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114話 ─ 中段 ─

「拙者はもう終わりだ」

 揺蕩う水面のような柔らかな心地のする闇の中で、この世の終わりかと思う程の絶望さえ感じる声がポツリと暗闇の中に落とされる。
 何事かと振り向いた先に見えたのは、我が主の従者の中で最上位の最近従者になったばかりのベルが体を前のめりに蹲ませている姿があった。
 暗闇の中なのに何故か暗雲が彼の周りに見え、蹲った体にはじめったきのこでも生えていような錯覚さえ覚えた。
 何故彼がこんな状態になっているかは此方側から見ていたからおおよその状況は分かっている。
 遡ること数十分前。
 まず始めにいつものようにイグリットが主に喚び出された。
 従者の中で主の信頼が最も厚いイグリット。
 最古参でもあり、実力もベルが入るまではこの中で群を抜いて強かった。
 しかし実力だけで主の信頼を得ているわけではなく、主の言わんとしていることを正確に読み取る器量も抜群に上手かった── 一部の事案について以外は。
 それについては今は関係ないので割愛する。
 そのイグリットが喚び出されてから数分後、今度はベルを喚ぶ主の声が聞こえた。
 自分を喚ぶ主の声に嬉々として外界に出て行ったベル。
 ここの影たちは主を崇拝してやまない者ばかりであるが── 勿論自分もそうだ ── ベルは他の者たちとは違う、もっと狂信的と言うか盲目的に主を奉っているようなところがあった。
 そしてそんなベルが主に名を喚ばれ力を乞われたとなれば、彼のテンションが上がるのも、喜色満面で出て行くベルを他の影たちが生温かい目で送り出したのも、乾いた笑い声しか出てこないことについても仕方がないことだと思ってほしい。
 とまあ、ここまでは日常風景だったりするのだが、今日に限っていつもとは少々勝手が違っていた。
 外界に出てから数分、早々と戻ってきたベルは出て行った時とは正反対に意気消沈としたこの世の終わりのような空気を纏い、その場に蹲ると絶望的な声を絞り出し冒頭の台詞を吐いたのだった。
「王の命令に背いてしまった」
 誰に聞かせるわけでもなく、ベルの独白は続いていく。
「怪我をさせるなと言われた。爪を使うなとも。しかも『やめろ』と言われたにもかかわらず攻撃を止めることができなかった。挙げ句の果てに王自らの御手を煩わせてしまった」
 もうお終いだ……。
 周りを気にする余裕もないのか、地を這うような呻き声を発して蹲り続けている。放っておくとそのまま地面と同化してしまうんじゃないだろうか。
 まあ、主の命令に意図してではないが結果的に背いてしまったのだ、落ち込むのは当たり前だろう。自分ももしそんなことになろうものなら立ち直れない程に落ち込む。
 しかしだからと言っていつまでもそのままにしておくこともできず、また物理的にもその内アイアン辺りが間違って踏みつけていきそうなので、そろそろあの体勢からは戻ってほしい。
 なので親切心では一切ないが誰もあの状態のベルに近付こうとしないので、仕方なく声を掛けることにする。
「そう落ち込むでない。謝罪をした後は叱責されてはいないのだろう。主も怒ってはおらんよ」
 蹲るベルの前にしゃがみ込み、プルプルと震えている触覚辺りの頭部をポンポンと叩いてやる。
 するとそれが合図となったのか、おもむろに顔を上げ縋りつかんばかりに腕を掴まれた。
「溜息を吐かれたんだ。あれはもう拙者に愛想が尽きたってことだ!きっと直ぐに影の解除をされてしまう!!」
 涙こそ流れはしていないし、その顔は元虫だから無表情ではあるのだが人間であればきっと滂沱の涙と鼻水で顔中が大変なことになっているのだろうな、とベルのあまりの剣幕に若干引きつつどうでもいいことを考えてしまった。
「愛想が尽きて溜息を吐かれたわけではないと思うが。それに不要だと思えば主は容赦なく切る御人だ。いまだ解除をされていないということはお主をまだ従者だと認めているということではないのか」
「しかし後から喚ばれ、先の失態について制裁されるのかもしれない。現にイグリットが今喚び出されている。アレも王の望む結果を出せなかったのだ。今頃酷く叱責されているに違いない!」
 イグリットが終われば次は拙者の番だ!
 主の容赦の無さを身を持って経験しているベルには恐怖でしかないのだろうが、うむ……今イグリットが主と対面しているのはベルが考えているようなことで喚ばれたからではないと思う。と言うか十中八九違う。
 しかし、それをベルに説明するのは憚られるし面倒だし、後々支障がありそうなのでここは黙することにする。
 それに今回のイグリットの敗因は相手の力量を見誤ったこともあるにはあるが、どちらかと言えば主の意向を汲み取った結果、相手を傷付けずに振るう剣に勢いを付けられなかったのが原因だろう。
 あの時、主はイグリットにはベルに命令したような指示は下していなかった。それはイグリットならば何も言わなくても主の望むようにできると分かっていたから。今回のことも人間に傷を付けるなといちいち言わなくてもイグリットであれば極自然に実行に移せると当然のように分かっていたから、主は何も言わず、ただ自身の持つ剣だけをイグリットに授けられたのだ。阿吽の呼吸。それはもう経験の差としか言いようがない。
『まあ、主とイグリットであればそれ以外にもあるだろうが』
 それについては今はまだベルに言う必要はないだろう。
 と、話が脱線してしまったが、取り敢えずのフォローはしておいた方がいいと思われるので、当たり障りのない返答をしておく。
「お主は自分のしでかしたことをきちんと認識しておるし、それについて酷く反省もしておる。今回の行動もお主の本能が突発的に呼び醒まされた結果起こってしまったものだ。しかも生存本能は理性でどうにかできるものではない。主もそれを分かっておられるからあれ以上の叱責をされなかったのではないか?」
 主は容赦のない御方ではあるが無慈悲ではない。それよりも本来の主はとても温かい心根をお持ちの方だ。一度の過ちで切るようなことは余程のことがない限りしないと断言できる。
 だが、従者になって日の浅いベルにはその辺りのことはまだ気付けずにいるのだろう。
「同じ過ちをしなければ良いことだ。それでも不安なのであれば直接主に聞けば良いだろう。お主には我らにはない声があるのだから」
 いまだ不安げな目を向けてくるベルの肩を先程と同じようにポンポンと叩いてやる。そうすると幾分落ち着いてきたのか今の今まで掴まれていた腕の力が緩んでくる。
「直接……そのようなことをお聞きしても大丈夫なのだろうか……それこそ不敬になるのでは……」
 いつもの不遜な態度が嘘のようにしおらしいベルにどうにも面食らってしまう。主の命令に背いてしまったことが余程堪えてしまっているのだろう。
「ここで悩んでおっても仕方なかろう。影の解除をされる恐怖に比べれば直接声をお掛けすることくらい大したことではないだろう」
 ほれ行ってこい。
 中々動こうとしないベルにそろそろ焦れてきた──と言うより面倒になってきた──ので、あとは本人に任せる。ここで何も行動を起こさないのであれば、それはそれで特段気にすることでもない。結局仲間であったとしても仲良し小好しをするような仲でもないのだ。一定の距離は互いにある。勿論助け合う事はするが人間たちがするような互いの内情まで踏み込むようなことはしない。
「では我は行くぞ」
 ベルを促し自分も他の者たちの方へと足を向ける。
 すると丁度外界から戻ってきたイグリットと鉢会った。
「ベル、主がお呼びだ」
 言葉少なに我らの側を通り過ぎて行くイグリット。だが落ち込んでいる様子ではない。どちらかと言えば喜色を表に出さぬよう感情を押し殺しているような雰囲気に、やはり自分の考えが当たっていたことに何とも言えぬ複雑な気持ちになったが、そこは取り敢えず今は置いておこう。
「主が呼んでおるのだ、早く行け」
 改めて主から喚び出しを受けたベルは、またしても緊張と恐れでその場に立ち尽くしてしまっている。
 仕方がないと、少し荒っぽいがベルの首根っこを掴むと、そのまま外界に繋がる影の入り口に放り投げた。
「さっさと行かんか。それで主とちゃんと話し合って来い」
 そうベルに告げたが開いた入り口が閉まる前にチラリと見えた光景に身震いする。
 腕を組んで仁王立ちした主とその足元に震えながら土下座するベル。
 主とイグリットの二人きりの時とはまた違った意味で主とベルとの対面もその場にいなくて良かったと心底思った。
 まあ見えた主の顔は怒っているというより呆れているような表情であったから悪いようにはならないだろう。
 そう結論付け今度こそ他の影たちのいる方へと足を向けた。

 その後、此方に戻って来たベルのテンションが色々可笑しかったり情緒不安定だったりしたが、主との対話は上手くいったみたいだったから良しとしよう。
 ベルの主崇拝に拍車がかかろうと、それを見たイグリットの周りの空気が絶対零度並みに凍え、下手に触れたアイアンが氷塊と化していたとしてもそれは影の中のこと。
 主は知らなくていい此方側の世界の話────。


初出:2020.11.26

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