── 沖の屋
119話 ─ 中段 ─
初めて主から下された命令は主の妹御の護衛だった。
主が不在の時に妹御に危険が及ばないように影に潜んで見守る任務だ。
人間とは小さく脆弱な生き物だ。主のようなハンターというものは人間の中には一握りしかいないという。
妹御は主と違い唯のひ弱な人間だった。
何の力も持たない、契約という掟で繋がっているわけでもない。それなのにそこには“家族”という血の繋がりだけで絶対的無条件で主から護られる存在があった。
主からの命令であった為、他のハイオークとは別行動となったが正直に言うと退屈な任務だった。
人間界は日々同じことの繰り返し。
日が昇り日が沈む、その間に決められたことを誰に言われるでもなく行うだけの日々。
護衛を任されても、ここは治安が良いのか自分が役に立つことは全くなかった。
彼女は学校というところに通い、一日の大半をそこで過ごす。
その空間は一種の聖域のような場所にみえた。
彼女のような人間は皆、大人の庇護の下で時間を区切り授業というものを受け、それの間に他の人間と談笑したり食事や読書、部活動というものをしていた。
変わらない退屈な日々。
それでも人間たちはその中で笑い、怒り、悲しむと実に豊かに表情を変える。我々にはないものだ。
彼女も他の人間に違わず、否それ以上にころころとよく表情が変わる。特に友人と呼ばれる人間と話をしている時は常に笑顔が絶えなかった。
主があまり表情が変わらない分、彼女の側にいるとそれが酷く新鮮に見えた。と同時にその横顔に偶にしか見ることのない笑んだ時の主の面影が見え、血の繋がりを垣間見た気がした。
そしてその笑顔を影の中から見守ることが案外嫌ではない自分に気付く。
ずっと笑っていてほしいと思っていた。こんな感情は今まで感じたことはなかった。と、いうよりも怒りの感情以外生前より持ったことがなかった。
そんな中、彼女の尋常ならざる悲痛な声を聞く。
今まで朗らかな声しか聞いたことがなかった彼女の声は怯え恐怖し、主を呼び続けていた。
異変を察知した時には残りの影と共に彼女の前に立ち塞がり、振り下ろされた凶刃を受け止め、怒りと共に彼女に刃を向けた愚か者を殴りつけていた。
チラリと見えた彼女の顔は蒼白で、恐怖に打ち震え逃げることもままならない状態だった。
許し難かった。
彼女をこんな風にしたオーク共が許せず、あまりの怒りで身体が震えた。向かってくる敵を薙ぎ払うだけではこの怒りを鎮めることは到底できそうになかった。
しかし我らの力を持っても敵の大将であるオークには敵わなかった。
ジリジリと身を斬られ、その度に再生を繰り返す。再生時は身体を動かすことができない。けれども彼女にだけは危害が及ばぬよう、今はそれだけを最重要事項としてオークの襲撃を身を盾にしてでも防がなければならなかった。
主の気配を感じる。
もう直ぐ、もう直ぐ主が到着する。
それまで保てばいい。
それまでは何が何でも護り抜かねばならない。
それは主からの命令だからではない。
退屈な日々に彩りを与えてくれた彼女の笑顔。
それが永遠に失われることがないように。どれだけこの身を斬られ再生を繰り返そうとも、再び彼女の笑顔を見るまでは倒れるわけにはいかない。
早く──
早く───
早く────
我らの力が尽きる前に主よ、早く彼女の下へ───。
消えゆく視界の端で彼女の前に一人の人間が降りたった。
ああ…、我らの役目は果たされたようだ……。
どうか、また彼女から笑顔が戻ることを主の影に戻る中で切に願った───。
初出:2020.09.17