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121話 ─ 中段 ─

 オーク戦の後、現場に現れたハンター協会の後藤会長の車に乗り込み、葵が搬送されている病院まで同乗させてもらっていた。
 最初は一刻も早く病院に行きたい為、カイセルに乗り移動しようと丁重に断りを入れたのだが、重要な報告があると深刻な表情で言われてしまうと、そこまで強く拒否することもできず、ここは素直に従うことにした。
 会長からもたらされた情報は少なからず有益なものであったし、何よりゲートに侵入する為の人数制限を解除してもらえる方向への便宜は、今後のことを考えればとてもありがたいことだった。
 ただ、そんな有益な話も今の自分の気分を浮上させるものにはならなかった。
 病院に到着した車から降りると既にオーク襲撃の情報を嗅ぎつけたマスコミが病院入り口にハイエナのように群がっていた。
 車は予めマスコミのいない裏手側につけてくれていたので、後はスキルを使えば誰にも見つかることもなく葵のいる病室に入ることができた。
 病室は協会側が手配してくれたらしく個室を充てがわれていた。後藤会長からはSランクハンターの身内が複数部屋だと色々と混乱を生じる恐れがあるからとのことだが、それについては素直に感謝した。
 母は既に協会職員に連れられ到着しており、目元を真っ赤にしながらも自分の顔を見ると少し安堵したような表情を見せてくれた。
 葵は幸いにも酷い怪我も身体にも異常はなく、今は心身の疲弊と泣き疲れで眠っていると母から聞かされる。
 ベッドに近付き眠る葵の顔を見る。
 泣き腫らした目元は真っ赤に腫れ、涙の跡が色濃く残っていたし、何よりも首から口元にかけてのオークに掴まれた指の痕が痛痛しく晒されていた。
 母は自分に葵を任せると入院の手続きをしてくると言って階下に降りていった。
 空調の音だけが室内に響く中、眠る葵の顔を見ながら身の内で吹き荒れる怒りと後悔の念を消化できずにいる。
「ハイオーク」
 それをどうにか抑え込み影を喚ぶ。
 葵を護衛していた影が音もなく背後に現れ、膝を付き控える。
「葵を護ってくれてありがとう。引き続き葵を頼む」
 三体に労いの言葉をかけると、神妙な顔をした影たちの表情が少し緩み、そのまま葵の眠るベッドの下へと姿を消していった。
「イグリット」
 ハイオークたちの姿が消えたのを見届けると次にイグリットを喚ぶ。
 同じように自分の背後で跪いて控えるイグリットにも今まで葵についていてくれたことに礼を言い、彼には自分の影に戻るように言う。
 そう、そのまま戻ってもらおうと思った。
 けれど、振り向きイグリットの姿を見た途端、抑えていた感情を制御することができず、どうしようもなく彼に縋り付きたい衝動が胸を衝き、立ち上がり恭しく低頭する彼の胸元へと飛び込んでしまった。
 自分のいきなりの行動だったにも関わらず、イグリットはふらつくこともなく自分の身体を支え、そのままそっと抱き締めてくれる。
 温かみのある生身の身体ではないのに、イグリットに包まれると安心して、今まで張り詰めていた緊張の糸が緩んでいくのが分かる。そしてずっと出すことのできなかった心の澱を彼にぶつけてしまう。
「どんなにオークたちを倒し、ボスを屠っても気持ちが晴れないんだ。葵の無事な姿を見れば晴れるかと思ったけどそうじゃない。今も怒りなのか悲しみなのか分からない感情がずっと胸の中で留まって身体から出すことができないんだ」
 オークに掴まれた痕の残る葵を見た時、オークへの怒りよりも自分に対する怒りの方が強かった。
「俺が騎士団の依頼を受けなければここから離れることもなかった。受けていても影交換なんて使わず彼らと一緒に向こうへ行っていれば直ぐに戻って来れたのに、横着なんてするんじゃなかった。葵にもしものことがあれば…っ」
 徐々に感情が昂ってくる。
 声を抑えなければ葵が起きてしまうと頭では分かり制御しようと思っているのに、一度吐いてしまった言葉への感情は自分のものなのに制御することができそうになかった。
 そんな中、どうにかして溢れる感情を抑えようとしている自分に抑える必要はないと言うように背中に添えられたイグリットの手があやすように優しく背を打つ。
 トントンと。
 その規則正しいリズムに徐々に感情が落ち着きを取り戻していく。
「ごめん…取り乱した。あとは自分でどうにか折り合いをつけるよ」
 もうそろそろ母も戻ってくる頃だろう。
 イグリットを出したままにしていれば驚かれてしまう。
 まだ不安定な感情が残ったままの身体は、もっと抱き締めていてほしいと、名残惜しくイグリットから離れ難くいたが、こちらに戻ってきている母の気配に仕方なくイグリットの腕の中から離れる。
 今度こそイグリットに影に戻るように言うと、彼は恭しく首を垂れるとそのまま影の中へと戻っていった。
 その際、彼の前にいた自分の手を取り何時ものように口吻をしていくのをいまだに慣れることなく気恥ずかしさを滲ませながら眺めていると不意打ちのように手を引かれ強く抱き締められた。
 それは自分に彼の存在を強く残していくような抱擁で、何かあれば何時でも喚び出すようにと言われているようでもあった。
 カチリと病室の扉が開く音がする。
 既にイグリットの姿はなく、戻ってきた母が病室の真ん中で何もせず立ち止まっている自分を不思議そうに二、三度瞬きをして見つめていたが、何かを言うわけでもなく自分をソファに座らせると、温かい珈琲をそっと淹れてくれた。
 それは母が何時も淹れてくれる甘めの珈琲であり、一口飲んでホッと息を吐くと漸く身体に入っていた緊張を解くことができた。
 足下には照明でできた自分の影が一つ。
 見つめる先で小さく揺れた────。


初出:2020.10.04

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