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129話 ─ 中段 ─

「何故裏切った」
 喧騒が広がり土煙が舞う戦場であっても凛然と響くその声に、こんな状況であるにもかかわらず誰もが耳を傾け聞き惚れていた。
 それは声の主の目の前に立ち塞がるバランであっても同様で、できることならばその声を我が身の側で永遠に聞いていたいとも思っていた。否、声だけではない。彼を形造るもの全てを手元に置き、誰の目にも触れさせず永遠に美しいままでこの手に支配したかった。
 悪魔族の王であるバランと影の君主である眼前の男。二人は各々の種族の長であり、利害の成立する関係でもあり競い合う戦友でもあった。
 二人が戦場を駆け巡れば、その戦は必ず勝利すると言われ、実際にそれは事実であり、どの戦においても無敗を誇っていた。
 互いに大型の長剣を振るう二人であったが、戦闘における武器の扱い方はそれぞれ若干の異なりがあった。
 バランはどちらかというと派手な立ち回りで自らが発する雷撃を縦横無尽に撃ち放ち広範囲の敵を一掃するスタイルを得意としていた。
 一方、影の君主はバランのような派手さはないが剣を一振りするだけで一瞬にして敵を屠り、辺り一面に死屍の山を幾重にも積み重ねさせていた。その圧倒的な力は敵だけでなく味方でさえも畏怖する程であり、ある者はその力に狂信的に心酔し、ある者は恐怖の対象として跪いていた。
 この戦い方の違いが互いを補い合い、力を更に強固なものにしていった。それは誰もがこの二人の間を裂くことができなかった所以でもあり、この先も続いていく不偏的事象だと思われていた。
 それが今この時崩れたのだ。
 長きに渡り交戦を強いられてきた銀の軍隊との決着を漸くつけることができるところを突然、背後から現れたバラン率いる悪魔族の奇襲により崩れ去ったのだ。
 悪魔族と獣族の裏切り。
 だが、その予兆を影の君主は薄々感じてはいた。
 いつの頃からか自分を見るバランの目に危ういものが潜んでいるのに気付いていたのだ。
 例えば陣幕に篭り作戦を練り終わり、緊張から解放され凝り固まった身体を寛げている時など、ふとした時に視線を向けると必ずバランの視線は君主の方を向いているのだ。
 その瞳は何かを値踏みしているような獲物を定めているような獰猛な熱を潜ませていて、気付かぬふりをするには厄介なものを彼は感じていた。しかもそれが特に顕著に現れるのは自分の片腕とも言える者を側に置いている時だ。
 彼の者が自分の側に寄る度に恐ろしいまでの殺気を纏わりつかせてくる。此方がそれに気付いていることは分かっている筈なのに、そのくせ言葉は一切かけてこない。視線と殺気のみを此方に向けて、彼の者が離れていくまでそれを絡ませてくる。
 勿論、常人ならばそれだけで卒倒してしまう程の殺気だが、そんなことで参るような右腕ではないので、逆に面白がって煽るようなことをしでかし更にことをややこしくさせて頭の痛い思いをさせられたことについては此処では割愛する。
 そんな風に危うい均衡を保ちながらも互いの敵である銀の軍勢を殲滅するべく、今まで策を練り漸くここまで彼らを追い詰めることができたのだ。それが一瞬の隙を突いてバランは崩れさせたのだ。銀の軍勢に加勢するでもなく、ただ影の君主一人を手に掛ける為に。
「何故だと聞いている」
 今一度、君主は目の前の男に問う。何故今このタイミングで裏切ったのかと。
 銀の軍勢を討つは悪魔軍とて切望していた筈だ。
 強大な力は自らの軍だけでは太刀打ちできる筈がなく、他種族と同盟を組み、互いの主張をどこまで妥協できるか牽制しながらきたのだ。
 それが裏切りという形で終幕を迎えることに彼らは本気で納得しているのだろうか。
 君主は底冷えのする眼光をバランに投げるが、返ってくるのは嘲笑と共に此方を見据える赤く染まる視線の熱さだけだった。
「何故裏切っただと?そんなことも分からない貴方ではない筈だ。貴方は認めたくないだけだろう。我が貴方に向けるものが何かを言葉として形にしたくないだけだ」
 地に膝をつき既に剣さえも持つことが叶わぬ身体であるにもかかわらず、君主を射抜くはあの時と変わらない獰猛な熱を孕んだ殺気にも似た視線で、問われた言葉に嘲りを込めて返される。
「貴方を穢してやりたいとずっと思っていた」
 貴方は闇の中でさえ浮かび上がり、闇よりも深淵なる黒を纏いながらも誰よりも崇高で気高かった。
 穢れなどその気高さで、一滴のしみさえ寄せ付けることがない。
 だからこそこの手で汚してやりたかった。
「貴方とて所詮は我々と同じだと貴方に心酔する者たちの前で見せつけてやりたかった」
 欲に濡れ堕ちていく姿はさぞかし彼らを絶望させるだろう。それとも彼らもまた同じく地に堕ちてくるだろうか。
 バランの口元に残忍な笑みが浮かぶ。
「それが理由だと言うのか」
 それまで口を挟むことなく、何の感情も表さず相手の語る声を静かに聞いていた君主は、それだけを言うとバランの首に指をかけ、今一度問うた。
「そうだ」
 睨める視線に怯むことなくバランは己の視線を合わせる。
 君主の指に僅かに力が込められる。だが、それだけではバランの息の根を止める程ではない。
 その緩い動きにこの大一番での裏切りに情けをかけようとしているのかと鼻白んでしまう。
 それと同時に自分が描いた最悪のシナリオさえも彼の心の琴線に何一つ触れなかったのかと息苦しさと共に愕然とした。
 しかし、それでもまだ一つだけその中で最後に彼が絶対に無視できないものを残していた。影の君主を唯一動かすことができるもの。
「そう言えば、いつも隣にいる腹心の姿が見えぬようだが。このような時に貴方を護りもしないとは随分と冷たいのだな」
 どんな時も君主の側を離れず、右腕と云われる程の実力を持つ側近がこの場にいない不自然さを指摘し冷笑する。
 案の定、首にかかる指の強さが増したことに自分の考えが間違っていないことをバランは確信する。
「貴方の腹心は何処にいるのか。後方支援?城の守護?それとも別の任務に就かせているのか」
「お前には関係のないことだ」
 無情にも言い捨てる君主に、しかしバランの言葉は続けられる。
「そうそう、先程ここに来る前に寄った場所で目障りな獣がいたな。余りにも此方の邪魔をするように目の前をうろうろするものだから思わず剣を抜いてしまった」
 一転して話が変わったことに胡乱な目を向ける君主に、バランは笑みを深くする。
「そう言えばそれは貴方の玉座の近くにいたようだ。中々そこを退かないものだから、カッとなって毛艶の良い漆黒の体を切り捨ててしまった。今頃貴方の玉座はその獣の血で染まってしまってしまっているかもしれな───」
 全てを言い終える前に強烈な力が己の首にかけられ、バランは圧迫感に目を見開く。君主の指が頸動脈を押さえ気管を潰し、一瞬にして呼吸ができなくなる。声帯も潰され、声も出すことができなかった。
 それでも霞む視界から見えた君主の顔に怒りと憎悪の感情が浮かび、それが自分に向けられていることにバランは昏い悦びを感じた。
 漸く自分の方を向いたと。
 君主とは共に歩んでいたと思っていた。銀の軍という共通の敵を倒すべく互いに手を結び戦ってきた。馴れ合うことはなかったが、それなりの情というものは存在していたと思っていた。
 しかしそれは自分だけの思い上がりだった。
 彼はその称号の通り、影の君主として常に孤高を貫き誰よりも前に進んでいた。此方を振り返ることもなく突き進んでいく彼の姿に、いつの頃からか焦燥にも似た感情が己に中に巣食っていることに気付いてしまった。一度で良いから己の方を向いて欲しいと。どんな感情でも良い、己に見せて欲しいと願った。
 たがバランの願いは叶うことなく、君主の瞳に自分への情が灯ることはなかった。
 だから使ったのだ。
 君主が唯一、心を許し側におく者を使えば嫌でも感情が動くだろうと。
 その思惑は当たり、この瞬間、彼は腹心に手にかけたバランにだけ目を向けている。それが憎悪という感情であっても漸く自分の方を向いたことにバランは満足する。
 その穢れなき顔を少しでも歪ませることができただけでもこの茶番を始めた甲斐があったと。
 君主から目を逸らすことなく、地に崩れ落ちその骸を戦場に散らすまで、バランの口元には笑みが消えることはなかった────。


初出:2020.12.23

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