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116話 ─ その後 ─

『俺に気があるんですか』
 特に意味を持って言った言葉ではなかった。

『何を期待したんだ』
 かかってきた相手が母だと分かった後に心の中で呟いた言葉。
 心情は声音に出てしまっていたのだろうか。
 誰にも気付かれていないと思っていたのに────、


 おかしいと思った。
 最初は気の所為かと思い、特に気にしてはいなかった。主に対し僭越を犯すことはできないとかなんとかで、元々向こうから積極的に求めてくることはなかったし、短くない付き合いの中イグリットの性格は大方把握していると思っていた。
 思えば向坂ハンターとのギルド加入試験後から違和感はあった。
 勝利できなかったことへの負い目からかイグリットの態度は終始罰を待つ者のように膝を付き、自分が声を掛けるまで頭を垂れ視線を合わすことがなかった。否、声を掛けてからも彼はじっと下を向き、影の中へと戻るまで自分と視線を合わすことも跪く体勢が解かれることもなかった。
 勝てなかったことへの失望や怒りなんて一切湧き上がらなかった。それよりもイグリットの振るう悪魔王の長剣の剣捌きに見惚れてしまっていたのだ。
 だからイグリットに言葉を掛けた内容も叱責するようなものじゃなかった筈だ。それなのに彼は一度も自分に視線を合わすことはなかった。それは初めて影抽出を行いイグリットを従者にした時に戻ったような自分と彼との間に一つ後ろに引いた距離の壁を感じたのだった。
 何か間違ったのだろうか。
 彼らの主として相応しくない態度を取ってしまったのだろうか。
 違う。
 主としてではない。心を通わせた者として間違ったことをしてしまったのだろうか。
 考えても理由が分からず、イグリットが消えた影の跡を誰もいない暗闇の中、一人茫然と立ち尽くすしかなかった。



「何か悩み?」
「え?」
 沈んでいた意識を正面から聞こえてきた柔らかな声で浮上させる。
 そうだ、今夜は母と久し振りに二人で食事に来ていたのだった。
 流石にいつも自分が行くような居酒屋に母を連れて行くわけにはいかないので、こういうことに詳しそうな諸菱君に事前に良い店はないか相談して予約を入れたのがここ。窓側の席から湾岸沿いの夜景が見える落ち着いた雰囲気のリストランテ。
 料理も申し分なく、今は最後のデザートをゆっくりと味わっていたところだった。
 窓から見える街灯から伸びた影が揺れるのを何とはなしに眺めていたら物思いに耽ってしまっていたらしい。
 慌てて取り繕ってみたがそんなことで誤魔化される母ではないことは分かっていた。
「心ここに在らずって感じよ」
 案の定、突いてほしくないところを突いてくる。
 適当にはぐらかしたところで母には通用しないので、ここは素直に悩みを打ち明けてみるのも良いのかもしれないと思い、店内に流れるピアノの音と程良い人の話し声に紛れて今のもやもやとした気持ちを言葉にしていく。
「悩み……なのかな……何か上手くいかなくて……」
「誰かと喧嘩でもしたのかしら」
 食後の珈琲にミルクを入れ、スプーンをゆっくり回しながら優しい声で聞いてくれる母。
 昔から変わらない穏やかな母の声に促されるままに心の内を吐露していく。
「……喧嘩までいかない……だって相手が何考えてるか分かんないから。何も教えてくれないから……」
 声を紡げないからということじゃない。
 今までだったらイグリット自身、何か諫言であれ己の心情であれ、言いたいことがあれば此方に視線を向け、その視線の強さで何を伝えたいのかがある程度分かっていた。勿論、それだけじゃ分からない時は身振りで示してくれる時もある。
 だけど昨日は視線さえ此方に向けてくれなかった。それは何も伝えることはないと言ってるようでもあり、伝えたくないとも言ってるようでもあった。そして視線を向けてくれないことがこんなにもショックだったとは思いもよらなかった。
 イグリットがどうしてそんな態度を取ったのかが分からない。だから不安で仕方なかった。
「そうね。もしかしたら相手の前で何か不用意なことを言ったりしていない? 何気なく言った言葉でも傷ついたりするものよ」
「不用意……」
 母の言葉にふと思い当たる節に気付く。
 昨夜の向坂ハンターとの会話の流れで言った言葉。
 彼女が自分に興味があると言った。自分のS級の能力に興味があるのなら、ギルドにわざわざ入らなくても架南島レイドで参戦した他のハンターたちに聞けば済むことだ。勿論己の能力を自分が教える気は全くなかったから、それこそ同じギルドの最上代表にでも聞けばいい。全てをその目で見ていたのだ。誰よりも詳しく教えてくれるだろう。だからギルドに加入するよりいい方法があると伝えたのだ。
 そのこともあり昼間も母からの電話を勘違いしたのだ。昨夜伝えたことを彼女が半日考え、ギルド加入を諦めてくれる返事だと思ったから。その返事を期待していた分、彼女からの電話でなかったことに落胆したのは否めない。だけど、それだけのこと。そこに感情が上乗せされることはないのに、イグリットは勘違いしてしまったのだろうか。
「母さん」
「思い当たることがあったのね」
「うん。だから……」
「あまり遅くならないようにね。明日は大阪に行くんでしょう。先方様の迷惑にならないように、しっかりと身体を整えてから行きなさい」
 全てを言わずとも理解してくれる母に感謝しつつ、逸る気持ちはあったが今夜母を誘ったのは自分。帰宅までは完璧にエスコートをしてみせた。母にはらしくないと苦笑されてしまったが。



 深夜、皆が寝静まった後、立ち入り禁止の自宅マンションの屋上に立つ。
 今夜は十日夜の月。
 影は薄く足元に落ちていた。
 遠くで街中を走る車のエンジン音が重なり合うが、この辺りは時折帰宅して行く車の音くらいしか聞こえなかった。
 母を家まで送り届け、その足でここまで来たがいざイグリットを喚び出そうとすると緊張で喉が引き攣れたように痛み、声を出すことに中々勇気が出なかった。けれども、ここでこのまま何もせず時間だけが過ぎていくのをそのままにしておく訳にもいかず、早鐘を打つ心臓を落ち着かせる為に深呼吸を一つする。
「イグリット」
 静寂の中で喚ぶ声は緊張のあまり掠れてしまい、思った以上に周りに響いたように思えた。
 一旦心を落ち着かせようと目を閉じ再び深呼吸をしてから瞼を上げると、視線の先には跪いたままのイグリットがいた。
 いつもと変わらない恭順な姿勢。自分が諾と言わなければ視線を上げることもない、昨日感じた違和感なんて微塵も感じさせない、完璧な従者の姿だった。だから余計に不安になる。
「もしかしたらお前に誤解させてしまったんじゃないかと思って」
 覚悟を決めて言葉を掛けるが、イグリットは此方を見ることなく視線は下げたままだった。グッと喉奥が狭まる感覚に気持ちを奮い起こす。
「昨日、俺が向坂ハンターに言った言葉が気になったんじゃないのか? お前の気に触るようなことを言ってしまったから、あれから俺を見てくれないのかなって思って」
 反応のないイグリットの態度に不安は益々募るばかりで。視線も態度も見せてくれない、こんな時ばかりは直接声が聞きたいと心底思ってしまう。
 自分を見ろと命令することは容易い。だけど戦闘時でもない時に彼らに対して命令をしたいとは思わない。それがイグリットに対してならば尚更だった。
 だから彼が何を思っているのか知りたくて、跪くイグリットに同じように自分も膝を付き、頭を垂れたままの彼の首に腕を回して下から塞ぐように唇を寄せた。前に互いの身体の中を交えれば相手の思考と繋がることが出来ることを知ったから今回ばかりはその行為に縋ろうと思った。
 普段はそんなことをしなくても意思の疎通はできていたが、今はイグリットの方から思考を読み取ることを拒否されてしまっている。此方から掛けた言葉にも何も反応を示してくれないのであれば、それならば自分だって強硬手段を取らせてもらう。
 唇を合わせイグリットの口内に舌を挿し入れる。
 此方から口付けてもイグリットから触れてくることはない。いつもなら腕を取り腰を引き寄せてくれるのに己の身体に触れることすらしてくれない。
 明らかに主従としての距離を取るイグリットに胸が痛む。それでも彼が何を考えているのかを知る為に意識を同調させていく。
「お前があの時何を思ったのかちゃんと教えてほしい。何も分からずこんな風に一方的に距離を置かれるのは嫌なんだ」
 中々意識を合わせてくれないイグリットに焦れて縋るような口調になってしまう。もっと深く意識を合わせなければいけないのかと、気が付けば口内の奥へと舌を潜り込ませイグリットの意識を向けさせようと彼の舌を奪うように絡めていた。
「イグリットッ……」
 胸の痛みに喘ぐような声が出てしまうがそれを気にする余裕もなかった。
 だからなのかは分からないが、そんな自分の姿を見兼ねたのかイグリットが漸くピクリと反応を示してくれた。
「お願いだから」
 切願が届いたのか視線を此方に向けて見つめくれる。それだけで安堵してしまう。
 再び意識をイグリットに同調させる。
 案の定、予想していた通り昨日と今日の言葉を悪い方へと取り違え、主従の距離を図りかねていたと本心を吐露してくる。
 主と自分の想いを交わせることができた僥倖に自惚れていた。それが昨夜の主とあの人間との遣り取りで現実を見せ付けられた気がしたと。影であり駒である自分が人間たちと同じように主に接することが許される筈なかったのだ。身の程を弁えろと冷静なもう一人の自分が嘲るのに反論することができなかった。
 だから一度己の立場を見直す為に以前のように従としての立ち位置に戻る必要があった。それが主の為であれば今の想いを心の奥へと封印することも辞さなかった。
 まさかイグリットがそこまで思い詰めていたとは思わず、その考えに強く反論するように彼の身体を引き寄せる。無理な体勢だったがこのまま倒れてもいい、狡い方法だと思うが自分から距離を取ろうとする彼の行為に掴まえておかなければそのまま逃げてしまうのではないかと危惧した。
 背中から倒れていったにもかかわらず混凝土の衝撃も冷たさも感じることはなかった。その理由は見なくても分かる。
「お前は自分が俺に相応しくないと思っているんだな」
 包み込むような大きな手のひらを背中に感じる。正面からは自分だけを映す強い視線。それだけで胸が熱くなる。
「ごめん……、お前の気持ちに気付けなくて。俺の不用意な言葉でお前を不安にさせた。だけどお願いだから俺のこと諦めないで」
 誰かに感情が動くことなんてこれっぽっちもない。姿を見ただけで胸の辺りが騒ついて感情が乱れるのはお前だけだ。お前だけにしかこんなに感情が昂ることはないんだ。
 イグリットの心を引き止められるのだったら幾らだって自分の感情を伝えられる。だって初めて誰かの心が欲しいと強く思った。簡単に諦められるものだったら自分の影にこんな感情は抱かない。
「イグリットじゃないと駄目なんだ。だから、お前の今の本当の気持ちを教えてくれ。唯の従者に戻りたいのか、これからも俺の隣で歩んでくれるのか」
 狡い言い方かもしれない。でも自分がイグリットに言ってしまえば彼はそれに従ってしまう。命令でなかったとしても求めてしまえば自分の望むようにしてくれるだろう。でもそれだけは絶対にして欲しくなかった。欲しいのは彼の本当の気持ちだから。その結果、唯の従者に戻りたいというのならその気持ちを尊重する。無理強いをしてイグリットとの絆に不和が生じるくらいなら己の感情を心の奥へと閉じ込めた方がましだった。
 イグリットからの応えを待つのが長く感じる。不安と焦れる心に彼の姿を見ていられなくて、冷静さを保つ為に審判を待つ者のように目を閉じる。
 フワリと空気が動いた気配を感じ、その後に包み込むように身体を抱き締める感覚がした。
 瞼を上げると視界に映るのは安寧の闇。
「よかったぁ……」
 思わず口から出てしまった安堵の言葉は、そのまま優しく掬い取られる。
 主がどういう意図で昨夜の言葉を相手に告げたのか分からなかった。分からなかったが、他の者に少しでも関心が向いてしまうことに不安が募った。それが自分と同じ存在ならばどんなことをしても主を渡したりはしない。けれども主と同じ人間だったならば、それは理として正常な流れであり、寧ろ邪魔なのは自分の存在なのではないかと思えた。
 こんな感情を持ったまま再び主と対面することが恐ろしく、姿を視界に映してしまえば感情のままにどうにかしてしまいそうで、その情動を抑える為に下を向き続けるしかなかった。
 流れ込むイグリットの思念に改めて自分の迂闊さを悔やんだ。
「不安にさせてごめん。だけどこれからは不安になったことは教えてくれ。お前にとって主の俺が優先なのかもしれないが、慕う心も大事にしてほしい。心の奥へとしまうんじゃなくて俺に気持ちを伝えてほしい」
 勿論、俺も隠さないから。
 イグリットの肩口に額を寄せて吐息を交えた言葉は夜風と共に闇に混ざり静かに溶けていく。
 今はもう語る言葉はいらない。
 唇に触れるイグリットの指に顔を上げると、丁度視線の先には十日夜の月が淡く闇を照らしている。
 一瞬その月に視線を取られかけたが、夜より深い闇の影が目の前を覆い、視線は直ぐにその闇に溶かされ甘く潤んだ。
 闇の色は濃く、今宵の月の光では到底闇に紛れた二人を照らし出すことはできなかった。
 誰もいない夜空の下。
 二つの影が揺蕩う闇にゆるりと溶けた────。


初出:2020.12.01

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