抗う。
 こじ開けられた扉を無理矢理固く閉め、その上から何重にもなる鉄の鎖を巻き付け鍵を掛ける。それでも閉めた扉の隙間から漏れ出てくる想いを扉ごと心の奥底に沈める。再び浮上することのないように。深く深く、その姿さえ見えない深淵の底まで。
 旬の瞼が微かに動く。
 もう少し。深淵に沈みきるまでまだもう少しかかってしまう。
 だから、まだ目覚めないでほしい。
 今あの瞳で、声で、自分の名を呼ばれるわけにはいかない。
 切願する想いを込めて、イグリットは己の心を殺していく。
 召喚獣でありながら感情を持ってしまった己を悔やみ、それでも旬の側から離れることはどうしてもできない自分に苦く笑う。
 それはどんなに自分の心を殺したところで、無駄なことだと分かってしまっているから。
 時間稼ぎにしかならないこの行為の先に何が待っているかは考えたくなかった。
 ゆっくりと旬の瞼が上がっていく。
 虹彩の輝きがキラキラと照明を反射させる。
 まだ覚醒できていない旬に気付かれないように、イグリットは握っていた旬の手をゆっくりと放し、現れた時と同じく病室の床にできた影の中へと戻っていった。



「?……」
 隣に誰かの気配を感じて目を覚ました旬だったが、そこには既に誰も居らず、静まり返った部屋の見知らぬ天井が視界に入ってきただけだった。
 そっと上体を起こして状況を把握しようとする。
 無意識に手のひらを額に当て、混濁した記憶を整理する。
 その手のひらに誰かの気配の名残を感じた。
 誰だか分からない。けれども切なくなるような人知れぬ慕情が胸に沸き、気が付けば手のひらに唇を押し付けていた。
 じんわりとした温かさが胸に広がる。
 それが何を意味するのか。

 カチャリ──

 脳裏に浮かんだものがあと少しでカタチになりそうなところで、それは病室の扉が開く音により無情にも霧散してしまう。
 そうなれば、意識をそちらに向けた旬の心には、結局何も残ることはなく、手のひらに残った気配の名残も彼の脳裏から薄れていった。

 そして旬が目を覚ました後以降、病室の床にできた影は一度も揺れることはなかった────。


初出:2021.02.06

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