── 沖の屋
120話 ─ 中段 ─
ベルが喚ばれた。
常ならば、影の中で最も戦闘力が高いが周囲に畏怖を与えるベルではなく、自分か自分の次に古参のアイアンかタンク辺りを先に喚び出す主が躊躇うことなくベルを喚び出した。
ベルは主に喚ばれたことに嬉々として出ていったが、どうにも腑に落ちないところがある。更に、違和感を覚えたのは主がベルをその場に置いて戦線を離脱したこと。
今までそんなことは一度としてなかった。
必要最低限の命令をベルに下し、一切の未練もなく今来た道を戻って行く。
そしてその違和感は主がゲート外にカイセルを喚び出し飛び出したことで一層大きくなる。
影の中からでも主の張り詰めた空気を感じる。
焦り、怒り、懸念、様々な感情が流れ込んでくる。
原因は分かっていた。
主の家族につけている影に異変が起きているのだ。
カイセルをあり得ない速度で飛ばせ、目的の場所まで移動する。
到着した場所からはゲートが開き、中から魔物たちが現れたことの分かる瘴気が影の中からでも感じた。
最短距離で家族のいる場所にカイセルを降下させる。主の怒りは既に頂点に達していた。
いつもより数段低い声音がそのことを如実に表しており、自分を喚ぶ声にも怒り以外の一切の感情が抜け落ちていた。
泣きじゃくる妹殿を敵に背を向け抱き締める主の背後に立つ。
既に主のオーラに圧倒されている敵に主を害することなどできないと分かってはいるが、どうしてか今はこの背を奴等から遮りたいと強く思った。それはどういう感情からきているのか分からない。唯、主の怒りが抑えることのできないところまできていることは身体中で感じる。
何よりも大切な家族を傷付けられたのだ。敵に情けをかける必要など欠片もないが、抑え切れない怒りは主自身にも向けられているのではないかと危惧している。
もしも──、という仮定に囚われ、その場にいなかった自分を責めているのではないのか。
怒りは正常な判断、思考を鈍らせる。
家族を思うがこその制裁に、どうか人としての一線を越えることのないようにと切に願う。
“影の君主”
闇がどんな時でも主の側に潜みついている。影である自分がこんな想いを抱くのは矛盾しているのだろうが、主には我らの主君としてよりも人としての生を尊んでほしいと願う。
どうか自ら進んでこちら側に来ることのないように。
妹殿を自分に託し、此方を見ることもなくすれ違う主。
少しでも主の心火を鎮めることができればと、指先にそっと触れる。無駄と分かっていてもせずにはいられなかった。
果たして主がそれに気付くことはなく、主命を受けた自分は妹殿を護る為にその場から離れた。
こんな状態の主を一人残して離れることに言いようもない不安が押し寄せる。
どうかこれ以上主が闇に呑まれことのないように。今はそれだけを願った────。
初出:2020.09.25