── 沖の屋
118話 ─ 中段 ─
ベルを召喚した直後、影の中からイグリットの気配を感じたが、それを抑えベルに今回の任務の命令を下す。
嬉々として任務に就くベルに他数体のアリの影を託すと、説明する時間ももどかしく、おざなりに騎士団のメンバーに影の説明をしてその場から離脱した。
後から契約違反だとかで損害賠償を請求されるかもしれないが、今はそんなことに構っている場合ではなかった。早く葵の元に戻らないと葵に付けていた影たちに異変が起きている。
嫌な予感しかしない中、疾走を繰り出す自分の影からゆらりと一体の影が現れ、並行してついてくる。
いつもとは違い、煙のような原型のない姿であったが、特徴的な真紅のラインを靡かせていることから相手は自ずと分かってくる。
さっきのベルを残したことに対して言いたいことがあるのだろう。だが、自分の決定を覆すつもりは全くなかった。
「お前は駄目だ」
イグリットからは納得のいかない気配を感じたが、今は説明する時間も惜しい。
「お前は俺の側を離れるな」
何故だかイグリットをあの場に残していく考えが全く起きなかった。このレベルのゲートであればイグリットであっても攻略できるだろうし、騎士団のハンターたちを護りながらであれば尚更彼の方が適任だった。
それなのに口から出たのはベルの名前だった。
「大丈夫だ。ベルもこの間のことで分かっている筈だ。二度も同じ過ちをすればどうなるかくらい想像がつくだろう」
向坂ハンターとのギルド加入試験の時のことを思い出す。
始めの内はベルも加減をしながら相手をしていた。終始相手の上手を取って余裕を持って相対していたが、思っていたよりも彼女の能力が高く、幾分軽く見ていたところに隙を突かれ、重い一撃をもらってしまったのだ。
ベルは影の兵士として自分には従順であるが、生存本能はそれとは別に彼の脳内を侵食する。
あの時も向坂ハンターの一撃にベルの本能が呼び出されてしまい、それが自分の命令を凌駕した。
寸でのところでベルの攻撃を防いだが、こんなことが次も起こらないとは言い切れない。アレは元々人を殲滅する為に生み出された殺人兵器なのだから。
イグリットはそのことについて危惧しているのだろう。
あの時は自分がその場にいたから事なきを得たが今回は違う。自分のいないところで、もしベルの本能を刺激するようなことが起きれば、騎士団のメンバーに危害が及ぶかもしれない。
分かってはいるが、結局イグリットを自分の側から離すまでの理由にはならなかった。否、できなかった。
「お前の言いたいことは分かる。だけど、何だろうな…。お前を置いて離れたくなかったんだ」
過分な我儘だと自分でも思う。こんな時に私情を挟むなんてどうかしてると思うが、ゲートから離れることを決めた時点で私情も何もないかと自嘲する。
「結局俺の我儘なんだ」
どんな時も自分の側で侍していたイグリット。
イグリット自身は本来アタッカーであり常に前線で戦うことを主体としていたが、時には此方が指示を出さなくても他の影たちの援護に入ることもある。それは単独攻撃をするベルやアイアンには到底できる芸当ではない。彼らは良くも悪くも自分の命令に忠実だからだ。
けれどイグリットは違う。彼は前衛でアタッカーとして敵を薙ぎ払っていたとしても、常に周りの状況を見て攻撃範囲を判断していた。自分自身で戦略を練る。それは正しく己の腹心と言っても過言ではなかった。
それなのにふとした時にイグリットは自分の側に戻ってくる。特に何かあるわけでも指示を仰ぐわけでもない。ただ、イグリットが側にいる時は何故か立ち回りがとても楽になる。それは高レイドであればある程如実に表れた。
そして思った。
ああ、護られてるんだな、と。
だけどそれは例えば庇護しなければならない者に対しての護り方ではなく、主である自分の動きを妨げることなく、此方に向いている刃を受け流し相手を攻撃する、若しくは力を利用し自分が攻撃する為の援護となるように、または自分の動きに合わせて連携するように動いてくれる。そこには一切の言葉はない。あるとすれば互いの目線と自分から呼ぶ彼の名前のみ。
だからそれが理由で誰よりも側に置いておきたいのだろうか。
でも多分それだけじゃないんだと思う。
戦闘時の相性だとか信頼だとかそういったものだけでイグリットを側に置きたいわけではなくて。でもじゃあ何なのかと聞かれてもこの感情がどこに向かっているのかを突き詰めるのは怖くてできないでいる。
「それに今はそんな場合じゃない」
カイセルを喚びゲートを飛び出す。
さっきまで降っていなかった雨が今は全身を冷たく濡らしていくが、気にする余裕はなかった。
葵を護衛させている影からの信号は未だ断続的に送られてくる。
葵にもしものことがあれば、きっとこの先一生自分のことが許せなくなる。
何の為にここまで強くなったのか。
母を妹を。
家族を守る為にここまでやってきたのに、その家族を守ることができないだなんて何の為のS級ハンターだ。情けなくて自分に怒りを覚える。
カイセルの背に乗り、駆り立てるように葵の元へと飛ばす。激しく降る雨は今の己を責め立てるように身体に打ち付けていた。
それなのにふと、その雨の勢いが弱まる。
不思議に思い視線を上げると、遮るようにイグリットの影が打ち付ける雨から自分の身体を覆い庇っているのが見えた。此方に視線を向けるでもなく、ただ自分の前に立ち、向かう前方を見つめるイグリット。
「イグリット…」
今の自分が彼にそんなことをされる資格なんてないと分かっているのに、彼の気遣いに泣きたくなるような感情が込み上げる。そしてそんな感情の中に、ついさっきまで考えていたことがまた再び頭を擡げようとしているのを意識して鎮める。
今は考えるな。
それでも焦りと怒り、自己嫌悪に支配された身体が落ち着いていくのが分かる。
「ありがとう…」
擡げそうになったものに気付かない振りをして謝意の言葉を代わりに音に乗せる。
声は風雨の音で聞こえていない筈なのに、一瞬イグリットの視線が自分に向けられた気がした。けれども一つ瞬いた後にはその名残はどこにも見当たらず、彼は相変わらず前を向いたまま風雨から自分を庇い続けるだけだった。
目的の場所まで、あと少し─────。
初出:2021.01.09